第5章 第12話 The Last Farewell◇★
【アガルタ第二十七管区 第3435日目 アガルタ歴9年 3月13日】
【総居住者数 2881名 総信頼率 99%】
国民の皆さんどーもこんばんは、今夜はほろ酔い気味の赤井です! さっきネストのシツジの乳のお酒を飲みました。あ、勤務中に飲酒しちゃって申し訳ない。今夜はグランディアのレセプションパーティーでしたから、ジョッキ二杯ぐらいちょーっと大目にみていただきたいところ。
二十七管区世界初のオリンピック的祭典、グランディア祭典は二日目の日程を終え、大好評開催中です。
二日目は槍投げ・女子と短距離走・男子と女子でした。
ダイジェスト版でまとめるよ。
槍投げ・女子の優勝者はモンジャ集落の大工、ヒノ。日頃から鍛えた細腕でどんぐりの背比べ的な大接戦の中を勝ち抜いて栄冠を手にしたよ。この世界では女性があまり男子並みの肉体労働をしていないからか、槍を真っ直ぐに飛ばせた子が殆どいなかったので、大工をやっていたヒノは俄然有利だったんだろうね。
ヒノにも勝者の冠と、それから記念品を贈呈しました。記念品は、オシャレなヒノの好きそうなブレスレットにしておいたよ。私、一人一人の好みに合わせて、記念品一つ一つ違うのあげてるからね。センスが合わなかったらごめんなさい。でもモフコ先輩もOK! って言ってたから大丈夫だと思うけど。
男子短距離走の優勝者はモンジャ集落の狩人兄弟、弟のソミタ。順当なところかな。
ソミタは文句なしに頭一つ抜けての優勝。二位は兄のソミオ。日頃から野生の猛獣相手に近接戦で戦う彼らの脚力は驚異的でした。脚が遅く逃げ遅れた狩人は草食獣相手でも大怪我してしまうらしく、文字通り逃走も追走も命がけなんだよね。
狩人を中心としたモンジャの選手たちは短距離~中距離走に強い。グランダの兵士さんたちや御家人さんたちも健闘してたけど、彼らはいつも鎧っぽいのを着ているからあまり速くは走れないみたいだった。
ネストの人たちは断崖絶壁で暮らして高地トレーニングしてるだけあって長距離は強いけど、短距離走は苦手だったみたいだ。
短距離走・女子の優勝者はグランダの鉱山で働くノールって若い女の子だった。背の高い子で、バレーボール選手みたいな恵まれた体格のスポーツマン体型してたから、ストライドの大きさで有利だったのかな? モンジャ勢が三種目制覇してしまった後のグランダからの優勝者とあって、ノールとその家族がグランダ兵の皆さんに胴上げされて嬉しそうだった。
ノールの好みがさっぱり分からなかったから、何が欲しいかって聞くと首飾りと言うので、柄にもなくダイヤのネックレスを贈ってみました。でも二十七管区世界ではダイヤは産出されないみたいで、後でエトワール先輩やモフコ先輩にこってり怒られましたけれども。
競技のルールがまだ詳細に決まってなかかったので多少の混乱はあったけど、怪我人もなく皆がスポーツを通じた国際交流に興じてくれてる。私の当初の目標は達成されつつあるのかな。
夜は競技場の外で大規模に野外レセプションパーティを開催し、素民達に豪華に料理や食べ物を大盤振る舞いしたので、皆は呑めや歌えの大騒ぎで喜んでくれた。民たちには忘れられない催しとなったようだ。
宴席でキララに『あなたと同じスオウ一族の少女ですよ』とコハクを紹介したら、キララはコハクを妹のように可愛がって打ち解けて仲良くなっていた。コハクはちょっと警戒してたけど、しまいには気を許してお互いの人生相談してるっぽかった。今日はキララと一緒にグランダに泊まるらしい。うん、いいことだ。
宴もたけなわのところで蒼雲さん司会で急遽、大合コンパーティーを開催した甲斐があり、二十組以上も新しい出会いもあった。100対100ぐらいで20組以上成立って……マジ神がかってる、信じられない手際の良さ。チャラ医な蒼さん、合コンの司会者としてカリスマ的な手腕を発揮し、ぽかーんと圧倒された私とモフコ先輩。モフコ先輩は今度さっそく実践するとか言ってたので、現実世界で試すんだろうな……是非合コン頑張っていただきたい。
ああ、それから。私に殺意を擁いていたらしいグランダ重装歩兵部隊副隊長、ヌーベルさんの様子は……仲直りとはいかないけど、とりあえず復讐は諦めてくれたみたい。何で急にそうなったのかってと、昨日、見かねたエトワールが密かに邪神ギメなんちゃらに変身してヌーベルさんの前に立ち現れ、これまでの教えは間違っていたことと、キララを補佐しグランダの守護に徹しろって新たな命令を下したんだそうだ。
エトワール先輩超グッジョブ! ヌーベルさんは一兵士として新たな道を歩む決意を固めたようだったって……。
今日になって挨拶をすると、どことなく毒気が抜かれたような、さっぱりした顔をしてた。
ヌーベルさん、納得してくれたのかな? 今日はそんな感じで……まあ、私は明日もいつも通りに仕事するだけだ。
明日はカルーア湖ハーフマラソンとカルーア湖での水泳競技なので、ロイたちが整備してくれたマラソンコースに、障害物が落ちてないか夜のうちに点検に行かないとな。
皆が各々の家に帰った宴の後は、私たち構築士七人でパーティーの後片付け。皆の出した生ごみとか、落ちているごみの始末と掃除ね。使徒さんたちも、白さんと蒼さんも手伝ってくれた。
『今日も、大会もパーティーも大盛況でしたね。皆さん料理殆んど残さず、食べ呑みして帰ってくれましたし。皆さんもお疲れ様です』
『残り物をこそこそ包んで、家に持って帰ってた人もたくさんいたしねっ。特にモンジャ民とか』
よく見てますねモフコ先輩。モフコ先輩は食材調達係で、調理してたのはそれぞれの地域の民の女性の皆さんでしたが。ご当地グルメ大会みたいになって、各国のブースが賑わっててよかったよ。民たちもお互いの食文化を知るいい機会になっただろうし。
『あはは、食い意地はってんすねー。モンジャの民はグルメっすね、味付けとかにもこだわりまくってたし』
ヤクシャさんが集めた可燃ゴミを、炎で燃やし尽くしながら豪快に笑う。
『赤井君に似てモンジャ民は食に対するこだわりが凄いからな』
と、エトワール先輩が茶化す。
『私のせいなんでしょうかそれ』
会場の片づけも終わり、さあ皆で手分けして夜のパトロールに行きましょうか、というときだった。
遠くから、獣の足音が猛スピードで近づいてくるのが聞こえてきた。この荒々しい獣の足音はエドのそれだ。でも私は、この足音が野生のエドではないことを知っている。よく知っている。
「あおいかみさま――!」
大声で叫びながら、パーティー会場にアイに乗って駆け込んできたのは。メグだ!
「こんばんは、神様がた。夜遅くにしつれいします。あおいかみさま、今お忙しいですか?」
メグは私ではなく蒼さんを捜しているようだった。
掃除を終えた蒼さんは、夜風に当たりながら大あくびをしていた。
『お、メグじゃーん。メグも食べ物持って帰りたいの?』
蒼さんは上着を羽織りながら、相変わらずへらへらと手を振りながら応じる。
「いえ、それより」
『一体どうしましたか、メグさん』
蒼雲さんに用ってことは、誰か急患が出たってことなのかな?
呑みすぎて意識不明になっちゃった人とか。
ネストのお酒はそれほどアルコール度数は高くないけど、普段お酒を飲まなかったモンジャ民が急にアルコールを飲んで倒れちゃった可能性は十分にある。
一応内科医なエトワール先輩も耳をそばだてる。
介抱に行くべき?
「ネストから新しくいただいたシツジのお母さん、その仔が……産まれないんです」
『それは大変です。もう破水をしましたか?』
白椋さんも心配そうに尋ねる。
「しました。大会が終わって、あにさまと一緒に牧場の様子を見に戻ってみたら……破水していました。まだまだ生まれない予定だったんですけど。あにさまが見てくれています。あおいかみさま、手術をお願いします」
手術ができるのは……エトワール先輩と白さん、そして蒼さんだけ。
でも白さんもエトワール先輩も外科が専門じゃないから……蒼さんか。
『っしゃ、見に行ってみよ~!』
蒼雲さん、いい笑顔でサムズアップ。
このヒト、外科医だけあって手術大好きなんだよな。
目を輝かせて、すげー嬉しそうだし。
メグはほっとした表情になった。
「ありがとうございます、どうかよろしくお願いします」
『蒼雲神。心配なので私もご一緒していいですか』
手術中は邪魔になるかもしれないけど、私もそういう症例と対処法はしっかりと見ておきたい。
蒼さんがいなくなったら対応できないってのは困るし、私も国家試験合格目指して勉強しないとな。
『おっけーおっけー。赤いのも医者目指してるんだっけ? オペできるようにならないと、これから色々と困るっしょ~』
『はい、ぜひ勉強させてください!』
『んじゃー俺が麻酔かけてーの。無菌環境も維持してーの。前立ちしてーの、そんで、執刀するのは俺じゃなくてメグな!』
「え……っ!?」
メグはきょとんとした顔で蒼さんを見つめる。
『は?』
一斉に構築士たちの視線が蒼さんに集まる。
ちょ……、蒼さん。メグが手術だなんて無茶振りもいいところ――。
『何を仰っているのですか蒼雲神。彼女に手術ができる筈が……』
白さんも、蒼さんが何を言い出したのかと慌てて止めようとしている。
『大丈夫、できるよ。それこそ、俺よりよっぽど上手にな。何故ならメグ、君はもうとっくに思い出してるからね――。だって君はたった今、その微弱陣痛だった母シツジを経腟で触診して胎児の大きさ、胎勢を確認し、分娩困難であると診断したうえで、帝王切開でないと無理だと判断してここに来たわけだ? ん?』
「……そ、それは」
『君は否定したいかもしれないが、思い出したんだよ』
一体何が起こっているのか分からない。
そんな……蒼さんがメグに医術を教えようとしていたのは、彼女の記憶回復を促すためだとは思っていたけれど。
まさかこんなにも早く……。
『見せてもらうよ。俺は手を貸さない』
先ほどまでへらへらとしてた蒼さんは、言い逃れを許さないと言う表情。
彼はきっと、メグを試している。
***
米国ボストン、ノースケンブリッジ。
東 沙織は雪のちらつくストリートを確かな足取りで歩いていた。
ここ数日間の経緯を簡単にまとめると、米国アガルタ中央データセンター、通称ヘヴンズゲートで調査したアガルタ死後住民登録リストからは、ネイサンと東 愛実の名でアガルタ入りした遺体は勿論なく、身元不明遺体にも全て洗い出しをかけたが、年齢、性別、ほか政府関係者に開示されるDNAデータを調査することができたにもかかわらず、ネイサン、愛実、両者に類似したデータや特徴が一致したものは皆無だった。
テロリストがわざわざ死体をアガルタに届けはしないだろう。
沙織の定期調査は収穫なく、それも想定の範囲内ではあった。
しかし沙織は……思わぬ筋から突破口を見出しつつあった。
ネイサンが失踪する直前まで暮らしていたアパートに何とはなしに立ち寄ってみると、ずっと買い手がつかなかった部屋に一ヶ月前に新たな入居者が入ったと大家が告げたのだ。
大家は立ち去ろうとしていた沙織を呼び止め、
「あんた、日本人だろう。これ、暇つぶしにどうだい?」
ネイサンの失踪後。
警察の捜査を終え、ネイサンの部屋の片づけをしていると、一冊の小説がクローゼットの中に入っていたのだそうだ。
紙書籍が珍しいご時世なうえ、奥付を見ると百年以上も前の書籍なので骨董の価値が出るかと何となく持っていたのだが、最近本に折り目がついているのを発見してがっかりしたのだそうだ。
「これ、どうしたんですか……?」
沙織が受け取ったのは、ブックカバーのついた古い詩集だ。
その白革のブックカバーによって、かつて沙織のものだったと判明する。
その存在を忘れかけていたが、ネイサンの家に置き去りにしていたものだ。
両手で感触を確かめると、朽ちた紙の感触と日焼けした革の手触りが過ぎ去った時間を否応なく沙織に自覚させる。
「いやね、もうご家族も二年も引取りにも来ないからあんたにあげるよ。読めるだろ、日本語」
「え、ええ……ありがとう」
アパートを立ち去ると詩集をあらためるために洒落たカフェに入り、遅い昼食を取りながら、読むでもなくただページをめくる……。
失われた過去の結晶体に現在という風を一ページずつ、空気を孕ませるかのように。
ドッグイヤされた複数のページを視とめた。
大屋が言っていた折り目とはこのことだ。
このせいで価値が下がったと言っていたのだな、と沙織は納得する。
しかし不思議なものである、沙織は本に折り目をつけないタチだったし、ネイサンはそもそも日本語が読めない。
ページの上端をドッグイヤされていたページは、「永訣の朝」と、「雲の信号」という二つの詩だ。
永訣の朝で手を止めた。
永訣の朝は、宮澤 賢治が愛する妹と病で死に別れた日の様子を綴ったもの。
沙織の現在の心境として読むにも気分ののらない詩だ。
なぜ、その作品なのか。
いかにも腑に落ちなくて、まじまじ凝視する。
永訣の朝。
―けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ―
”……ん”
沙織の指が、とりとめなく活字の上を滑る。
一度、二度と活字の上を指でなぞって確かめる。
やはり、違和感はあった。
「とほくへいつてしまう」と「いもうと」、という字の横に、爪でつけたと思われるへこみ傷が、傍線のように引いてあったのだ。
沙織は焦点をずらさないよう留意しながら、エスプレッソコーヒーに口を付ける。
ネイサンは日本語が読めない……あの時期にネイサンの部屋にいて、日本語が読めた人間は沙織と……誰?
”愛、実……なの?”
沙織の一番好きだった宮澤賢治の詩集に、愛実からのメッセージを込めたとすれば、これは偶然だろうか。
妹が何かを沙織に伝えようとしているのだろうか……。
彼女は本につけられた傷跡を目で追う。
メッセージは続いていた。生命線のように。
沙織はそのページをはじめとして、爪で印をつけたと思われる文字を必死になって追う。
平仮名の部分を選んで、時に一字ずつ、ときに単語を選んで、何とか文章を成そうとしている。
見落とさないよう一字ずつ読んでいった。
手早く携帯端末にメモを取る。
「とほくにいってしまふいもうと」
「青い」「雲」「あかるくする」
「ぱ」「す」「は」「まつすぐにすすんで」
「わたしたち」「いつしよに」
「とざされた」「室の」「なかに」「ゐる」
最初から順番に爪でつけられた傍線をたどってゆくと、何やら文章らしきものが浮かび上がった。
次に、沙織は急きたてられるように「雲の信号」という詩にも目を通した。
本文にあった傍線は、「雲」と「青」。
そして、タイトル「雲の信号」。
タイトルの横には長い傍線が引いてあり、それは頁の部分にまで引き上げられていた。
頁上部のページ番号に、アンダーラインが引かれている。
何だ、この暗示は。
雲の信号……? 沙織はぱらぱらと頁をめくり、ほかにアンダーラインの引かれたページ番号がないかと全ページを隈なく調べると、あった。
アンダーラインは、一部の数字だけ引かれているものもある。
たとえば129ページの9にだけ引かれていたり。
……それらを詩集の最初から順に並べてゆくと、8桁の数字となった。
もはやこれは偶然などではない。
沙織は全身にくまなく鳥肌が立つのを感じながら、手がかりを束ねてまとめる。
共通していた単語は、青と雲。一瞬、蒼雲構築士のことを思い出したが、彼らが失踪した二年前の当時には蒼雲構築士などまだ存在していなかったのだから、特に関係はなさそうだ。
詩集を使ってメッセージを残すなど……ぽけっとしている天然な性格の愛実にはとても思いつきそうにない。こんな手の込んだことをしなくとも、言ってしまえば詩集にペンでメッセージを書いた方が早いのだ。しかしそうすると、仮に日本語で書いたとしても翻訳ソフトなどを使って解読されてしまう。用心深い諜報員であった彼が沙織だけに解読されることを見越し、そして沙織以外の誰にも気づかれないよう、一見しては分からない方法で愛実と共にこのメッセージを残したのだとしたら……NSA諜報員、ネイサン=ブラックストーンならば考えそうなことだった。
最初から一つずつ、暗号を解析してゆくしかない。
ネイサンの事だから、意味を捉えちがえられてしまうほど困難な暗号を残したりはしないだろう。
沙織はぶるっと一つ身震いをして背筋を伸ばす。
「とほくにいってしまふいもうと」、このメッセージを送ったのが愛実だと言いたいのだろう。もしこの詩集を用いてでしか通信する手段がなかったと仮定して、愛実からのメッセージであると沙織にだけ知らしめようとすれば、「ま」「な」「み」「で」「す」と一字ずつマークするよりは、「いもうと」の単語のある永訣の朝を選ぶ方が手っ取り早いだろう。
永訣の朝は国語の教科書に載るほど有名な詩であって、沙織のように賢治のファンでなくとも愛実は知っていたはずだ。
「青い」「雲」と、「あかるくする」……よく分からない。
「ぱ」「す」「は」とあるのは、「パスワードは」のことだろうか。
文脈からいくと「ぱすは」にかかる単語が、「まつすぐにすすんで」、これがパスワードだというのか?
そして、「雲の信号」と8桁の数字。
「わたしたち」「いつしよに」「とざされた」「室の」「なかに」「ゐる」、これはそのままの文章と捉えていいだろう。
閉ざされた部屋とは、ネイサンのアパートのことだろうか? ネイサンと愛実が監視されていたということなのか。だが、詩集がネイサンの部屋に置き去りにされていたことから、監禁されている、もしくは外に出られない状態にあると解釈してよさそうだった。
いずれの手がかりも断片的であらゆる解釈を許すほどに抽象的だが、何もないよりはよほどいい。
ネイサンが愛実に指示したのだとすると、「青い雲」ではなく。
”ブルークラウド……?”
思い当たれば簡単なもので、今更のように妙にしっくりきた。
Blue Cloud.
沙織もかつて使用し、ネイサンも利用していた米国政府諜報関係者専用のクラウドネットワークだ。ネイサンの所属していたNSA(国家安全保障局)やCSS(中央保安部)、CIA、およびFBIら諜報機関の紋章のバックグラウンドが全て青いことから、関係者の間でブルークラウドと呼ばれていた。
NSAに所属していたネイサンはブルークラウドに仕事上のスケジュールや調査中のドキュメントやデータなどを入れており、それを通じて仕事上のやりとりをしていた。
クラウドはログインIDと個人パスワード、そして定期的に変更される共通パスワードで厳密にロックされているが、パスワードさえあれば個人の携帯端末からもアクセス可能である。
だとすると「ブルークラウド」の「パス」を「あかるくする」、英語ではReveal(リヴィール:解き明かす・明るみに出す)などの訳だろうか。その「信号」が、8桁の数字なのだ、……ああそうだ、間違いないようだ。間違いないと言えるのは、同じサービスを利用していた沙織のパスも8桁の数字だったから。「まっすぐにすすんで」というのは、詩集のページを順送りに、ページ数をパスワードとみなして入力しろという話なのかもしれない。
当てずっぽうかもしれない、その可能性の方が高い。解釈が強引で間違っているかもしれない、期待してはならない。だが、それを否定するためにもブルークラウドにアクセスしログインして確かめてみたいという気はある。
その関門を、突破できればそれでいいのだ。
できなければ元の状態に戻るだけ。ただそれだけで失うものは何もない。
”やってみよう……それしかない”
沙織はカップの底に残ったエスプレッソを一気に飲み干すと、詩集を閉じポケットに突っ込んでカフェを出た。沙織は以前の共通パスワードを知っていたので、携帯端末を使えばその場でブルークラウドにアクセスしネイサンのパスでログインすることができるかもしれないが、定期的に共通パスワードは変更されるものだ。沙織自身のアカウントは日本帰国時に失効しているため、再度取得しようとしても難しいと思われる。
ネイサンのアカウントから、新たな共通パスを手に入れなければならない。
ブルークラウドの共通パスを知ったら、セキュリティの行き届いた自家飛行車の中でアクセスするぐらいの用心はしたい。
沙織は次に、ケンブリッジストリートとサマーセットストリートの交わるFBIボストン支局に直行した。 ブルークラウドの共通パスを得るためだ。
ネイサンの勤務していたメリーランド州のNSA本部に行って共通パスを抜いてきてもよいのだが、陸軍基地内にあるしそちらの方がセキュリティが厳しく、入手は不可能だろう。
経験上、市中にあるFBIボストン支局の方がセキュリティは手薄だった筈だ。
何もスパイ映画さながらオフィスの内部まで侵入しなくても、市民向けのオープンスペースからアクセスすれば簡単なものだ。
FBI ボストン支局。
総ガラス張りのFBIオフィスに降り積もる粉雪が、寒々しい氷の要塞のように錯覚させる。
沙織は白いコートの襟を立てて、オフィスのエントランスに滑り込んだ。
バイオクローンを乗り継いだため、どう見ても中学、高校生の容姿である沙織に対し、好奇の目が寄せられる。
子供が何の用だいと聞きたそうに視線を投げかけてエントランスを出てパトロールに行こうとした職員たちの視線をやり過ごし、エントランスホールを抜け、情報開示ルーム受付職員に国際語で挨拶をして簡単な書類にてデジタルサインをする。
適当な名前を使い、17歳、と署名した。
一階に設けられた一般情報公開用の端末の奥のブースに居座り、白のコートとファーを椅子にかけ頬杖をつく。
一般利用者ログイン用のポップアップを無視。
立体モニタ下部に小さく表示されているスタッフ用アイコンに触れると、スタッフと誤認識して画面が切り替わる。
左横の暗い仕切りガラスに映り込んだ背後の景色に目をやる。
ガラスの中に見える受付の猫背の白人女が、コーヒーにシュガーを入れることに気を取られていた。 スタッフ用ログインの黒い簡素なポップアップのフォームに、Nathan=Blackstoneの名と、詩集から拾ってきた8桁のIDを入力。エラーは三度までだ、これで二度エラーが出たなら三度目は入力せず別のFBI支局に行くつもりだった。
沙織の胸の緊張と高鳴りに反して、パスワードは……実にあっけなく受理された。
ネイサンのアカウントは、彼が失踪した当時のそのままになっていた。死亡していない、遺体も見つかっていないので在職扱いになっており、アカウントもそのまま放置ということだ。新着のインフォメーションが何百件となく届いている。こちらの個人アカウントは、ブルークラウドと違って公的機関からでなければ入ることはできない。しかしこちらはFBI支局内からのアクセスであるため、バイオメトリクス認証がないのだ。
沙織は表情一つ変えず、ネイサンのアカウント情報を表示させブルークラウドのパスワードを確認。
外からネットワークを攻撃するには骨が折れるが、FBIの施設の中に入ってしまえばどうということもない。
パスを記憶すると、閲覧履歴を消してスタッフ用ウィンドウを閉じ、一般ログインをやり直して適当な情報に目を通す。リクルート中の学生ですとでも言わんばかりに、公的機関の公募を熱心に探すふりをする。一般利用の証拠(閲覧ログ)を作っておくことも忘れてはならない。
十五分後。これ見よがしにリクルート用のページを開いたまま、疲れた表情で席を立った。
情報開示ルーム受付の女性に、明るくわざと声をかける。声をかけることで、記憶に印象付けさせるためだ。
「ありがとうございました。技術職員の募集は、まだなんですね」
落胆の声音を作ってみせる。
「ええ、この時期はもう募集はないわ……春先にならないとね」
「どうも、ではまた春にうかがいます」
こうして東 沙織はまんまとブルークラウドの共通パスワードを入手すると、パーキングに停めていた自家飛行車に乗り込み、トレーサーデバイス(盗聴装置)の有無を確認したのち、ボストンを後にする。ボストンS.I.Cに入り、三日間のオフを終え日本への帰途についた。これまでで最も大きな収穫とともに。
目的地を車載ナビゲーションに指示した後、セキュリティの行き届いた密室で携帯端末を立ち上げ、ブルークラウドにネイサンのアカウントでログインする。
すると……。
沙織が来るのを待っていたかのように、編集中のドキュメントがフォルダに残されていた。
ドキュメント名は「a spring line」。沙織は一つ、ドキュメントにタッチする前に深呼吸をした。静かに、何がしかの覚悟を決める。
ドキュメントを開こうとすると、ロックがかかっている。沙織はくすりと微笑んで、よどみなくキーを弾く。
パスワードは「ZIPRESSEN(糸杉)」。
そう、春と修羅の詩の中に繰り返し登場し、a spring line(春のいちれつ)にかかる単語だ。
ネイサンの用心深さは相変わらず、だからこそ、沙織は彼を愛したのだ。仮に何者かにこのドキュメントがコピーされたとしても、それを開くことができるのは沙織か、少なくとも日本人しかいない。
ドキュメントが、デジタル音声で自動読み上げを始めた。
『君なら気づいてくれると思っていた。
なにせケンジ・ミヤザワは君が読み込んでいた、お気に入りの詩集だったからね。
これを読んでいるのがサオリであることを願うし、そうでなくてはならないし、僕もそのつもりで話している。
この部屋に何を残しても、そして端末上に何を残しても奴らにそれを見られるだろうから、ブルークラウドにメッセージを残すしかなかった。
手間をとらせてすまない。
そして、これを読んでいるということは、僕とマナミに何かあまりよくないことが起こったということなのだろうね。
マナミは今、僕と一緒にアパートにいる。だが一週間ほど前から、アパートの周りに怪しい連中がうろついている。
アパートのセキュリティがあるのでアパートの中には入ってこないが、外に出たら拉致されるか殺されそうだ。
マナミは今は無事だが、君がこれを読んでいる頃にどうなっているかは分からない。
奴らはサオリの言っていたDFH計画に関与している輩なのだろうが、こちらから盗撮虫(bugging insect)を飛ばして盗聴を仕掛けたところ、僕とマナミ、二人とも誘拐して処分するつもりのようだ。アガルタに入れないよう、頭部を狙って殺される、かな。部屋の窓側に近づかないようにしたり、隣人に買い物を頼んだり、外に出ないようにはしている。
だが、アパートに侵入されたらもう終わりだ……。
この件をNSAのボスに報告をしようと思う、サオリの遂行しているミッションに支障があるかもしれないが、君の妹を見殺しにすることはできないし、こちらも限界だ。端末での通信やネットではトラフィックを握られている可能性があるので、隣人に明日、封書でNSAに手紙を送ってもらうことにした。
しかし詳細を話すことができないので、迅速には取り合ってもらえないかもしれない。
こちらも最低限の装備は整えたが、セーフハウスを手配してそちらに引っ越すつもりだ……セーフハウスは陸軍基地内になると思う。……君が何度も何度も僕に言ってた通り、バイオクローンを準備していなかったことが悔やまれるな。
……とにかくこちらの出来ることはした。せめて君に見つけてもらえるように、僕の大腿部の皮下脂肪下にトレーサー(追尾)システムを仕掛けておいた。頭部は狙われるだろうから、それ以外の場所にしないとね……。
このドキュメントは何事もなければ明日また更新しようと思うが、もし更新ができなければ……そのときは覚悟してくれ。
ああ、一応僕の盗撮虫が拾ってきたデータを添付しておく。
愛しているよ、サオリ』
――ネイサンはドキュメントの続きを更新することができなかったらしい。
沙織はへなへなと脱力し、暫し放心状態になる。
正気を保つようにミネラルウォーターを口に含み、怒りを押し殺してため息をつく。
いま。はっきりと事実が明らかになった。
ネイサンと愛実はブルークラウド上にドキュメントを残し、翌日を待たずして何者かに襲われたのだ。
おそらくは脳を破壊され、アガルタに入ることができなくされた状態で……彼らはどこへ連れてゆかれたのか。
暗く冷たい土の中……ではないことを沙織は願う。
ネイサンは皮下脂肪下にトレーサーシステムを埋没させたという。
これは位置情報を暗号化して発信する発信機のようなもので、機密性の高い危険な任務にあたっている諜報員が携帯しているごく軽量のチップだが、それを体内に埋め込んだというのだ。大腿部にあったであろう、トレーサーデバイスの存在。それは彼女に残された、彼らと沙織をつなぐ最後の細い手がかりの糸のようで、沙織を勇気づけ奮い立たせた。
仮にネイサンが拉致、殺害されてしまっても……遺体の位置を特定できる。
NSAはシグナルを辿って、ネイサンの遺体を回収するだろう、いや、既にそうしただろう。
おそらくはあまりよく調べもせずに。
遺伝子検査によって身元はすぐに確認される。そうすると、生死はともかく、場所の特定だけはできるということなのだ。
次の休暇でNSAに赴き、直接あたってみるか……。
「……あぁ、これも見ておかなきゃ」
ネイサンのドキュメントを閉じた後、盗撮虫から得た録画データがドキュメントと同じフォルダの中に入っていることに気付いた。
盗撮虫というのは文字通り諜報員たちの盗撮用のデバイスである。
蠅型、羽虫型など色々とあるが、ネイサンは1mm未満の羽虫型のデバイスを持っていたはずだ。
沙織はバックアップ用のコピーを手元の携帯端末に保存し、再生をかける。
1時間半にもおよぶその録画データの再生を終えたとき……。
沙織は実行犯組織の仲間内でのやり取りの中から重要な会話を拾い、ネイサンと愛実の居場所について、決定的な手がかりを掴むこととなる。
彼らは、彼らからすればほんの些細な――しかし沙織からしてみると願ってもいないミスを犯していた。彼らはターゲットの個人情報を得ていたが、それは完全な情報ではなかったということ。
彼らは愛実とネイサンをこう呼んでいたのだ。ネイトとメグ。ネイトは英語圏でのネイサンの一般的な愛称だ、間違ってはいない。しかし、メグが愛実だというのは……どうしても無理がある。漢字で書かれた、日本語が読めなかったのだろう。
沙織は飛行車の中で外部環境を意識から締め出し、ゆっくりと瞑目する。
彼女の記憶の奥底に手を差し入れ、まさぐるように。彼女の瞼の裏の、赤く裏打ちされたおぼつかない闇の中に、現れた視覚情報の断片が疾走する。
前頭前皮質、上前頭回、中前頭回から一次運動野まで。
オールレッド。
ええ、この症例もやるんですか?
やめましょう、これは。どっちがどっちだか。
専属技官たちの諦念を含んだ声。
前頭葉のみが局所的に、そしてモザイク状に損傷した不自然な二例の症例。
その一対の意識は雑把にまとめられ、アガルタのエントランスの中に浮かべられた。
結び付けられた蒼や白の水玉模様を抜けると、開ける光芒のゲートウェイ。
白霞みの中に浮かび上がる認証システム。
進むことのない時間が幾層にも積み重ねられ、彼らのデータに降り注ぐ。
見よ、あれが天国の門だ。
彼らが観たであろう光の洪水。
無限に拡がり閃く翠のグリッド。
あの年に各国アガルタ施設に振り分けられた数十名の重症治験患者。
特殊な症例を。思い出した。
一対として預けられたデータがあった。
二個体分のデータであるのだろうが損傷が激しく、二つが一つとしてあたかも一つの人格のように、混然一体となっていた。
不思議な症例だった。
何故なら互いの脳の中に互いの意識の断片が入り込んでいたのである。
寄る辺なく仮想世界に舞い降りた、モザイク状の記憶。
何人もの技師たちに復元された結果、それらは支えあうかのように兄と妹として一つずつ意識を分かち合って、パーソナリティらしきものを形成させた。
――みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ――
彼女が特に意識を向けることもなく、彼と共に見守っていた、哀れで頼りなげな一対のデータ。
彼らを優しく救い上げた両手はアガルタの神のもの。
沙織のそれではなかった。
復元されたそれら一対のデータは、メグと、ナズといった。
沙織はがたがたと小刻みに震え始め、全身に拡散してゆく戦慄を止めることができない。
「お願いだから……お願いだからそこにいて……っ!」
それを奇跡と呼ばずに何と呼べばよいのだろう――?
今度こそ、あの日に帰れなかった、故郷へ帰ろう。
「迎えに行くから……迎えに行くから!」
――そのとき雲の信号は 禁慾のそら高く掲げられてゐた――




