6 足場板
定例会議の冒頭に、転落事故の件が若槻から報告された。
「先週来、みなさんには大変ご迷惑とご心配をおかけしました。黒井は市内の病院に入院させました。左大腿骨骨折と全身挫傷、全治七ヶ月です。実際、現場復帰までにはそれ以上の日にちがかかるでしょう」
転落事故は、黒井が織田を伴って現場を巡回している最中の出来事だった。
建物には、すでに四箇所の本設の鉄骨階段が取り付けられていた。しかし作業員らの上下移動のために、建物の四周に組み上げられた工事用足場に設けられた仮設階段もまだ残されている。
黒井は、屋上階から八階へ降りる際に、その仮設階段のひとつを使おうとした。
建物の妻側に取り付けられたその仮設階段は建物の端部にあることから、作業員らの主な動線上にはなく、それほど多く使われるものではない。
しかしゼネコンの職員が、現場内を一筆書きのように巡回するときには重宝する階段だった。
その仮設階段と、本体建物との間に架け渡された鉄製の足場板がはずれたのだった。
「黒井は、足場板とともに落下しました」
若槻は、会議室のホワイトボードに自分で描いた事故状況の模式図と、事故現場の写真を使って、淡々と説明を進めた。
「織田部長の話によれば、そのときの様子は、次のようなことになります」
屋上のパラペットを跨ぐ低い階段を、黒井が身軽に、ぽんぽんと駆け上がった。
そして躊躇なく、空中に掛け渡された足場板に足をのせた。
地上二十七m。そこは建物を覆う養生シートの最上端で、視界が開けている。単管の手すりがあるとはいうものの、足下には街並みが小さく見え、崖の縁で感じるような強い風が建物に沿って吹き上げていた。
黒井は高所の恐怖感などこれっぽっちもないという様子で、手すりに頼ることもなく、颯爽と渡っていく。こんなところでへっぴり腰になっているようでは、建設現場では勤まらない。
それでも、後ろに続く織田の目には、黒井の足取りが注意力や慎重さを欠いているように映った。
織田は風に目を細め、自分の足元を確認しながら、少し遅れ気味についていった。
突然、ギクッとする音を聞いた。
こういう場所で耳にすれば、たちまち鳥肌が立ち、背中に冷や汗がざわっと流れ出すような音。
ガチャリという、金属同士が強い力で擦れるきしみ音だ。
同時に短い悲鳴!
わっ!
はっとして目を上げると、十メートルほど先にいた黒井がもがくように腕を振り上げていた。手すりをつかもうとするかのように。
しかしそれはほんの一瞬のことだ。
軍手をはめた黒井の指先が手すりに触れたように見えたものの、あっという間に視界から消えた。
すぐにドスッという音がした。
続いて、ガシャーン!
足場板が階下の板にぶつかって派手な音を響かせ、緩やかに回転しながら地上まで落下していくのが見えた。黒井が手にしていたクリップボードが、書類をばたつかせながら足場板を追いかけるように落ちていった。
織田は単管に足をかけ、ヘルメットをずり上げると、手すりに身を乗り出して黒井を探した。
すぐ近くで、男の叫ぶ声がした。
一層下の階に、黒井が投げ出されていた。
すぐ下に架けられた足場板にあたって、運良く内側にバウンドし、地上まで落ちずに八階の床に叩きつけられたのだった。
慌てふためいて織田が本設の階段まで迂回し、八階まで走り降りると、すでに石上や数人の作業員が黒井の脇にしゃがみこんでいた。
「事故の原因は、外部足場の固定が確実になされていなかったことのようです。なお、二次災害はありませんでした」
羽古崎が難しい顔をして、事故報告書に目を落としていた。
事故はゼネコンの失態であり、責任は所長である若槻にあるが、クライアントの担当者としても無関心ではいられない。
しかし羽古崎は叱責するわけでもなく、不幸中の幸いだったなどと、お茶を濁すようなことも言わなかった。
若槻が報告を続けた。
「で、最も重要な点です。なぜ足場板の留め金具が緩んでいたのか。これは、今のところ不明です。屋上階棟屋の吹き付け工事が事故前日の午前中に行われていましたが、担当の作業員はそのとき、その足場を通ったが異常は感じなかったと言っています。全職員及び作業員に確認したところ、前日の吹き付け作業終了後から事故までの間に、その足場を通った者はいませんでした。また、事故当日の夕方から翌日の午前中にかけて、念のために現場の中の足場や安全柵など全数を点検しましたが、いずれも完全に良好な状態でした。もちろん、労働安全基準監督署の立ち入り検査でも、この点でのご指摘はありませんでした」
若槻が一息ついて、天井を見上げた。
「たまたま、あの足場板だけが、いつのまにか固定金具が緩んではずれかけていた、ということのようです」
大変申し訳ありませんでした、と若槻は立ち上がり、羽古崎に向かって頭を下げた。
「工事工程に影響はありませんか」
羽古崎が聞いた。
「はい。工程には影響はありません」
「警察へは?」
「すぐに通報しましたが、単なる事故だという結論になったようで、さっと見ただけで帰られました」
定例会議が終わったとき、生駒は席を立とうとする藍原を呼び止めた。
若槻が書いたホワイトボードの模式図と手元にある屋上部の図面を見比べながら、さっきまで考えていたことを聞こうと思った。
あの日、藍原と一緒に屋上で若槻と話をした後、八階に降りるときにその足場板を通ったように記憶していたのだ。
「うーん、そうでしたかね。どのコースで回ったのか、覚えていないですねえ」
藍原が首を捻った。
生駒は食い下がった。
「確かですよ。八階の妻住戸を見に行ったじゃないですか。まだがらんどうでしたが」
藍原は生駒を見下ろしたまま、黙って頬をさすり、やはり覚えていませんね、と言い残して会議室を出て行ってしまった。
生駒には確信があった。
しかし、だからといってどうするというほどのことでもない。
あの時間帯にその足場を通ったとしても、金具が緩んだ時刻を特定できるわけでもなかった。
ため息をついて、打ち合わせ資料を片付け始めた。
藍原が開け放していった扉から、若槻が入ってきて、ホワイトボードの模式図を消し始めた。
生駒は、きびきびと大きな動作で白板消しを動かしている若槻の背中を見ながら、今藍原に言ったことを話すべきかどうか迷った。
若槻にとっては、余計なお世話かもしれない。
少なくとも、自分の情報が若槻にとって、それほど意味のあるものだとも思えない。
生駒は資料を持って立ち上がった。
若槻が振り返った。
そして、ささやくように思いがけないことを口にした。
「ちょっと物騒な感じですな」
「は?」
「あれがもし、事故ではなかったとしたら、私を狙ったのかもしれないということですよ」
生駒は驚いた。
若槻は厳しい顔をしていた。
生駒が口を開きかけると、若槻がはじけるように笑った。
「ハハ! いや、すみません! 変なことを言いました。忘れてください」
生駒を担いだだけかもしれない。
しかし生駒は、部屋から出て行こうとする若槻に声を掛けてみる気になった。
「足場板の金具ですけど、黒井さんが通る直前に緩んだんじゃないでしょうか。ほら、あの日、屋上でお会いしましたよね」
振り返った若槻が、少し驚いたように表情を見せた。
「あの後、私と藍原さんはその足場を通って八階に降りたんです。そのときはなんともなかったように思います。もしかすると、気がつかなかっただけかもしれませんが」
若槻は口を開きかけたが、ポケットに突っ込んでいた手を出し、右手で左の肩を揉みながら微妙な笑みを浮かべた。
反応を待った。
若槻の鋭い目が見つめていたが、
「ま、あんまり気にせんでください」
と、部屋から出て行ってしまった。
やはり詮索しないで欲しいということだ、と生駒は判断した。
 




