18 ニュートラル
「佐野川さんは白井さんの部下だった人なんですね。つまり加粉派。彼も、初めの頃はあの現場にいたんです。なのにどういうわけか、昨年の秋ごろ、大阪支店へ転勤になって、若槻所長の下で働くことになった。でも、ひと月も経たないうちに子会社に転籍。うまくいかなかったんでしょうね」
生駒は、藍原の佐野川批判を思い出した。
パチンコ狂いと吐き捨てるように言ったときの口調も。
「つまり、若槻さんは佐野川さんを追い払ったってことか」
「ストレートな言い方ですね」
「君の話は、そういうことだろ?」
「まあ、そういうことでしょうね。どんな原因があったのかは知りませんけど。彼に聞いてみたこともありませんし。でも私、時々はプライベートなところで顔を合わせることはあるんですよ」
「佐野川さんに?」
「私、ボクササイズにはまっているんです。阿倍野のジムに通っているんですよ。佐野川さんも、たまたま一緒のクラス」
「へえ!」
生駒はあざやかな話の展開を喜んだ。
「空手の次はボクササイズか。おもしろそうじゃないか」
「あ、先生、空手のこと覚えてくれてたんですね!」
「そりゃそうさ。かわいい教え子だからね。黒帯だって言ってたよね」
「わ、うれしい! ね、先生も一度、いかがです? ボクササイズ。気分転換に最高ですよ。私が入っている金曜日のクラスは初心者向けのクラスですから、一回だけの体験っていうのができるんですよ。私がエスコートしてあげます。バーっと汗をかいて、とてもいい気分になれますよ」
香坂が小さくパンチのポーズをとってみせた。
「あっ、そうだ」
水色のバッグからジムのパンフレットを取り出した。
「ここに写真があります」と、広げてみせる。
「いや、遠慮しておくよ」
自分が若い女の子達にまじって、パンチングボールを叩いている姿は想像できなかった。
香坂や佐野川が一緒ならなおさら、腹の出かかった中年のおっさんの妙な格好を見せるわけにはいかない。
「ジムで佐野川さんと話をしたりする?」
「挨拶くらいは」
「ん? 苦手なわけ?」
「彼のことが? ま、あんまり気にしないでください」
「君は奈良本店籍だよね。加粉派ということかな?」
「まさか! 私はどちらにも属していませんよ。私だけではなくて、若い人はみんな」
「そう思ってるだろ。ところが、組織人であろうとすれば、いつのまにか組み込まれているものなんだ。仕事のための組織ではなくて、誰かの権力を維持するための組織にね」
生駒はちょっと茶化してやろうとして、あえて説教臭い言い方をしたつもりだった。
ところが香坂は真に受けたのか、反撃してきた。
「でも、私は誰かのために働いているわけじゃありません。自分のために働いているんです」
生駒は自分のため、という言葉が嫌いだった。
ついそれを指摘したくなった。
まだ専門学校の先生という意識が抜けないでいるのかもしれない、と思ったときには言葉が口から出ていた。
「自分のために働いている人に、誰も金はくれない」
香坂は自分の失言に気がついたようだ。
だからといって、安易に生駒に従う気持ちはないようだ。
「そうですね。言い直します。組織貢献のためではなく自分の仕事として取り組んでいるつもりです」
「うん。でも、そういう人ばかりじゃない。サラリーマンがいたるところで仕事の愚痴を言いあっている。そのほとんどは妬みだな。上に立つ人も、部下を仕事の優秀さではなく、自分にとって都合のいい人間かどうかで判断する。もちろん極論だよ」
香坂は、今度は素直に頷いた。
「そうかもしれませんね。私は契約社員ですから、自由な気分で仕事をしているつもりですけど、他の人はそうでもないみたい。組織変更や人事異動があったりすると、自分の仕事に直接関係ない人まで、さも重大事のようになんやかやとささやきあっていますからね」
「その加粉という人や若槻さんも佐野川さんも、そんな呪縛から逃れられないんだろうな」
「サラリーマンだから?」
「人に使われる身だから。そして誰かが誰かを評価する。自分で自分の給料を決める権限はないんだから」
「厳しいですね」
香坂が疲れたように目の前の料理に目を落とした。
「ごめん、つまらないことを言い過ぎた。ところで、さっきの話の続きは?」
「えっと」
「若槻さんと佐野川さんの関係。佐野川さんが若槻さんを恨んでいるということ?」
「うーん、それは大げさかもしれませんが、好きではないんでしょう。先生、若槻所長と佐野川さんの関係に興味があるようですね」
「いや」
そんなことに興味はない。
またつまらない話に水を向けてしまった、と思ったが、香坂の次の言葉に驚かされることになった。
「例えば、誰かがわざと足場板がはずれるようにしておいたとか? 先日もそんなことを考えておられたのでしょう? まさかその誰かは、佐野川さんかもって」
「いや」
そこまでは考えていなかった。
腑に落ちないのは確かだが。
ただ、たいして重要な関心事ではない。茶飲み話のついでみたいなものだ。しかし香坂にそう言うわけにはいかない。
話題を変えたいと思ったが、香坂の舌は休もうとはしなかった。
「事故でなかったとすれば、誰かが仕組んだわけですよね。誰かを狙ったということでしょう?」
事件性があるという言葉を、香坂は先日からずっと考えていたのかもしれない。
自分の問いに自分で応えて頷いていた。
「そうですよね。私も大矢さんとそんな話をしました。黒井さんが狙われたのか、若槻さんが狙われたのか、あるいは誰でもよかったのか」
この賢そうな女性と、物事を斜めから見ているようなあの大男が、どんな話をしたというのだろう。
「それで、大矢さんとの話の結論は?」
「結論はなし。サラリーマンの愚痴みたいな程度の話ですから」
と言いながら、香坂がまた話を展開させた。
「最近ちょっと変なことがあるんです。変っていうより、いやなことかな? 黒井さんの事件とは関係ないかもしれませんけど」
ワイングラスを手にし、座りなおした。
「現場が、なんて言うか、乱れてきているんです。作業員の意識が下がってきているというか」
「ああ、聞いた。近隣からクレームが来たらしいね」
「ゴミが散乱しているというクレームだったんですけど、それ以外にも作業員の不法駐車とか、近隣の人たちへのマナーの低下とか、くわえタバコとか遅刻とか」
「うん」
それは生駒も耳にしていた。
「若槻所長は厳しく注意されているんですけど。なんていうのかな。不穏な感じ。現場所長が替わったからといって、急にそんなことになるなんて考えられないでしょ。先日なんか、若槻所長が上層部に呼ばれて注意を受けたんですよ。でも、そもそも現場のそういう細々したことが上の耳に入ること自体、変だと思いませんか?」
生駒は返事のしようがなかったが、香坂がなにを言おうとしているのかはわかった。
「さっき君が言った加粉派っていうのが関係してるってこと?」
香坂がきっぱりと言った。
「私、ああいう権力争いって大嫌い。ほんとに情けない。あからさまな足の引っ張りあい。若い人はみんな辟易しています。プロジェクトの遂行より、人を蹴落とすことに一所懸命な人たち」
生駒は頷いた。
「若槻所長はとてもやりにくいと思います。業者もすべて白井前所長からの引き継ぎだし、現場のメンバーにも白井さんの部下がまだいるんですから」
「白井さんというのはいわゆる加粉派?」
「そうです」
「そもそもその加粉派から若槻派にバトンタッチした理由ってなんだい?」
「えっ? あっ、ご存じなかったんですか」
生駒は、そういうことにはあまり関心がないからね、と言い訳をした。
「私も関心はないんですが、その場にずっといると、いろいろ耳に入ってきますから」
「で?」
「お金にまつわる汚いことがあったそうですよ。白井さんの時代に。それで交替」
「へえ」
「でも、ありがちなことだって、聞きました」
「どんなこと?」
「詳しくは知らないんです」
香坂の話は核心を突かず周辺部をまさぐっている。
生駒は反応することに徐々に疲れてきた。
少し投げやりな言い方になった。
「それで、鈴木さん、根木さん、君の三人が白井さん時代からの残留組ってことだ」
「ええ。私はニュートラルですけどね」
香坂も負けじと突き放したような言い方をした。
生駒は香坂が話したかった結論を先回りした。
「つまり、現場の不穏な空気も、それを上司に注進したのも、その残留組だってことかな? そしてその現場の乱れが、結果的には黒井さんの事故に結びついてしまった。そう言いたいんだね?」
香坂は首を縦にも横にも振らなかった。
「あるいは足場板がはずれたのは、残留組が意図したことだったとか?」
生駒はきわどいことを言ってみた。
しかし、香坂はさすがに居心地が悪くなってきたのか、あるいは図星だったのか、生駒の質問を無視すると携帯電話を取り出し、いくつかボタンを押してから好きな球団はどこかと聞いてきた。
「大阪人だからね。阪神」
「よし! 今日も勝ってますよ。ほら!」
と、携帯電話のディスプレイを生駒に向けた。