16 踏み絵
翌日。
香坂からメールが届いた。
三人で、現場を見て回っておられるお姿をお見かけしました。
帰ってきた大矢さんは、喜んでたみたいですよ。
あの人、誰彼なしにののしるのが信条なのに、生駒先生のことはいいみたい。
これから、石上さんも含めて二人三脚ですね。
現場は人で決まる。共通の目的を持つもの同士として、人と人の関係がうまくいくならいい仕事ができると、先生がいつもおっしゃっておられること、私も、そのとおりだと思います。
現場で、どんどんいい人間関係を作っていかれるのですね。
お弁当屋さんとも仲良くなられたとか。
私も見習って、この現場で大切な友人や仲間を作りたいと思います。
生駒は、香坂の今回のメールは小学生の読書感想文のようだと思った。
それでも、仕事上の関係だけでない友人を作りたいよね、クライアントとの関係も同じだよ、と書いて返信した。
追伸に、君とも会えてうれしかった、と書きかけて削除した。
久しぶりに生駒は三都興産の本社ビルに出向いた。
打ち合わせの間中、羽古崎は硬い表情を崩さなかった。
「どこか具合でも悪いんですか。今日は元気がないですね」
羽古崎は心ここにあらずといったふうで、検討の上で後日答えるという項目が多かった。
「いえ、そんなことはないですよ」
と、羽古崎があいまいに笑った。
羽古崎の態度がいつもと違うのは、プライベートなことかもしれない。
否定されるとそれ以上に突っ込むことはできない。それでも生駒は言った。
「先日から現場の定例会議にも出て来られませんね。羽古崎さんが来られないと、問題点がその場で解決できなくて、皆が困っています。打田さんもそうでしょ?」
最後の言葉は、羽古崎の代理という立場で定例会議に参加している女性に向けたものだ。
しかし打田はあいまいに頷いただけだった。
「すまないと思います。打田君が決めてきてもいいんですが、まだ半人前ですから。生駒さんや皆さんの中で勉強してきなさいと言っているんです」
「いえ、がんばってられますよ」
生駒はあわててごまかしたが、打田は黙って下を向いていた。もっと積極的に会議をリードするべき立場だと、わかってはいるのだ。
打田が根木とやりあっているのを見たことがある。
手馴れた現場の男と対等にやりあうのはまだ無理なようで、顔を真っ赤にしながら自分は正しいことを言っているとばかりに追及したものの、現場は根木らの手で動いている、という事実を思い知らされただけで終わったようだった。
「打田さんはまだ二年目なんですから、羽古崎さんと同じようにやれと言ってもちょっと、ね」
打田の肩を持つように言ったが、打田は小さな声で、がんばりますと言っただけだ。
「次回の定例会議には、出てきてくださいよ。羽古崎さんが出てこないと、なんというか、物足りない気がしますよ」
そんなおべんちゃらには反応せず、羽古崎は考えておきますと応えて席を立った。
「おまえ、今から体空いてるか?」
大矢が現場事務所に戻るなり、鈴木に声を掛けられた。
喜びに溢れた張りのある声をしていた。
「はあ」
「さっき本社秘書室から連絡があった。副社長が視察にみえられる。他に誰もいないので、俺とおまえで対応しよう」
「何時にですか?」
「もうそろそろだ」
「また急に。なにかあるんですか?」
鈴木はそんな質問には答えず、会議室を清掃するように女子事務員に命じ、自分は机の上に乱雑に積み上げた書類の束を引き出しの中に詰め込み始めた。
副社長の板垣は加粉を伴って現れた。
板垣は社内では数少ない技術畑出身の重役で、差し出されたヘルメットを抵抗なくかぶり、慣れた手つきであご紐を締めた。
鈴木が考えた現地の案内は三十分ほどのコースだった。
案内の間、鈴木が現場の状況や工夫している点などを説明しながら、板垣に張り付くようにして歩いた。
大矢は無言のまま、加粉と肩を並べて二人の後ろをついていった。
内装工事が急ピッチで進められている四階の住戸の中で、鈴木が板垣に説明している間、加粉は廊下に残り、養生メッシュ越しに町を見渡し始めた。
大矢がためらいがちに横に立つと、話しかけてきた。
「大矢君。君は元々、箕面の現場を担当していたんじゃないのか?」
大矢は他部署の本部長が自分の担当現場を知っていたことに驚いた。
しかも、小さな個人オーナーのレストランの現場だ。理由があって調べたに違いないと考えると、つい身構えた。
「はい」
「黒井君のピンチヒッターか」
「はい」
「あの現場より、こっちの方がやりがいがあるだろう。僕もああいう新人向けの現場に、君のような人材を使うのはどうかと思っていたんだ。よかったじゃないか」
「はあ」
大矢は手の平に汗がにじんできたことを感じた。
若槻に操を立てる意図はないが、この現場にいる限り、加粉におべんちゃらを使うわけにはいかない。
加粉にもそういう自分の気持ちが十分わかっているはずだ。
軽く自分をテストしているのだと思った。
「今日、若槻君は出張だろ。たまには羽を伸ばして、というところだな」
若槻が羽を伸ばしていると言いたいのか、鈴木や大矢が鬼の居ぬ間にくつろいでいると言いたいのか、わからなかった。
「副社長をお連れするのは、今日のようなすがすがしい日がいいだろ」
加粉はそう言って大きく息を吸った。
自分は副社長を動かせるんだと自慢しているのだ。
板垣副社長はこの現場の責任者である若槻なんか眼中にないんだぞと、言っているようにも聞こえた。大矢は黙っていた。
「クレームが続いているそうじゃないか」
これは大矢も含めた現場の所員に向けられた非難だ。
これには黙ったままでいることはできなかった。
「近隣にうるさい人がおりまして。鈴木さんがうまくまとめてくれましたが」
「ああ。途中からこういう大きな現場を引き継ぐのは、若槻君にはむつかしいのかもしれないな」
上司が無能呼ばわりされていた。
大矢にとっても侮辱だった。
あるいは踏み絵かもしれない。
大矢は意識して口を閉ざした。
ここでつまらないことを言って、言質をとられたらかなわない。
板垣が早く部屋から出てきて、この会談を中断してくれることを祈った。