第4章 第1話 His courage◆
銀髪碧眼の編み込みの少女はミシカと名乗った。
断崖集落ネストの王様の末の娘、……十五歳の姫様だ。
天空に聳える陸の孤島からやって来て空から女の子が落下。
風力利用の断崖絶壁集落、パラグライダーもどき。
――何なんだろうこの既視感、と頭の痛い赤井だった。
***Heavens Under Construction 第4章***
ミシカの城ではお約束的に、じいや的な臣下やら病気のお父様やらいて姫様とか呼ばれて民から慕われてるに違いない。
もしくは雲の中にある天空の城が別荘だったり……違うか、昭和時代の映画から離れようか、と赤井は我にかえる。
ミシカは銀髪碧眼でラウル兄妹に似ているとの第一印象を持った赤井だが、あながち間違ってもいなかった。
かつてグランダとネストは姉妹都市関係で交流があり、崖も分断しておらず陸続きだったようだ。
ところが突如現れた天空神ギメノグレアヌスがグランダとネストの間の岩橋を破壊し、陸の孤島になった。
それまでネストの守り神として厚く信仰されていた”赤の神”を邪神に仕立て上げたのだと、ミシカはさめざめ泣く。
その頃から、もともと温和だった森の獣たちが急に狂暴化しネストの民は森に降りられなくなり、崖上に取り残されたという。
話を聞いた赤井は、パトロールを終え至聖所に戻って来たエトワールに……。
『先輩のせいじゃないですか……何でネストとグランダを分断しちゃったんです、元に戻してくださいよ』
『おいおい私は他の区画にまで手を出したりしてないぞ。事実無根もいいところだ、大体私がグランダに着任した時には既に、断崖だったと思うんだが?』
言い分を聞けば、一切合財エトワールの悪行にされてしまったようだ。
事実無根だったとしても、人の事は言えないだろうと赤井は思う。
『そういや先輩も私を都合よく邪神に仕立て上げましたっけね』
『いやだからそれは仕事だから……利用できるものは何でもする』
「仕事って何のお仕事ですか?」
ミシカが二人の会話を傍聴していた。
きょとんと銀髪をかきあげる仕草が初々しく、リブ編みのセーターの色と同じコバルトブルーの瞳が輝いている。
『いえいえ、こちらのこと。さてミシカさん、私達はどのように手を貸しましょうか?』
「私達はこれまで通りネストで暮らしてゆくつもりです。しかし、森に降りられなければ食糧も物資も水も枯渇し、滅びてしまいます……」
ミシカたちネストの民が何に困っているのかというと、台地の降水量が少なくなり灌漑用の湧水量も減少、灌漑は揚水で行っているものの、水不足に加え人口も増え食糧生産が追い付かない。
そこでグランダの地と昔のように自由に行き来したり、森に降り食糧や森林資源その他を確保したいのだという。
しかし下には狂暴化した獣(怪獣)が潜んでいる。森に降りようものなら確実に命を落とすという脅威らしかった。
グランダ~ネスト間に橋をかけるにも全長一キロメートルの橋は現実的でないし、強風の通り道になっているので少々の強度の吊り橋ではすぐに壊れる。
だから狂暴化している森の怪獣たちの心を鎮められるというなら、確かにそれが一番手っ取り早い。
『ということは……』
赤井に動物の心を鎮めてほしいという話なのかと思いきや、そうではなかった。
ネストには”赤の神”の伝説を伝えた自称”精霊さん”がいたが、邪神ギメノグレアヌスに森のどこかに封印されてしまったのだ!
いつか赤の神様がネストに降り立ち、精霊さんの封印を解いてくれる!
精霊さんは動物の心を鎮めることができるのだ!
……という伝説のようだった。
「神様は精霊の封印の解き方をご存じなんですよね? ね?」
『え! ええ!? まあ、はい。勿論!』
勿論知らなかった。
第二区画の構築士が作った設定に文句はつけられない。ここは乗っかるしかなかった。
『で、精霊はどこに封印されているのか分かりますか?』
「え? それは神様がご存じだと、伝説では……」
『え? 私が?』
するとミシカが半泣きで
「どうして赤の神様なのに知らないんですかぁ……」
見るからに何も知らなそうな顔を改めつつ
『で、でも大丈夫ですよ、森を隈なく捜してみることにします。きっと見つかりますよ』
”ネスト民、今度から人に物を頼む時は場所ぐらいちゃんと聞いといて!”
女の精霊だというので、第二区画の構築士とみてまず間違いなさそうだ。
しかし、天空神の次に精霊ときたか。と赤井は神妙な顔つきになる。
一気に女性構築士の区画らしいメルヘンな設定になったものだ。
エトワールの殺伐とした雰囲気とは真反対、区画ごとに構築士のカラーが出るのだろう。
どう封印されているのかは知らないが、ド派手でキュートな登場の仕方の一つ、キラキラな登場エフェクトのひとつでも考えてる頃かもしれなかった。
”なんなら蒼き衣を纏いて金色の野に降り立ったりするつもりとか”
赤井は妄想脱線事故を起こしかけていた。
『私たちはまず、森で精霊さんを捜せばよいのですか?』
「いえ、まずネストにいらしてください。父が神様とお話しをしたいと申しております、そして民にも祝福をお願いいたします。民はあなたの降臨と祝福を心待ちにしています」
毎日熱心に祈りを捧げてくれているのだ、これは行かずばなるまい。
と鼻息を荒くする。
赤井とエトワールだけで第二区画に行けばよさそうだが、区画解放時には素民も何名か第二区画に連れていかなければならない決まりだ。
第一区画では赤井がしゃしゃり出て行ってしまったが、本来は住民参加型なのだ。
善は急げとヤドカリ神殿にロイ、メグ、ナズ、キララ、ラウルにヒノ、ハク、ヤスら主だった素民たちを集め、ミシカも同席のうえ何人かを誘ったところ……。
「新たな集落が見つかったのですね? 行きます、私も行きます! ミシカさんが困っているなら助けてあげたいです!」
「ぼ、僕も一緒に行きたいです!」
ボランティア精神旺盛なメグもナズも行く気満々だった。
「俺はここに残ります、モンジャの集落が心配です」
保守的なロイはまたしても留守番を希望だ。
仕方ないか、と諦めた赤井に対し、エトワールがロイを強引に誘う。
『いえ、ロイさんには必ず来てもらいます。集落とグランダのほうは彼ら、心強い守護者が定期巡回してくれますので』
赤井の背後には焼人二人が控えていた。
現代風コスチュームを隠すため、白いケープをかぶっている。
『心配はいらんぞ』と、強羅大文字焼が胸を叩けば、『私達にお任せ下さいな。曲者は骨の髄まで焼き尽くして差し上げます』上品だが物騒な信楽焼。
ロイは彼らに疑いの眼差しを向けた。強羅大文字焼はロイを睨み返す。
ロイはふらりと視線を泳がせたあと赤井に向き直り、
「赤井様、俺は今日初めて彼らに会いましたが、彼らはあなたの信頼に足る人物ですか?」
強く念押しするように訊ねる。赤井は思わぬ疑いにたじろぎながらも居住まいを正し
『信頼できる方々ですよ。腕もたしかです』
ロイは両手をついて席を立ち、強羅大文字焼を見据え歩み寄ると……いきなり仕掛けた!
初動を殆ど見せない状態で、神槍の柄を繰り出す。
まさに神速のスピードで強羅大文字焼の足を右膝下から左腰上へと薙ぎ払い転倒させようとする。
ほんの小手調べだ。
しかし彼はその軌道を瞬時に見切り、柄が脛を打つ前に悠々と跳び上がり素早く宙返りをうつ。
トン、と片足で壁面を蹴って背を向け軽やかに着地するや、ロイは槍を腰の裏に回し、左手、右、左と機敏に持ちかえて重心を素早く移動して踏み込み、彼の背部を突きで狙う。
これに応じ強羅大文字焼はひらりと身を返し柄を左手で掴み、背後にステップバックして背越しにロイの拳を右手で抑え込み動きを止めた。
その身のこなしは慣れたもので、迷いなく飄々としていた。
『なんのつもりだ?』
強羅大文字焼はロイの拳を逆手で握り、凄みをきかせながらギリギリと力を込める。
動作の起点を潰されては動けない。
信楽焼は腰に手を宛がい、目を眇め高みの見物だ。
焼人の身体は熱を持っている、ロイの手が焦げてしまわないか……と赤井が気にかけていたとき。
『このまま拳を焼き潰されたいか? 人間風情に噛みつかれるとは、思ってもみなかったがな』
そのつもりなら、望み通りにしようと口角をつり上げる強羅大文字焼の纏うアトモスフィアは見るからに狂暴だった。
”ここはお願いだから退いて! マジ強いんだからその人ら! バグ処理専門の厚労省の武闘派ってか精鋭なんだから!”
『ロイさん、大文字さん、そこまでです。やめてください!』
赤井が間に割って入ろうとすると、助太刀無用とロイが片手で制する。
次の瞬間、ロイは手首を槍ごと内側に返し大文字焼の手を振り払うと同時に神炎を奪い、自らの拳に纏わせた。
”ぎゃー!! この子、遂にヒトサマのアトモスフィアを奪い取りやがった!!”
人間離れしすぎ、と赤井は慄く。
「人間風情とは聞き捨てなりません」
その紅色の炎を神槍に纏わせれば、ゴウッと一直線に炎の蜃気楼が立ち上る。ロイの口調は穏やかだ。物腰柔らかな賢者のようでありながら、触れがたい獰猛さを兼ね備えている。
『へえ、やりたいのかい。焼人に炎で挑むとはね』
半ばふざけ半分だった大文字焼も、アトモスフィアを奪われ目の色が変わった。おふざけとはいえA.I.に虚仮にされては、焼人のキャリアにケチがつくというもの。
「転換」
ロイが囁くと、乾いた音とともに槍から大量の放電が迸る。
『ロイさん……どうやって』
『いや、神様。それは極めて合理的だ』
焼人の炎を利用して神槍を導体とし、端と端の熱温度差によるゼーベック効果で(電熱発電)熱から電気を取り出し、更にその微弱な電流を体内で増幅させて神槍内に再還流させているのか……と赤井が勘付いたのは、エトワールより少し遅れてのことだった。
当然ながら、ロイに教えてなどいなかった。
『感心したと言いたいところだが、双方とも大人げないぞ。いい加減にしなさい』
見かねたエトワールがポコン、とロイの後頭部を叩く。
結構きつくはたかれて我に返ったのか、冷や水を浴びせられたロイはふっと表情を緩め「すみませんでした」と会釈すると行儀よく席に着いた。
ロイと強羅大文字焼の衝突の間接的原因でもあるミシカは、申し訳なさそうに俯く。
「失礼しました。では集落をよろしくお願いします」
彼は引き際を弁えていた。
集落を守ってもらう立場で、気分を害しすぎてはいけない。
実力を試された形の強羅大文字焼は納得のいかない顔をしていた。
「アカイは平和主義者なのに、モンジャの長は好戦的なんだな……アカイがそう仕向けたのか?」
キララが頬杖をつきニヤニヤと分析していた。
赤井が頼りないので自立心が強くなったのかもしれないが、赤井としてはロイを肉食系に育てた覚えはさらさらなかった。
最近ますます好戦的になっているところを見ると、ロイに寝首かかれたりしないかと赤井は戦々恐々とする。
エトワールはどこか他人事なキララにも矛先を向けた。
『あなたにも来てもらいますよ、キララさん』
「……何故私が? グランダの復興もまだ終わっていないのだ、民を置いてはいけん。代わりにいくらか兵を出せばよかろう」
キララは不服を顔中に滲ませた。
グランダの地から一歩も外に出たことのない、民と共にあろうとする為政者である。
『いち国家、いち集落の指導者たるもの、見聞を広め様々な経験を積んでおきなさい。囲いの中の王ではいけない。それは今後の治世においても大きな実を結ぶでしょう』
「……仕方あるまい」
渋々応じる。
人間の患者がアガルタを去っても、この仮想世界に残るのは彼らで、世代を継いでアガルタの歴史を造り上げてゆくのだ。
A.I.であるキララやロイにも経験を積ませなければならないというエトワールの思惑である。
赤井がラウルとヒノに水を向けると、
『行くっていうか~、行かないっていうか~、行かないっていうか行くっていうか』
結局ネスト行きは赤井、エトワール、ロイ、メグ、ナズ、キララ、ヒノ、ラウル、ミシカの九人に決まった。
それにしても標高二千メートル以上の断崖絶壁にどうやって赴けばよいのか、と赤井達は頭を悩ませる。
森を経由して断崖を登るのも危険極まりない。
エトワールの鳥形態に乗って行くのもNGだ。
あれやこれやと考えて二週間後、思わぬ転機が訪れた。ミシカの齎したパラグライダーもどきに端を発し、グランダでは航空史の夜明けをみていたのだ。
ここにきて赤井が気付いのは、ミシカが追い風でグランダに落ちてきたということだ。パラグライダーは追い風では進まない。ミシカは、高高度にあるネスト集落から吹き飛ばされ、風にきりもみされながら落ちてきた落下傘状態だったのだ。骨折もすれば、コントロールも不能だったのによく死ななかったと赤井は思う。
現在ネスト側からグランダに吹く風は向かい風(アゲインスト:4m / s)であった。
落下傘からブレイクスルーしたのが、なんとナズだった。
ナズはミシカの破れた落下傘を繕い補修して、フリーと交代で「飛ばされごっこ」をしているうち、赤井やエトワール先輩のように空を飛びたいと考えるようになった。鳥もいない世界だが、高い空に憧れるのは人の性だろうか。
エトワールの立派な翼をいじくりまわして研究し、ナズはその形に似せようとしているうち、パラグライダー的な流線型を思いつく。
彼は現実世界の人間なので、飛行機の記憶がおぼろげにあるようなのだ。高次脳機能障害の患者は完全な記憶ではなくオリジナルにブレンドされている。伊藤が漏らしたところによると、彼は現実世界では事故に遭う前、かなり優秀なアメリカの工科大学の大学院生だったとのこと。
”アメリカの……工科大? MIT(マサチューセッツ工科大)とか? まさかね”
将来アガルタの発明王として頭角を現すかもしれないぞ、と赤井は楽しみだった。
そうとなればナズの教育にも熱が入る。
ナズはどこか確信を持って、動物のなめし皮を筒状にしそれを並行に縫い合わせ、小さな模型を作った。こしらえた筒をフリーとラインで結んで一本に束ね、凧揚げのように風になびかせる。彼はその手に確かに感じていた。
空へ導くように垂直に働く力。人を大地から解き放つ揚力を。風に流されるままに飛ばされているのではなく、今にも浮かび上がろうとするそれを、驚きと共に発見したのだった。
彼は直観的に悟ったのかもしれない。
飛べそうだが、翼が小さすぎる。人を重力から解き放つにはもっと大きな翼を……。
ナズは手応えを得て、俄然やる気になり設計図を書き上げた。彼には作図の才能があるようだ。観察力が鋭く、何故か遠近法ができた。彼はかなり立体的な設計図を基に、裁縫の得意なサチの力を借り、ミシカの意見を聞き、数学のできるメグに複雑な計算を任せ、キララから金属の部品を分けてもらい、ラウルにカラビナ(鉄製の輪)もどきを作ってもらい、ラインを束ね金属板に繋いだ。ハーネスがないので湾曲させた金属の板を渡し、そこに腰掛ける要領だ。
素民たちの協力あって、ナズがスケールアップした試作機を組み上げるのにさして時間はかからなかった。試作機はパラグライダーのはしりのような形をしていた。赤井とエトワールはナズを大いに褒めた。ネストでは衝撃を緩衝するためのグライダーであって、上昇するためのグライダーではなかったのだが、ナズのグライダーは上昇を可能とするものだった。
赤井とエトワールは現実世界スタッフの意見を参考にこっそりと計算をして、ナズの設計図を手直しした。航空力学的には間違っていないので、操作性に乏しいものの飛ぶだろうとの見込だ。
それは、よく晴れた真冬の日のこと。
彼らは完成したグライダーを運び、グランダの草原のはずれのなだらかな丘の上に陣取ってスタンバイ完了。成功すれば、アガルタの文明史に残る日になりそうだ。
「では、いよいよやってみようと思います。辺りの土は柔らかいので、失敗しても大丈夫です」
ナズは怪我防止と防寒のために厚着をし、きれいに広げたグライダーのラインを握りしめ背筋を伸ばし覚悟を決めた。心なしか顔が青ざめている。グライダーの翼が風を孕みやすいようにグランダ民が翼を手に持って掲げた。
「あにさま、本当にやるの? うまくいくかな……」
命の危険を伴う未知の挑戦にメグの心配もクライマックスだ。赤井が試乗しようにも、赤井の体重は軽すぎた。
「ナズくん、ナズくんとおいらは体格が同じぐらいだ。だからやっぱりおいらがやるよ」
フリーがナズの身代わりになると言えば、ミシカも負けてはいない。
「ネストのことなので、やはり私がやります! 落ちるのには慣れましたから、もう一度ぐらい落ちてもなんともないです!」
すると、様子を見ていたエトワールが、
『危なくなったら私が助けるので心配はいらない。しかしナズくん、飛べたとして君は降りることも考えているのか?』
「えっ?」
「えっ?!」
『滑空する速度を緩めなければ、どこまでも飛んで行ってしまうのだが』
ナズは暫く眉根を寄せていたものの、これまた閃いたようだった。
「あ、では降りたいときには紐を引きこんで翼の端を少しだけおりこみます。そしたら風を受ける面積がちいさくなって速度がゆっくりになり、高度が下がりませんか?」
『成程それは正しい、ただ、飛びながら翼を折るには熟練の技術が必要だぞ。8の字を描いて高度を処理するといい』
それはパラグライダーでは高度を緊急に下げるための翼端潰しというテクニックだった。
ナズはミニチュアの試作機を操作していたときに、翼がつぶれると揚力を失うことに気付いたのだ。
よく思いついたもんだと、エトワールはナズを賞賛する。赤井は最後に、ナズに逃げ道を用意した。
『ナズさん、空を飛ぶことは誰だって怖い。思いとどまることもまた勇気です』
ただでさえ身体の弱いナズに試験飛行は危険だ。
持病の発作がでるかもしれない。
絶対に怪我をしないとも保障できない。
一同が心配していると。彼
はどうしても、たとえ怪我をしても飛びたいのだと言って聞かない。
「大丈夫です、きっと大丈夫だと思います」
「あにさま……気をつけて」
メグはもう止めなかった。
ナズも何かしら、自分の生きた証を残したいのだと分かったからだ。
誰かの役に立ちたい。そんな思いはメグも存分に理解できた。
『恐れずやってみるといい、うまくいくさ。何かあったら必ず助けるつもりだ』
その言葉に背中を押されるように、彼はグライダーと連結している最前列のライン束を引いた。
丘を蹴り全速力で駆けようとすると、向かい風が筒状のグライダーの中に取り込まれて空中にセットアップされた。
『腰を落とせ!』
くん、と彼の身体が上に吊られ脚が浮く。
『いいぞ! 浮いた!』
僅かに三メートルほどの小高い丘からの飛翔ではあったが、彼は確かに飛んでいた!
しかし身体が前に出すぎて後ろに機体が傾き、勢い余って振り子のように前に傾こうとする。
インテイク(風の取り込み口)が塞がれるとグライダーが潰れて墜落してしまう。
すると先輩が地を蹴って飛翔しナズのグライダーに背後から近づき、後ろのラインを指先でくいっくいっと引いた。
最後列のラインが引かれたことにより翼抵抗が大きくなりブレーキがかかり、インテイクが再びその首をもたげ、風を取り込み揚力が加わる。
神通力は最高の向かい風を生じ、ナズの身体は見る間に高く高く昇っていった。
素民たちは歓声を上げ、地上から手を振る。
『いい風です、そのまま上がってゆけそうです』
「あにさまーすごいー! 気をつけてー!」
ナズはエトワールが傍についているので落ち着いている。
『おめでとう成功だ。折角なのでそのまま上昇してみよう。リラックスしてゆっくりと右のラインを引き、左の脚を右に組み、重心を右に移せ』
トンビのように滑空しながら指示を飛ばすエトワールから、ナズは空の飛び方のてほどきを受ける。
ちなみにエトワールの現実世界での休日は、日本人妻とスカイダイビングを嗜むのだそうだ。
順調に滑空していると、ナズの右翼が僅かに持ちあがった。
『む、そこに上昇気流があるな』
「上昇気流?」
『うまく気流に乗れば、もっと高く飛べるぞ。上昇気流に沿わせて機体を廻すんだ。落ち着いて。神様聞こえますか、南東の風 5m / s を送ってください』
『はい、南東の風ですね。お安いご用です。サーマルは直径10メートル、高さは80メートルです』
風を操りつつ、赤井は晴れ晴れとした気持ちで地上からナズを見守る。
翼を広げ、ナズは大きな鳥になったようだった。
ナズの機影が素民たちの上に落ちる。
ナズは指示通り右のラインを引くと、機体はゆっくり右に旋回する。
赤井は地上でインフォメーションボードで風の流れ、気流の発生を立体的に把握していた。
ナズはグライダーを右に傾斜をかけながら、草原の草がない部分が日光で温められ発生した熱でできた円筒状の上昇気流に、片翼を突っ込むようにして機体を旋回させている。
トンビが環を描くように、上昇気流を利用して高度を上げているのだ。
グランダの方が標高が低いが、グランダ側で高度を上げてからアゲインストの風に乗って飛んでいけば、それほど標高差はないネストにアタックできるのだ。
ナズは素民たちが固唾をのんで見守る中、二十分ほど空中遊泳を楽しんだ後、両翼端をちょろっと折り高度を下げ、エトワールの指示のもと最後は八の字を描くように滑空して、ふわりと草原に降り立った。
こらえていた嬉しさを爆発させ、きゃーきゃー叫びながら駆け寄る素民たち。
ナズ印のグライダー、増産決定だ。彼は上手く着地できず軽く尻もちをついたが、晴れがましい表情を浮かべている。
『ナズさん、空から見た地上の景色はいかがでしたか?』
「空は広くて大地も遠くまで見えました。果てが見えなかったです。世界は広いんだなと思いました」
栗毛色の髪の毛を風になびかせて、はにかむように笑ってみせる。
少しだけ自信が持てたような、ナズの笑顔は透き通っていて赤井には眩しかった。
二十四歳の彼は、現実世界ではどんな人なんだろう、と赤井は思いを馳せる。
「とっても気持ちよかったです。僕、やっと生きている実感がしました!」
しかしその感覚はリアルではない。彼の居場所はここではなかった。
”だから現実世界に帰ろう、ナズ。君の目で、耳で、五感で、自然に浸り空の色や風の匂いを、その肌に感じてほしいんだ。仮想のそれではない、現実のものを体感してほしい”
ロイが強く望みながら決して見ることのできない空の果てを、ナズは見ることができる。
”私はアガルタ時間にして僅かばかりの時を見守り、そして君を笑顔で送り出す。君は知らないだろうけど、帰りを待っている人がいるんだ”
そして更に数日後――。
七機のグライダーが丘から飛び立ち空へと舞いあがった。
南風に乗り、未知の大地、断崖集落ネストを目指す。




