7 一陣の風
「ふうん、そうなんか……」
優が、溜息をつきつつ、人差し指で眉毛を撫で始めた。考え込むときの癖だ。
「おい、ユウ。余計なことを思いつくなよ」
「うん……、そうやね、いくら三都興産の御曹司でも……、彼をどうにかしたって……」
「なに! 三都興産の御曹司?」
「あれ。ノブ、知らなかったん? 知ってて私に、彼はどうやって鎌かけたのかと思ってた」
「はあー」
柏原が話題の方向を修正してくれた。
「その現場所長が、自分が狙われたのかもしれない、と言ったんだな」
「まあね」
そこで生駒の携帯が鳴った。
「おじさん、アヤです」
その声を聞くなり、生駒の胸に喜びが広がった。
「ちょっと大切なお話があるんだけど、今から、そっちに行っていいですか?」
「今からって、どこにいる? もう七時半だよ」
橘綾。小学六年生だ。
京都の山奥の村で、生駒がある有名な美術家のアトリエを設計していたときに知り合った、村の娘だ。村の娘といっても、元は生まれも育ちも東京っ子である。
生駒はこの娘が大好きだった。
子供を持つということが、これほど楽しい感触に包まれた毎日なのかと、綾を見て初めて思うことができるようになった。
綾を挟んで優と川の字になって寝たあの晩、彼女の見せたどこまでも澄み切った信頼と愛情の瞳に、生駒は釘付けになった。
彼女の瞳に見つめられれば、大人なら誰しも心に底に溜めてしまった汚れを、洗い落とすことができるだろう。
いや綾でなくても、子供であれば、誰もがそうなのかもしれない。
そんなことを教えてくれたのだった。
「えっ、アヤちゃん?」
優も身を乗り出した。
聞こえるはすもないのに、生駒の携帯に耳を寄せてくる。
「京都駅。だめ?」
「今から会ってたんじゃ、今日中に村に帰れないぞ」
「うん。おばさんは、いいって」
綾は独りぼっちになってしまっていた。
村で一緒に暮らしていた父親は、病で亡くなっている。離婚していた東京の母親は綾を引き取ろうとはしなかったし、綾の方も母親には未練はないようだった。
綾は、村でひとりで暮らしている美千代という女性の養女となっている。
美千代は生駒も優も知っている人だったし、比較的裕福でもあった。
綾は、新たに母親となった美千代を「おばさん」と呼んだが、ふたりが強い絆で結ばれていることを生駒は知っていた。
綾の将来を案じながらも、美千代と一緒なら大丈夫だと思っていたのである。
「じゃ、大歓迎だ!」
「やった! おじさんの家に行くの、初めて! うっれしい! ユウお姉さんもいてるといいな!」
綾のはしゃいだ声が携帯電話から聞こえてきて、生駒はそれだけで、喜びという言葉を噛み締めた。
「JR大阪駅まで、ひとりで来れる?」
「もちろん!」
綾は利発な子である。大人びているというのではない。賢く、天真爛漫。
天性のものなのか、山奥での暮らしがそうさせたのか、あるいは与えられた役目がそうさせたのか、綾は生きる力がほとばしっているような子だ。
都会の子にありがちな、暗闇を恐れたり、小さな生き物を恐れたりするようなことはない。ひたすら明るく、物怖じもせず、それでいて心優しい。
老人ばかりが住む山奥の村で、ピカピカ光る宝石のように、芳しい香りのする一陣の風のように、綾は村や周囲の山々のいたるところを照らして回り、笑いを振りまいて回るのだった。
優はもう帰り支度をしている。
「ユウ、おまえが大阪駅まで迎えに行ってくれ。俺はベッドを片付ける。でないと、三人で川の字になって寝れないからなっ」
「うお! 始めてや! ノブが自分から泊まっていけっていった!」
こちらも、やった!というように拳を振り上げた。
「柏原、今日はもう帰る」
生駒は美千代に電話を入れた。
「たまには綾も、村の外の空気を吸わないとね。もともと都会の子なんだし。よろしくお願いします」
そして、美千代は朗らかに、彼女の話を良く聞いてあげてくださいね、生駒さんや優さんが大好きなんですから、と付け加えた。