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13 サンプルの束

 事件性という言葉に対する生駒の反応が、強すぎたのかもしれなかった。香坂の、会社員として防衛反応が働いたのだろう。

 生駒は立ち上がって、中元でもらったクッキーの缶をブックシェルフから下ろした。

 香坂がコーヒーカップにようやく口をつけ、「冷ましすぎた」と笑った。

「温めようか」

「いえ。そんなことをしたら、また飲めなくなってしまいます」

 生駒は袋入りのクッキーを二つずつ、コーヒーカップの横に置いた。

「ところで、石上さんも気の毒だったね」

「本当に……」

「お母さんは自殺されたそうだね」

 香坂がさっと生駒を見たが、すぐに目を落とした。

「勤め先から解雇されて」

 石上の不幸を、香坂との雑談のネタにしようとしたわけではなかったが、仕入れた話をつい披露してしまった。

 香坂はうなだれたままだ。


 人の陰口を叩いてしまった自分が情けなくなった。

「石上さんは親切にしてくれるし、仕事熱心な人だ。気持ちがふさいでしまわなければいいのに。本当にそう思うよ」

 生駒は体勢を立て直そうとした。

 別の話題を探そうと、書棚に眼をやった。

 頭に浮かんだことは、住宅の内装部材に含まれる化学物質による健康被害の云々とか、日本の林業の儲からない現実云々とか、流行の屋上緑化に適した軽量土壌と乾燥に耐える植物云々。

 どれもおもしろい話ではない。少なくともロマンティックな話題ではないし、夢のある話でもない。


 再び口を開く前に、香坂が聞いてきた。

「石上さんから、お聞きになったんですか?」

 生駒の陰口を許さないらしい。口調に厳しさがあった。

「いや。坂本さんがそんなようなことを」

 中桜工業の坂本から耳に挟んだ話は、石上の母親が住み込みの家政婦としてご隠居さんの世話をしながら、少しずつ金を掠め取っていたらしいということだった。

 しかし、そんな噂話を香坂に披露できるものではない。

「そうですか……」

 顔を上げた香坂の目に、非難の色がのぞいていた。

「ところで、香坂さんはあの現場に来る前、どこの現場にいたのかな」

 苦し紛れの世間話的話題転換に、明らかにホッとしたように、香坂がクッキーの小袋を開けた。


「現場に出ろといわれたのは、今回が初めてなんです。それまでは技術研究所というところにいました。奈良本店の中にある小さな部所なんですけど、このご時世じゃないですか。研究なんかやってないで前線に出て働け、ということなんでしょう」

 もとの明るい声に戻っていた。

 クッキーをパクンと口に入れ、おいしいと微笑んだ。

 できるだけ無表情を作り、内心を悟られまいとする人が多い中で、香坂のように好き嫌いや喜怒哀楽がはっきり顔に出る人は貴重な存在だ。

 生駒はそんな香坂の若々しさが好きになっていた。

 生駒もクッキーの袋を開けた。


「へえ、契約社員でも?」

「そう。派遣契約では、研究所のメンバーの補助として図面を描くという仕事だったんですけど、人が現場にどんどん出て行ってしまって、いつのまにか開店休業状態。で、私も現場に出ろということになったんです。あの現場でも、初めの頃は社員の方もひとりおられて、ふたりで図面を描いていたんですけど、最盛期を過ぎたら私だけとり残されてしまって」

 香坂が声をあげて笑った。


「ふーん。そういう場合、契約違反とかなんとかで、派遣を取り止めたりすることもあるって聞いたけど」

「そういう場合もありますけど、私も勉強になるし、楽しんでますから」

 瞳がくるくると動き始めた。

「建設業界にいるといっても、本当のことって、なかなかわかりませんよね。でも、こつこつ自分の仕事をしながら感じることがあるんですよ。楽しんでいるなって思うのは、そういうなにかを感じたとき」

「そうだね。例えば、最近、どんなことを感じた?」


 一般論が好きな人がいる。

 いつも大所高所に立って社会の矛盾を嘆き、問題点を列挙してみせる人だ。

 他方、そういういわゆる自称論客を嫌い、同じテーマで話すときも、常に自分の身近な出来事や生き方や、周囲の変化などを雑談のように話しながら、自分が感じた流れのようなものを伝えようとする人もいる。

 生駒は自分が前者でしかないと思っていた。

 それでよしと思っているわけではない。力が入りすぎて、演説や訓話のようになってしまうのが自分の欠点だと思っていた。

 香坂は後者のようだ。


 彼女と話をするのは楽しかった。

 本当は、人は誰でも、自分の目線で見たことを話したり聞いたりすることの方が好きなのだ。

 そんな話をしないのは、自分の感性に自信がないからか、話すテクニックを持っていないかのどちらかだ。生駒はそう思っていた。



 翌朝、香坂からメールが来た。


こんにちは。よく降りますね。

今日の定例会議、よろしくお願いします。

とんでもないことが話題になりますよ。

生駒先生にも関係することで。

内容? それは会議で。

これ以上言うと、スパイまがいのことをしたと叱られるかもしれませんから。

それから、今日は新しく着任した内装の担当者がご挨拶すると思います。

いい人みたいですよ。

でも、引き続き、私ともよろしくお願いしますね。

さて、F302号室の変更プランの件ですが、


 生駒は、新しい担当者と会えるのを楽しみにしています、といつものように短い返信を送った。


 香坂の事前情報のとおり、七月に入って最初の定例会議には険悪なムードが漂っていた。

 住戸に敷くカーペットの入手のめどが立たなくなっていたのだった。

 この現場の場合、コスト的に厳しいということはなかったが、それでも切り詰められるところは切り詰めたいというゼネコンの意向で、一部の仕上げ材を海外からの輸入品でまかなうことが提案されていた。子供室のカーペットもそのうちのひとつだった。


 若槻が謝った。

「大変、申し訳ありません。エヌピー産業からマレーシアの現地法人に問い合わせたところ、納期どおりには生産が間に合わないというのです。他のものならストックがあると言ってきていますので、替えていただくわけにはまいりませんでしょうか」

 ハルシカ建設が、もっと安いものを使おうと、ひと芝居打っているということも考えにくかった。

 エヌピー産業とはハルシカ建設の子会社で、海外資材の輸入を専門にしている会社だ。

 会議室の隅に、その担当部長であるという佐野川卓郎という男が、かしこまって座っていた。


「いまさら替えてくれと言われてもだめです。既にお客さんはモデルルームでカーペットを見ているんです」

 藍原が静かに、しかしきっぱりと言った。

 若槻はむつかしい顔をして黙り込んだ。

 沈黙が流れた。

 いたたまれなくなったように、佐野川が小さな声で言った。

「いろいろ手を尽くしておりましたんですが、本当に申し訳ありません」

 突然、若槻が声を荒げた。

「きちんと工期に合わせて納品できるのか、確認してから注文を出したのか! おまえのミスだぞ!」

 佐野川がますます小さな声で謝った。

 顔が赤黒くなっていた。

 自分のミスを恥じているのか、関係者の前で無能呼ばわりされた怒りなのか、うなだれて床を見つめていた。


 生駒も居心地が悪くなった。

 そのカーペットは、ハルシカ建設から提案されたサンプルの中から、数ヶ月前に生駒が選定していたものだった。

 選んだのが生駒だとしても責任はない。設計事務所の立場としては、あくまですでに決定したカーペットを入れてもらわなければならない。

 クライアントの三都興産から、監理者としての責任を追及されるかもしれないからというわけではないが、ここで簡単に折れるわけにはいかなかった。

「なんとかするように、もう一度先方にプッシュしてみてください」

 そう言うしかなかった。


 このような課題が出たとき、クライアントの担当者がいると話が早い。

 特に羽古崎は決断も早いし、上司からの信頼も厚い。問題のおおもとや責任の所在を理解した上で、対処の方向を示してくれた。

 しかし、今回の会議には参加していなかった。三都興産からは打田という女子社員が参加していたが、メモをとるだけで自分から発言しようとはしない。当てられたら困るという小学生のように、黙ってノートを見つめていた。


 ゼネコンの職員達も黙りこんでいた。

 今日から会議に参加した大矢という職員は、なにくわぬ顔で議事録用のメモをとっていたし、根木や田所も神妙な顔つきのまま、口を開こうとはしなかった。

 周囲の沈黙に押されたかのように、佐野川が小さな声で三たび謝った。

「もう一度確かめさせます」

 若槻はそう言うと、佐野川を無視して次の議題に移った。


 会議が終わり、監理事務所に引き上げてから、生駒と藍原はカーペットの問題について意見交換をした。

 結論は見えていた。

 ないものはないで仕方がない。設計事務所として新しいものを選んでおく必要があった。


「それにしても、とんでもない話だ。今になるまで、あんなことがわからなかったってことが問題ですよ。もしかすると、隠していたのかもしれない。あの佐野川って人、だめだな」

 藍原は怒りが収まらないというように、会議資料でデスクの角をバシリと叩いた。

「少し前まで、若槻さんの部下だった人ですよ。その前は白井さんの部下で、着工直後はこの現場にもいたことがある人です。その頃はあんなちゃらんぽらんな人だと思わなかった。パチンコ狂いのおかげで、性格までいい加減になってしまったんだ」

 そう言いながら、以前、ハルシカ建設から提出されたカーペットのサンプルの束を、ストッカーから乱暴に引きずり出した。


 ゼネコン事務所と通じている扉が開いて、大矢が入ってきた。

 藍原と大矢はすでに面識があるらしく、挨拶もそこそこに、立ったまま打ち合わせを始めた。

 生駒はカーペットのサンプルを広げて、一枚ずつ見ていった。

 一旦は没にしたものばかりなので、これといって気に入るものはない。主寝室に選んだものを子供室にも使うということでいいのかな、と考えたりした。

 考えながら、技術系で入社したものの、子会社に転籍になり、海外資材の営業をさせられている男の気持ちを思ったりした。

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