10 マニキュア
大矢は、大和中央の現場へ着いた。
まだ朝の七時だというのに、蒸し暑い。
早過ぎたかと思ったが、すでに若槻が出勤していた。
思ったとおり、自宅のある高槻市からバスと阪急電車と大阪地下鉄と近鉄電車を乗り継いで二時間近くかかったが、もうそんなボヤキを若槻に聞かせるつもりはない。
しかし、所長より早く出勤するには、いったい何時に家を出てくればいいのかと思うと、さすがに気分がぐったりした。
初日は根木からの引き継ぎで始まった。
契約図書はすでに目を通してあるという前提で、根木はてきぱきと説明を進めていった。
工事スケジュールと進捗状況、近々の検査日程、設計上の課題と変更点、下請け業者リストや担当者の氏名、契約内容と発注額、取引メーカーリストと金額の仕切り、設計事務所の担当者、施主の担当者、などだ。
昼前ごろまで、会議室で缶詰になった。
「以上が概略だ。俺は来月一杯までここにいる。細かいことはおいおい伝えていく。さて、オリエンテーションの最後は近隣のことだ」
近隣についての留意点は二点。
一点目は、近隣対策として現場の北側にある神社境内での植栽工事が完了済みだということ。これは地元の要望によるもので、近隣対策工事として実施したことはこれだけ。
二点目は、工事現場の中にあった石碑を再整備する必要があること。
大矢は神社の植栽図面を、関心のない目で眺めた。
根木は同じような引き継ぎの説明を数週間前にもしたはずだが、いやな顔ひとつしない。典型的な無色透明のサラリーマンなのだろうと思った。
「地元住民の中には建設反対派がいたが、すでに折り合いはついている。近隣対策は、昔からこの地域でいくつかの物件を手がけたことのある鈴木課長が担当してきた。彼は副所長としてこの現場に残るので任せておけばいい。ま、地元要員として残るということのようだから」
根木が漏らした最後の言葉に、大矢は引っかかるものを感じた。
言わずもがなのことをあえて口にしたのは、特別な意味があるのかもしれない。地元要員なんだから、大阪支店のおまえも気にするな、という意味だろうか。
根木は、なにくわぬ顔で机の上に散らばった資料を整理し始めた。
大矢や根木のような中堅以下の社員は、大阪と奈良のいざこざには無関係だ。
関心はあったとしても、お互いに思うところはないはずだ。
あえてそんな地雷を踏むことのないように、いざこざに巻き込まれることのないように、うまく避けて通るに越したことはない。大矢はいつもそう考えていた。
「さ、午前中の講義はこれで終わり。昼飯までに設計事務所とサブコンの連中を紹介して回ろう。午後からは現場内を案内するつもりだ」
大矢は、立ち上がった根木に礼を言った。
油物が目立つ出入り業者の弁当を食べると、大矢は自分にあてがわれた机の引き出しに物を詰め込み始めた。
昼休みには誰もなにもすることがない。作業服のままで町をぶらつくのははばかられるし、かといって現場内でキャッチボールをしたり、将棋をしたりする気にもなれない。
現場内の人間関係も、かつてのような古き良き時代の家庭的雰囲気や徒弟制は完全に失われ、目に見えて希薄になりつつある。
めいめいが勝手に新聞を広げたり、本を読んだりしていた。
静かだった。
椅子の背に深くもたれかかって眠っている者もいた。
根木がパソコンに顔を近づけていた。インターネットに接続して覗いているものが何か、大矢には興味はない。
田所は事務所で弁当を食べるのが嫌なのか、昼休みになるやいなや、スーッとどこかへ出て行ったきり戻ってきていなかった。単独行動が好きな男だ。ベタベタしているよりよほど気持ちがいいとは思うが、同僚として頼られていないと感じることがあって、大矢は田所を好きになれなかった。
大矢は愛用のノートパソコンを取り出した。
最近では工事現場でもネット環境が整っている。この現場でも本店や支店のLANに繋ぐことができる。
これによって、奈良や大阪の事務所にいるのと同じように事務的な連絡は回ってくるし、現場からは出来高などのデータを送ることができた。
きちんとした報告はやはり会議でなされるのだが、ファックスや郵便や宅急便でさまざまな書類を送っていたころに比べると、事務効率も少しは上がったといえる。
「これ、LANに繋ぐんやけど、やり方、知ってる?」
派遣会社から雇った事務の女性がすまなさそうに、知りませんと応えた。
大矢は自分でLANに繋ぐことはできた。
しかし、少し前までここが奈良本店の現場だったことで、大阪とは違うシステムになっているかもしれないと思って聞いてみたのだ。
昼休みだというのに、パソコンのモニターに映し出されたCAD図面に目を凝らしている女性が、すぐ後ろに座っていた。
本店のCADオペレーター。主に、設計事務所が描く設計図を、現場での施工用図面に書き直していく作業をする。設計事務所の図面の精度が低かったり、施工中の変更が多かったりすると、大変な重労働になる。深夜勤務もままある仕事だ。
二十そこそこのチャーミングな女性。
大矢は朝から気になって仕方がなかった。
香坂が下を向いて手元の図面に目を落とすと、ドールのような巻き髪が前に垂れて、白いうなじが現れた。部屋の白い壁のクロスを背景にして、きれいにカールしているまつげが見えた。
視線を感じたのか、香坂が図面から目を上げて大矢に向き直った。
「それじゃ、利用申込書に必要事項を書き込んでもらえますか」
といって立ち上がり、レターケースから一枚の用紙を取り出した。
「今までのメールアドレスなんかは変えませんよね。じゃ、こことここだけ記入してください。それからここにハンコ」
書類の上を動く香坂の指には、細いシルバーのリングが光っている。
マニキュアをしていない切りつめられた健康そうな爪。
ピアスを三つもしている子なら、楽しくてかわいいネイルがしてありそうだが、キーボードを打ち続ける仕事なのだから、これで普通だ。
そんなことに大矢は、ほっとした。
香坂が、この現場ではLAN以外にメーリングリストといって、自動的に現場内の全メンバーとメールのやり取りができるシステムを使っていると説明した。
「ふうん、なかなか先進的なことをしてるんやな。でも、こんな大きな現場でメーリングリストを使うというのは、あんまり聞いたことがないな」
香坂が頬に手を当てて首をかしげた。
小さなあごの先のふくらみが魅力的だ。仕草はキュートだが、言葉は他人行儀で味気ない。
「そうですね。ただ、誰でも参加できるわけじゃなくて、私達と各サブコンの所長クラスの人と、設計事務所の人だけです。でも実際は、それほど使われていません。社外の人にもいっせいに知らせることって、そんなにないですものね。個人のメールのやり取りは盛んですけど」
今日始めて会って、今言葉を交わしたばかりだ。もっと愛嬌のある話し方をしてくれないかな、と思う方が厚かましい。
それをわかっていながら、大矢は物足りない気がした。
「うちの所員は全員、メールを使えるんか?」
「ええ」
作業服の上からでもわかる、どちらかといえば、細身の体。
痩せているというのではない。肩も腰もボリュームがある。
それに、むき出しの腕から判断すると、引き締まった体を持っているようだ。
「若槻所長も?」
目が合った。
視線を恥じて、大矢は書類に視線を戻した。
「そうですよ。でも所長は、読むだけ」
「へえ、知らんかった。ほい。これでいいか?」
大矢は書類を渡そうとした。
香坂はストップというように手の平を突き出し、冷たく聞こえるくらいにはっきりと言った。
「総務の川上さんに渡してください。彼が本社に送ってくれます」
「ん?」
「私は契約社員ですし、そういう手続きはできません。でも、承認のファックスが来たら、パソコンの接続と設定は私がしてあげます。もし必要なら」
「自分でする」
立ち上がった大矢に、香坂はやんわりと笑って、隣のデスクに寄りかかった。
体形が強調された。
柔らかくメリハリのあるライン。
作業服の上からでもわかる、豊かなふくらみ。
「ねえ、大矢さん。お願いがあるんですけど」
「あん?」
「黒井さんの机、彼が帰ってくるまで、私が使ってもいいでしょうか。この机なんですけど」
指先で机の上を、つーっと撫でた。
「あのパソコンデスクだけじゃ狭くて。図面を広げるのにも苦労しているんです」
黒井のデスクには、見事になにも載っていなかった。
黒井康之と丁寧な文字で大書きされた連絡ノートが置かれてあるだけだ。
大矢は二つ返事で答えた。
「ええよ。どうせ元々、ここ二つ分をあいつが使ってたんやろ。でも引き出しは」
最後まで聞かず、香坂がうれしそうに笑った。
「引き出しはいいんです。図面を広げるだけですから」