プロローグ2-1高揚感
三都興産本社ビルの地下駐車場で、助手席の生駒延治は居心地の悪さを感じていた。
開発事業部へのプレゼンテーションは初めてのことではない。しかし、出席したのは担当課長である羽古崎健吾とその部下打田愛子だけで、三木次長は冒頭に挨拶をした後、席をはずしたまま帰ってこなかった。
羽古崎の運転する車は、本社ビルを出るとすぐに渋滞につかまった。
「すみませんでしたね」
と、羽古崎が生駒を横目で見た。黙って外を眺めている生駒に、恐縮したのだろう。
「今日は取り込んでいまして。本来なら、中田部に生駒さんのご提案を聞いてもらうつもりにしていたのです。それが中止になったのなら、わざわざ奈良まで来ていただく必要はなかったのですが、三木がご挨拶をしたいと言い出しまして」
プレゼンテーションのテーマである分譲マンションのインテリアデザインについて、羽古崎や打田とは何度も打ち合わせ済みのことだった。
したがって、今日は羽古崎の上司である三木次長に挨拶をしに来ただけのようなものだ。
ただ、生駒はそれを無駄足だったとは思ってはいない。プロジェクトの責任者である中田部本部長や三木次長に直接聞いてもらうセレモニーは、いずれ必要だと考えていたからだ。
生駒が気にかかっていたのは、三木が挨拶をした後で口にした言葉だった。
三木はマンション計画の中身については羽古崎に任せていると言った後、今日から生駒が現場の工事監理に参加することを聞いて、もう少し先でもいいのではないかと言ったのだった。
それに対して羽古崎が問題はないと応え、予定通り現場に向かうことにはなった。
「さっきのあれは、どういう意味ですか?」
「え? あ、まだ早いということですか? 気にしないでください」
渋滞が動き出した。羽古崎が運転に注意を向けた。
車は阪奈道路を跨ぐ立体交差をじりじりと登っていった。
視線が高まるにつれて、奈良市街から遠く葛城や金剛の山並みを見渡すことができる。
そろそろ梅雨が近い。やけに近くに見える山々のみずみずしい緑が、すがすがしい青空に映えて、日ごとに深みを増しているのがわかる。
羽古崎が前の車に合わせて丁寧にブレーキを踏んだ。
「気にするなといわれても、気になりますよね。実を言いますと、現場で近々ちょっとした人事異動があるんです。ですから三木は、新任の者が来てから現場に行っていただいた方がいいのではないかと、気を回したようです」
頷いた生駒を見て、羽古崎が言った。
「現場に行く前に、ちょっとだけ寄り道をさせてください。すぐに済みますから」
奈良市街の中心部を抜けると、国道二十四号線は空いていた。
腕まくりをした羽古崎の細い腕が器用にハンドルを操り、三都興産の社用車である白いセダンは国道を快調に南下していった。西名阪国道の高架をくぐってしばらく進むと西に折れた。
「すぐそこですから」
住宅地に車を乗り入れ、迷うことなく細街路を進んでいく。
新興住宅街とはいえ、二、三十年ほど前に開発された地区らしく、建ち並んだ家々は少々古びている。
それぞれの敷地は六十坪前後あり、いわゆるミニ開発ではない。庭に植えられた樹木もそれなりに育ち、街並みに豊かな印象を与えていた。
「ご自宅ですか?」
「いえ、とんでもない。そんな給料はもらっていませんよ」
まもなく車は、工事用の緑色の養生シートが張り巡らされた一軒の家に近づいた。
ドアに白い桜の花のマークが描かれたトラックが二台が停まっている。いずれの車にも建設資材が満載されている。
羽古崎は辺りを窺うように、ゆっくりとその前を通り過ぎ、ふた筋目の角を曲がったところで車を停めた。
後部座席に放り出してあったかばんからカメラを取り出し、すぐに戻ってきますと車を降りていった。
「お待たせしました。では行きましょう」
ものの一分も経たないうちに戻ってきた羽古崎は、神経質そうにカメラをプレビューモードにして、撮影してきたものの写り具合を確かめてから、車を発進させた。
「シートベルト」
生駒の注意に、羽古崎は、おっと、と車を停め、照れ笑いをしながらシートベルトを引き出した。
「事務所の安全運転管理者ですからね。皆の手本にならなくてはいけないのですが、ついうっかりしてしまって」
羽古崎は先ほどまでとは打って変わって、いつもの饒舌になった。
車は、もと来た住宅街の中を戻っていく。
「昼食、どうされます?」
「お任せします」
「そうですねぇ、沿道にいくらでも食べるところはありますが、これといって旨いところはありません」
羽古崎が思案顔をした。
生駒は早く現場を見たかった。初めて行くのだ。
「会議に遅刻するといけないので、現場に着いてから、どこか近くで食べましょう」
「それがいいですね。活魚料理屋ですが、昼は定食をしている店がありますよ」
「じゃ、そこで。できれば会議の前に、少し現場を見ておきたいんです。今日は私の出番はないと思いますが、一応は前もって見ておきたいので」
「はい。では適当な時刻に食事を切り上げましょう。まだ十一時です。後二十分ほどで着きますから時間の余裕はあります。現場をご覧になるとき、ゼネコンの誰かに案内させましょうか」
「いえ、それは結構です。今回、私は日晃設計の下請けですし、ゼネコンの人たちにまだ挨拶もしていませんし」
厚かましいやつだと思われたくなかったからだが、羽古崎がそれを察して心配そうに聞いてきた。
「日晃設計と一緒に監理業務を進める上で、やりにくいことはありませんか?」
「いえ。いつも気にしていただいてありがとうございます。うまく役割分担しながらやっていますから、ご心配なく」
奈良県中央部の小さな町の市街地で着工された八階建て鉄筋コンクリート造の分譲マンション「ナチュレガーデン大和中央」
その設計は、プロジェクトの立ち上げのときから、日晃設計が受注すると決まっていた。
数年前、三都興産が所有していた土地に隣接する町工場が廃業し、売りに出されているという情報を日晃設計が持ち込んだからだった。
日晃設計は物件の情報を持ち込むとき、二つの土地を合わせてどれくらいの規模のマンションが建設できるかというヴォリュームスタディを、すでに行っていた。
三都興産は、その提案を受け、すぐに分譲マンション開発を行うことを決め、町工場の土地を買い上げたのである。
生駒が設計作業に参加したのは、日晃設計が基本設計を終えた頃のことだった。
三都興産が日晃設計に、生駒をインテリアデザイナーとして協力させることを申し入れたのだ。
その頃、生駒が設計を手がけた三都興産の別のマンションの売れ行きが良く、特にインテリアの評判が高かったからである。
三都興産の申し入れは、日晃設計がモノ・ファクトリー、つまり生駒が主宰する設計事務所を下請けとして使うということで決着した。
生駒も、住戸のインテリア設計だけではつまらないとは思ったものの、日本でも指折りの大手事務所である日晃設計とのネットワークができればそれもいいと考えて、下請けという立場を受け入れることにしたのである。
「日晃設計の藍原さんも仕事熱心な方ですし、私がこうしてクライアントの羽古崎さんと直接打ち合わせをしても、嫌味のひとつもおっしゃりません。事情はよく理解していただいてます」
生駒はほがらかに言ったが、羽古崎はまた、すみませんと謝った。
この変則的な仕事を請けることにしたのは、別の理由もあった。
懐かしさに縁取られた久しぶりに抱く特別な関心。
そして淡い期待に、くすぐられたからである。
生駒は現場に近づくにつれ、三木の言葉を忘れ、車窓から見える奈良盆地を縁取る低い山々を眺めながら、静かに沸き起こってくる高揚感を楽しんだ。