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19 スルメ

 木曜日、大矢は残業していた。

 事務所に残っているのは大矢と香坂。

 壁の時計が八時半を指していた。そろそろ帰るかと思い始めたとき、扉が開いた。

「おぅ! まだがんばっていたか」

 若槻だった。

「お帰りなさい。明日の資料、できてます」

 若槻は机の上に大矢が置いておいた封筒の中身を確かめると、ほがらかに言った。

「鈴木は完璧な段取りをしてくれていた。俺が地元の出身者だと知られていないようだったし、近隣も矛の収めどころを求めていたようだ」

 若槻は鈴木とともに、近隣への説明に出向いていた。

 数日前の突風で現場からゴミが飛散した、というクレームが来ていた。

 クレームの元は、梱包用の大きなビニール袋が飛んだことがきっかけではあったが、実際のところは、作業員が道端に座り込んで休憩しているとか、工事車両のタイヤに付着した泥が道路を汚しているなどといった日常のささいな不満が、小さな爆発を起こしたのだ。

 確かに、現場の風紀は少し緩んでいた。


「織田には話しておいてくれたか?」

「はい。注意しておきました」

 飛散した大きなビニール袋は、内装工事で使用したカウンター材を梱包していたものだった。

「それで?」

「ゴミを飛散させた直接の責任は、中桜工業にあるようです」

「うむ」

「所長がおっしゃるように、織田部長がわざとしているというようには見えませんでした。これだけ注意しても改善されない、というのはどうかと思いますけど……」


「ま、あいつ、俺の言うことは聞けないということだろ」

「しかし、それほどあからさまに現場の所長にたてつく、ということがあるもんでしょうか」

 若槻がフンと鼻を鳴らした。

「いくら自分が加粉部長にかわいがられているからといって、仕事は仕事、というように考えるもんじゃないでしょうか」

「普通の神経ならそうだな。しかし織田工務店と中桜工業は白井の業者だ。現実には、汚い世界もあるということだ」

 若槻の言い方には、かすかに楽しんでいるようなニュアンスがあった。

「織田はなにか言っていたか?」

「いえ、特には」

「なんだ。叱り飛ばしただけか?」

 若槻が目の隅で笑った。


「そんなことはありませんよ。所長のお教えのとおり、きついことを言った後には世間話もして、根に持たれないように関係修復してますよ。中桜工業の石上さんを子供のころから面倒みてやっているんだとか。そんな話を」

「そうか。大矢、ちょっと相談がある」

「はい」

 大矢は若槻の目を覗き込んだ。

 上から目線にならないように、背をかがめて。

「織田工務店と中桜工業はこの仕事から下りてもらおうと思っている。おまえはどう思う?」

「えっ」

 大矢は、若槻のストレートな発言に驚いて背筋を伸ばした。


「特に中桜工業はな」

「はあ」

「あの会社がどうこうというわけではないが、ここに出入りしている担当のやつが気にくわない」

 大矢はうかつなことはいえないぞ、と慎重に言葉を選んだ。

「しかし、それでは現場が」

「動かないといいたいのか? すでにプラス工務店に話はつけてある。ついでにコストダウンもできるぞ」


 プラス工務店は、若槻お気に入りの業者だ。加粉一派が使う業者を排除して、自分の業者を使おうというのだ。

 確かに、腕はいいし、会社の規模も大きくて、現在的なスタイルで仕事も速い。

 中桜工業とは一枚も二枚も上手の業者だ。

 相談だとはいいながら、若槻はすでに決めているのだ。反対する筋合いはないし、所長が決めればいいことだ。

「いつからバトンタッチするんですか?」

「来週からだ」

「えっ、そんなに早く。今日はもう木曜ですよ」

「まだ誰にも言うなよ。明日は焼肉パーティーだ。にこやかにシャンシャンとやって、明後日の土曜日に鈴木に伝える。あいつから織田工務店と中桜工業に話を付けさせる」

 現場が休みの土曜日に呼びつけるというのだ。

 若槻がにやりと笑った。


 大矢は、若槻がそんなことを自分に話してくれたことに、うれしい反面、一種の恐怖を感じた。

 若槻が波風を立てれば立てるほど、社内で自分に貼られた若槻派のレッテルは強くなっていく。

 勘弁して欲しい、という気持ちが湧いたが、若槻に訴えるわけにもいかない。

 と、香坂の存在が気になった。

 一心不乱にパソコンに向かっているが、今の話は聞こえていたはずだ。


「ところで、鈴木課長は?」

 白井の部下である鈴木に聞かれたらまずい話をしている。

 香坂は契約社員でもあるし、若い。社内の加粉派や若槻派ということも知らないかもしれないが、万一鈴木の耳に入るようなことになれば、若槻は上層部からまた呼び出しを受けることになるだろう。

「そのまま帰ったよ。さーて、ビールでも飲むか」

 若槻が事務所の隅に置かれた冷蔵庫から、缶ビールを二つ取り出した。

「おまえも飲むだろ」

 そう言って大矢の机に一本置くと、かばんから引きずり出したコンビニの袋をさかさまにして、中身をミーティングテーブルの上にぶちまけた。

「ほれ、乾きもんシリーズ。なんでもあるぞ」

 大矢は、話題がそれていきそうでほっとした。

「もし僕が、もう帰っていたらどうされるつもりだったんですか。このえびせんやスルメ」

「ハン! おまえがそんなに能率よく仕事ができるとは知らなかったな」

「なにを言ってるんですか!」

 若槻も大矢も、缶ビールに口をつけた。


「ところで所長、黒井の事故のことを、本当はどう考えておられるんですか?」

 大矢は自分から話題を変えた。

「ん?」

「足場板が簡単にはずれるなんてことは考えにくいし、不自然やと思うんですが」

 若槻はなにも言わずに、大矢を軽く睨んで一口チーズの袋を引き裂いた。

「単なる事故じゃないんじゃないか。そう考えたくないですか?」

「なにが言いたい」

「きちんとした調査をする方がいいんじゃないでしょうか。もしかすると、もう始めておられるのかもしれませんが」

 若槻がおどけた顔をして、手に持ったスルメを指先でくるくると回した。

「単なる事故じゃないとすれば、なんなんだ?」

 若槻がスルメを振り回している限り、軽い調子で話ができる。

「誰かが仕組んだことだとしたら?」

 ニヤリと笑って、

「誰かって、誰だ?」

と、若槻は冷蔵庫を開けて二本目の缶ビールを取り出した。


「いえ、それを調査……」

「想像力は、現場では重要だ。優秀な安全管理者になれるぞ」

「でも、どう考えても」

「あれは単なる事故だ。金具の締め付け不良だったということ」

「んー」

「ところで大矢、おまえ、最近ますます太ったんじゃないか。嫁の来手がなくなるぞ」

「げっ」

 大矢は大げさに頭に手をやり、若槻を糾弾するように指先を振ってみせた。


 しかし若槻は大矢が期待したほど反応しなかった。

「もう気にするな」

 きっぱりといい、香坂に声を掛けた。

「香坂君。あまり根をつめると美容に悪いぞ。母乳の出も悪くなるぞ」

 香坂は聞こえないはずはないのに、無視している。

「ちょ、ちょっと、所長、それは」

「すまんすまん。セクハラ発言だったな。こっちに来て、一緒にやろう」

 大矢は、黒井の件について若槻が隠していることがあるように感じたが、それ以上、話題にすることはしなかった。

 若槻が会議用資料の内容について、質問を始めたからだった。



 金曜日。

 現場で開催される焼肉パーティの開始まで、まだ時間がある。

 打ち合わせも済んで、なんとなく手持ち無沙汰。

 懐かしい街並みでも見て回ろうかと生駒が現場を出たところに、綾から電話がかかってきた。

「おじさん。今日も行ってもいい?」

「いや、今日はダメだ。現場で焼肉パーティだから。帰りは遅くなる」

「いいよ。優お姉さんと待ってるから」

「ううん。それもだめなんだ。優もたまには歌手仕事もしてるみたいで、今日は生意気に東京出張だってさ」


 綾はこのところ、十日に一回位のペースで生駒の部屋に来ては泊まっていく。

 生駒はそれがうれしくてたまらないのだが、綾からの連絡は常に突然で、「今から行く」なのだ。

「じゃ、焼肉パーティに入れて」

「おいおい」

 押し問答をしているうちに、

「だって、もう近鉄電車の乗り場まで来たよ」だ。

「今、どこにいる」

「もちろん京都駅。おばさんにも、今日はおじさんのところに泊まるって、もう言ってある」

「うーん」

 困る。

 いや、現場の慰労と懇親のためのパーティだ。少々人数が増えたからと言って、なにも問題はない。

 仕事場に女の子を連れてきた、と思われるのがいやだ。

 いや、いやなわけでもない。なんとなく自慢したい。

 そうだ、娘だといったら、若槻はどんな顔をするだろう。案外、面白いかもしれない。

 香坂も綾の相手をしてくれるかもしれない。


 というようなことを考えてしまった。

「おじさん、今日はどうしても話したいことがあるの」

と、綾が追い討ちをかけてくる。

「話って?」

「とっても大事な話。だから、切符、どこまで買えばいいの? 早くしないと急行が行ってしまう!」

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