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21 標識ロープ

 パーティのデリバリーは行武食堂だった。食材、飲み物、食器の調達から調理、会場の設営まで、すべて任せておけばよかった。

 若いからといって、あるいは女性だからといって昼間から買出しに出かけたり下ごしらえをしたり、飲み食い談笑どころか延々と煙と立ち向かうだけということはなかった。

 むろん、現場には女性は香坂しかいないし、若手所員の黒井は入院中なのだから、身内で段取りをするのは無理がある。


 パーティは、気がかりで不自然で漠然とした不安を抱かせるただひとつの出来事を除いては和気あいあいと進み、誰もが満足して帰路についた。

 そのはずだった。

「大矢。早く来い」

「くそぉ! 冷たいやつらや!」

 お開きとなった後、ハルシカ建設の職員らは駅前のカラオケスナックで二次会をすることになり、三々五々現場から出て行った。

 唯一人残されたのは大矢。

 パーティの責任者ということで、最後に現場の戸締まりをする役が残っていた。


 行武食堂の雇用人たちの片付けの手際はよかった。

 パーティの残り香は急速に消えていき、会場となった広場は、いつもの見慣れた殺風景な空間に戻りつつあった。

 臨時に取り付けた数基の工事用照明に白々しく照らし出された簡易アスファルトに、こぼれたタレやビールが染みを作っていた。それだけが宴のなごりを留めていた。


 行武が事務所に顔をのぞかせた。

「片付けが終わりました。本日はまことにありがとうございました。また、何かございましたらよろしくお願いいたします」

「ご苦労さまでした」

「請求書は、後日お持ちいたします」

 そう言って深々と頭を下げて出て行った。

「さ、行くか」

 大矢は声に出してそう言い、携帯電話をジャケットの内ポケットに差し込んだ。

 カラオケなど、それほど行きたいわけではなかった。

 もうカラオケで体をくねらせて歌うような年齢ではないし、涙するほど思い入れのある曲もなかった。

 コピー機の電源を切り、事務所の照明を消して回った。窓はすでに施錠し、換気扇も止めてあった。


 若槻の机の上に置いてある茶封筒に目を留めた。

 薄っぺらの封筒の表に、生駒様と書かれたクリーム色のメモ用紙が貼り付いていた。

「ええかげんなおっさんや。いったいどこに行ったんや」

 毒づきながら、現場事務所の鍵を閉め、ロビーを横切っていった。


 事務所は昨日プレハブ小屋から、マンション一階の集会室となる予定の空間に移設していた。

 ロビーはかなり広いがまだ何の内装も施されていないため、がらんとした埃っぽい空間で、薄暗い。

 トイレの照明がつけっぱなしになっていた。ロビーの奥に小さな光が流れ出していた。

 コンクリートから発散される独特の臭気が満ちた空間に、大矢の足音が響いた。


 赤い一斗缶から、猛然とタバコがくすぶっていた。やかんで水をかけると、嫌な臭いが鼻を突いた。

 トイレの照明を消すと、あたりは闇に包まれた。

 ちっ、と大矢は舌打ちをした。事務所の電気を消す前に、こっちを先に消せばよかった。トイレの脇から駐車場に出るのが早いが、資材が積まれたところを通らねばならない。暗くて危険だ。

 タバコが確実に消えたかどうかを確かめるのを待ちながら、大矢は辺りを見渡した。

 つかんだ単管はひやりとして気持ちが良かった。ロビーの奥の床に穿たれた穴の周りに張り巡らされた落下防止用の柵である。穴は、地下に資材を搬入するために空けられてあるもので、数日後には閉じられる。

 カラオケには遅れていけばいい。

 どうせ、自分には歌える曲はひとつしかない。


 ロビーは吹き抜けになっている。

 北側に大きな窓があり、神社の木々が黒々としていた。


 栗田から聞いた話が気になっていた。

 大矢は、いくつかの疑問を繋ぎ合わせるシナリオを考えていた。

 自分が考えたひとつの推論。

 スタートは辻褄合わせであっても、導き出された答えはもう別の解がないと思えるほど、ぴったりくるものだった。

 これしかない。

 どうして確かめるか……。栗田に話すか……。

 話してからどうする……。


 大矢は、はっとした。

 喉の奥に込み上げてくるものがあるのを感じた。

 辺りに充満したタバコの煙のせいではない。

 酔いのせいでもなかった。


 柵を強く握り、穴に身を乗り出し、目を大きく見開いた。

 覗き込んだ下は真っ暗だった。

 目が慣れてきた。

 穴の中に横たわっている異質で見慣れないものの輪郭だけでなく、細部まで徐々にはっきり見えてきた。

「うわっ!」

 やかんを放り出し、上着の内ポケットから携帯電話を取り出そうとした。

 やかんがけたたましい音をたてて転がった。

 アンテナがポケットの口の縫い目に引っかかった。

 むしりとるように強引に引っ張り出した手が震えていた。

 電話を穴の中に取り落としそうになった。

 急いで穴から離れ、体の向きを変えて救急の電話番号を押すことに集中した。


 大矢の足元、床に穿たれたままの穴の底、地下一階のコンクリートの床に、若槻が横たわっていた。

 作業服の背中についた血。

 横を向いた頭の下には小さな血溜まり。

 乱れた髪が血糊でべったりと頭部に貼り付き、後頭部が陥没していた。


 黄色と黒の縞模様のロープ。

 工事現場ならどこでも見かける、標識ロープと呼ばれるもの。

 若槻の体の上から辺りの床にかけて、無造作に放り出されたように長々と伸びていた。

 ただ、一方の端は若槻の首に食い込み、もう一方の端は強い力で引きちぎられたかのように、よりあわされた繊維の束が一メートルほどの長さにわたって三つに分裂していた。

 見開かれた若槻の目が床の血溜まりを睨んでいた。


 再び穴の上から見下ろした大矢の目には、もはや手遅れだと映った。

 不意にまた血の匂いを感じた。

 大矢は警察の番号を押した。


 警察が到着するまでに、大矢の急報を受けた同僚達がとって返してきた。

 あわただしく現場中の照明がともされ、大阪支店や本店に連絡がとられた。

 田所がパーティの参加者名簿の代わりに名刺をコピーし始めた。


 大矢がもし一億人にひとりというような特別な感受性の持ち主なら、人間の耳では聞こえない声が聞こえたかもしれない。

 生あるものが発する声を。

 それが生き物であれ、木々であれ、はたまた霊や妖怪といわれるようなものであれ。

 しかし、大矢も耳には、近づいてくるサイレンの音しか聞こえなかった。

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