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11 螺旋

 昼休みが終わり、根木が大きく伸びをして、さあ行くか、と声を掛けてきた。

 大矢は図面集の縮刷版を持って立ち上がった。

 まず最上階に上がり、順に下りてくることにした。


 根木は現場の中が隅々まで頭に入っているようで、フットワークよく動き回って大矢に説明をしていく。部位ごとの工事担当の下請け会社や仕上げの予定、スケジュール上のクリティカルになっている点などだ。

 根木は作業員に出会うと陽気に声を掛け、その場で気がついたことを指示したりした。


 三階まで降りてきた。

 内部間仕切り用の軽量鉄骨の柱が林立している段階の住戸に入ると、険のある声が飛び込んできた。

「そりゃぁないだろ!」

 大矢らが入ってきたことに気がついていないようだった。

 織田が鈴木に詰め寄っていた。

「ちゃんと金は払ってもらいたい。あの家をほったらかしにはできなかった。あのままじゃ住めないからな。せめて屋根だけでも仕上げてしまわないと。俺たちにも工事店としての信用というものがあるんだ」

 鈴木がおう揚に応えている。

「ばかいえ。おまえはすぐに工事を中止しろと言ったそうじゃないか。それを中桜工業が見かねて、工事をなんとか終わらせたと聞いているぞ。偉そうに言うものじゃない。とにかく、いいか、あの話はなかったことになったんだ。一旦支払った金を返せとは言っていない。ただ、今後の支払いの中から差し引かせてもらうと言ってるんだ」

「そんなばかな話があるか!」


 根木が大矢の肩をつかんだ。出て行こうと促している。

 きびすを返すとさっさと部屋を出て行き、どんどん歩いていく。

「あれ、なんの話ですか?」

 根木は振り向かなかった。まだ黙って歩いていく。

 二階まで降りると、やっと振り向き、はっきりといやな顔をした。

「ふん、くだらない。考え方の相違。おまえが気にすることはない。もうけりはついている」

 根木はそう言って、目の前にある大きな床の開口部を指差し、ロビーの吹き抜けにあたるところだと説明を始めた。


 現場では、ああいう言い争いはままあることだ。

 金額が安いだの高いだの、段取りが悪いだの、仕事が雑だの、現場か汚いだの。

 特に、金の支払いにまつわるトラブルは、どこの現場にもある。

 しかも織田は、屋根の仕上げがどうのこうのと言っていた。この現場の件ではない。まだ、屋根の仕上げが問題になるような段階には進んでいない。

 自分には関係はない。根木が言ったとおり、気にすることはない。

 大矢は現場を見て回ることに意識を戻すため、しゃがみこんで、単管で組み立てられた転落防止用の手すりに触れた。手すりは、緊結用金具で床から突き出た鉄筋と確実に固定されていた。


「今、俺たちは二階のラウンジにいる。この吹き抜けの手すりは、原設計ではコンクリートの立ち上がりにタイル貼り。でも、ここの手すりは視線を通すものの方が、下のロビーが明るくなっていいと思わないか? 実は、俺たちからアルミ鋳物の手すりにしたいと提案しているんだ。サンプルが事務所にあるから見ておくといい」

「はい」

「安いわりに、見栄えはまあまあだ。まあ実際は、例によってコストダウンが目的だけどな。今、設計事務所の方で検討してくれている。で、こんな状態のままだ」


 大矢は根木のレクチャーに集中した。

 明日から実務が始まる。

 遅れて参加してきたとはいえ、足手まといになりたくはなかった。

 二人がいるところは二階のロビー的な空間にあたる。設計では、乳白色のガラスの間仕切りで仕切られた小部屋が設けられることになっている。

「ここはラウンジで、その辺りが談話室。図面によってはライブラリーと書いてあるが、同じ部屋のことだ」

「はい」

「見てのとおり、まだ内・外部共に建具が入っていないが、インテリア設計がまだ最終的に決まっていないんだ。で、ここもペンディング状態」

 コンクリートの床を歩いていき、建物の先端に立った。

 養生シートを透かして、現場内の駐車スペースや白い仮囲いやゲート、現場事務所が見えている。

 大矢は、将来ここに談話室ができたときの眺望を想像してみようとした。大きな窓を通して、マンションの表玄関の車寄せや植栽帯越しに、前の街路を行きかう車や街並みが見えようになるはずだ。

「一旦、戻って休憩するか」

 吹き抜けに取り付けられた鉄骨の螺旋階段を降り始めた。

 この階段もまだ仕上げはされていない。モルタルが流し込まれただけの段板が、かつんかつんと乾いた音を響かせた。コンクリート破片や砂埃が薄く積もっていた。


 そのころ、生駒のオフィスでは、

「だいたいそんなところ?」

「はい。今日の打ち合わせは以上ですね。ありがとうございました」

 生駒は図面集を閉じ、赤の色鉛筆をペンケースにしまった。

 メールで送られてきていた質問事項を事前に検討していたので、打ち合わせは思ったよりも短時間で終わった。

「コーヒーを入れよう」

 立ち上がってキッチンに入り、慣れた手つきでコーヒーを沸かし始めた。

 香坂が改めて部屋の中を見まわしていた。

「すてきなオフィスですね」


 生駒の事務所は、オフィスといってもファミリーマンションの一室で、自宅兼用だ。

 玄関を入ったところが打ち合わせ用スペース。元々の飾り気のないリビングルームと狭い個室を改造したところだ。照りのある黒い木製のミーティングテーブルが白い空間の中で存在感を出している。

 心理的な結界かつ目隠し代わりにしている大きなベンジャミンの鉢植え。

 独立した生駒が初めて手がけた集合住宅のドローイング。

 そんなものを香坂は興味深げに眺めていた。


 トレイに載せたカップを運び、生駒は再び香坂の正面に座った。

「取り柄は、大阪駅から歩ける距離にあるってことだけ」

「こんな便利なところでしたら、家賃、高いんでしょう?」

「いや、分譲。中古だけど」

「まあ、失礼しました」

 香坂がそそくさと書類をトートバッグに入れ始めた。

 外部の人とひとりで打ち合わせに出掛けるのは初めてだと言って、香坂は緊張しっぱなしのようだ。今にも立ち上がりそうに、水色のバッグを抱えている。

「さあさ、かばんを置いて。ゆっくりして」

「ありがとうございます」

「たいした物件じゃないよ。古いから。それに住まい兼用だし、経費という意味では、ただみたいなもの」

「この白い壁、先生がご自分で塗られたんですか?」

 オフィス部分の壁は改造のついでに漆喰の櫛引で仕上げてある。ビニールクロスにはない質感がある。

「いや、もちろん職人さんにやってもらった」

「いいですよね。こういうの。本物で」

 そう言って香坂がまた、部屋の中を見まわした。


 無事に打ち合わせも終わり、熱いコーヒーの香りでようやく緊張がほぐれてきたのだろう。好奇心満々という顔になっていた。

「でも、これってひび割れてきません?」

「割れるかもしれないな。しかし塗ってから二年ほどたってこの調子なら、大丈夫じゃないかな。でもひび割れてきても、それはそれで味だよ」

「ですよね。今の住宅はクロス貼りばかり。あれってなんだか嘘臭くて、私、好きじゃないんです」

「マンションは手間ひま掛けられないからね。それに、引き渡しのときにちょっとでも傷がついているとクレームをつけまくる客が大勢いる。だから供給サイドはこんな塗り壁なんて、やりたくても怖くてできないんだよ」

「お金もかかりますしね」

「まあね。でも、少しだけその気になれば、もっといい空間が手に入れられるのに、たいがいの客は自分で自分の首を絞めていることに気がついていない。見せかけだけの豪華さに惑わされてしまってね。欠陥マンションだとか手抜き工事だとか騒いで、本当にいいものと見せかけだけのものとの区別を教えないマスコミにも辟易するよね」

「ええ」

「それに、そんな風潮に便乗した専門家が、素人受けする欠陥マンションを見抜く方法、なんていう本を出したりして、ますます不安心理を煽っている。無責任だよね」

 生駒は言ってから、ちょっとくどいかなと思った。

 多くの設計者が感じていることだし、香坂にとっても判りきった退屈な話かもしれない。

 香坂が話題を変えてきた。

「黒井さん、お気の毒ですね」


 生駒は姿勢を正した。

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