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8 仮面

 大矢が箕面の現場から帰ってくると、机の上に、連絡をせよという若槻からの伝言が置いてあった。

「大矢です」

「おう。やはりおまえに来てもらうことにした。手が足りなくなった。七月一日からこっちに来い。図面を送っておいたから、読んでおけ」

「はい」

 大矢は驚かなかった。黒井が入院したことで、声が掛かることはわかっていた。

 奈良の現場に出勤するまで、あと数日しかない。気持ちを切り替えよう。

 大矢はそう考えて、机の上を占領しているぶ厚い図面集を開いた。


 ざっと目を通した大矢は、奈良本店営業部の電話番号を押した。

 栗田昇はすぐに電話口に出た。

「よう! 新婚旅行、どうやった?」

「どうってことはない」

「おまえは毎日、お楽しみやろうが、俺のほうは散々や。聞いてるかもしれんが、大和中央の現場に行かされることになった」

「ふうん、そうか。いつから?」

「来週の月曜」

「それはご苦労さん。ま、おまえは若槻さんのお気に入りだから」

「ふん。そういうことやない。黒井が入院しよったからな。それにしても、おっさん、やけに気合が入っとる。途中からの引き継ぎやから、できるだけ面子を集めておきたいってことやろ」

「気持ちはわかる。絶対に失敗できないからな」


 大矢と栗田は、大阪支店の技術者と奈良本店の営業マンという部所の違いはあっても、同期入社の仲の良い友人だ。

「ところで、あの物件はおまえの担当やろ。いったいなぜこんなことになったんか、聞いておこうと思ってな」

「なにを聞きたい?」


「白井部長が病気になったから交代や、ということは聞いた。しかし、だからといって奈良本店の仕事を、なぜ大阪支店ですることになったんや? しかも営業担当はそのままおまえで、契約実績も奈良本店というやないか。奈良には他に誰も工事できるやつがいないということか? そんなに忙しいとは思えんぞ」

「暇じゃない。こっちもそれなりに受注している。しかし、そのあたりの事情は僕もよく知らない。いきなり、上からそうするって言われただけで」

「はあ? いつ?」

「先月の末ごろ」

「理由は?」

「聞いていない」

「担当営業のくせに、頼りないやつやな。結婚式のことで頭が一杯やったんか?」

「なにを言うか」

「おかしいやないか。奈良本店でできない理由が、なにかあるんか?」

「だから、僕はなにも知らないって」

「おまえが知らんのがおかしいと言ってるんや!」

 大矢は大声になった。

 女子社員があきれ顔で、人差し指を口の前で振ってみせた。またいつもの調子で毒づいていると思っているのだ。

 大矢はそれを無視して、さらに大声を出した。


「なにを頼りないことを言ってるんじゃ!」

 栗田が知らないものは知らないと繰り返した。

「それなら、別の聞き方をする。あの物件には、なにか裏があるんか?」

「裏?」

「なにがあった?」

「しつこいぞ。なにをそんなにこだわっているんだ?」

「こだわる? こだわりやら夢やら、そんな糞の役にもたたん眠たい話はどうでもええ。えーか、俺はけたくそ悪いんや。あんなろくでもない現場に、誰がほいほい行きたい? 通勤に片道何時間かかると思う? 前の物件もそう。滋賀県の山奥やぞ。今度こそ人間的な毎日が過ごせる箕面の現場に配置されたと思って喜んだとたん、またこれや!」


「裏話を聞いたところで、どうなるものでもないだろ」

「いいや。どうせ行かされるなら、納得づくで行きたいからな」

「わがままなやつだ」

「利益率がいい? そんなこと、俺になんの関係がある? 会社は儲かるかもしれんが、くっだらん話や。なぜ俺が他の現場を放り出してまで行かないかんのか、納得できる答えを知りたいもんや」

「なるほど、若槻さんはそう言ったのか。さすがに目ざといね。確かに利益率は高い。今どきのご時世では珍しいくらいに。いいじゃないか。ボーナスもたくさん出るぞ」

「ふん。あほくさい! もともと目くそ鼻くそがちょこっと増えたところで、どうなるもんでもないわい」

「まあ、あんまり詮索せずに、職務を遂行しろよ。どうせ、下々の俺たちには関係のない話だよ」

 栗田はわざとらしく投げやりな調子でそう言って、電話を切ってしまった。


 翌日、大矢は若槻に指示された書類を取りに、奈良本店に来ていた。

 エレベーターの扉が開き、工事部のフロアに入っていった。

 この部屋に入ることはめったにない。本店に来ることはあっても、普段は総務部や設計部での用事を済ませるとすぐ帰路についた。工事部に立ち入ることを、できるだけ避けてきたからだ。


 奈良本店工事部と大阪支店工事部の間には、暗黙の縄張り争いがある。

 ストレートな言い方をすれば、敵対意識、あるいは足の引っ張りあい。

 大阪の工事部からすれば、奈良の工事部は施工力が弱いくせに社長のお膝元にいる立場を利用して、なにかにつけていいめをしているという思い。

 奈良の方からすれば、大阪の連中は大きな工事を手がけていい気になっているが、我々こそが会社発祥の地で地元に密着した仕事を丁寧に請け負っているという自負。

 上層部の間では、公然と綱引きが行われていたが、大矢のように若い社員には関係のないことだった。

 それでも、そういう上の空気が各社員の意識にも少なからず影響を与えていた。


 フロアは閑散としていた。

 打ち合わせコーナーにも応接セットにも誰もいない。

 このフロアの中で、大矢がただひとり、普通に話かけることができる女子事務員の姿が部屋の隅に見えた。

「中島さん、こんにちは。大阪支店の大矢です」


 大矢が声を掛ける前に、中島と呼ばれた女子社員は、書類を入れた封筒を引出から出していた。

「こんにちは。はい、これ」

「ありがとう」

「ホットコーヒーでいいですか?」

「いや……」

「遠慮せずに。誰もいないから」

 中島がそう言って立ち上がったので、大矢は厚意に甘えることにした。

 手近な打ち合わせコーナーに座り、封筒を開けた。

 中島が紙コップを二つ持って、すぐに戻ってきた。


「書類の中身を説明しましょうか」

「ああ」

 中島は時間をもてあましていたのか、丁寧に説明しようとした。

「ありがとう、もうわかったよ」

「できるだけ早くここから退散しよう、ということですね」

 中島が笑いながら睨んだ。

「うん、まあね。ところで、白井部長はどこが悪いんや?」

「え?」

「体調が悪いって聞いたけど」

 中島が意外だという顔をした。

「へえ、そうなんですか。知りませんでした。白井部長は転勤なんですよ」

 今度は、大矢が驚いた。

「どこに?」

「九州支店」

「九州? いつ?」

「来週から。昨日、送別会だったんですよ。確かに最近はあまり元気がないようでしたけど……」

「転勤って、なぜ?」

「さあ」

 中島は紙コップの湯気を楽しみながら、大矢を見ている。

 大矢は変な話だと思った。体調が悪いからと、担当している大きな工事現場を途中で交代した者が、急に転勤ということはないはずだ。


「あっ、部長が帰ってきました」

 中島が、お帰りなさい、と大声で呼びかけた。白井は、ただいま、と言って窓際にある自分の席についた。

 まずいところで会ってしまった、もっと早くここを出るべきだったと悔やんだが、遅かった。

 ここで白井に挨拶をせずに、こそこそと出て行くわけにはいかない。礼儀を欠くわけにはいかなかった。

 大矢は中島に礼を言って、白井の席に近づいていった。

「部長、お久しぶりです。大阪支店の大矢です」

「やあ、君か」

 白井は気味が悪いほどの笑顔を作って、大きな声で応えた。


 敵対する部隊同士でも、管理職は相手部隊の若い者には好意的な態度で接するものだ。

 例えそれが見せかけのものであっても、いつ何時、自分の部下になるとも限らないし、できるだけ仲間を作っておこうという気持ちも働くからだ。

 大矢はそういう場面をいやというほど見てきた。白井の態度は、まさにそれだった。


「今日は本社に用事か?」

 笑顔を絶やさず、当然のことを聞いてきた。

「はい。大和中央の件で、書類を取りに来ました」

「おお、そうか。君もあの現場の担当になったのか」

「はい」

「うんうん。よろしく頼むぞ」

 仮面を被ったように、ずっと微笑んでいる。

「九州にご転勤だそうですね」

「そうなんだ」

「お世話になりました。もっといろいろと教えていただきたいこともありましたが、残念です。ところで、お体の方はもうよろしいんですか?」

 白井の顔に張り付いていた笑みが、固まったように見えた。

「うん、もういいんだ。僕の方こそ世話になったね。君もせいぜいがんばってくれ」

 そう言って白井は目をそらし、表情を仏頂面に戻すと、電話に手を伸ばした。

 会談は終わりだというポーズだった。

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