第10章 第11話 Expanding.◇◆
日本へ帰還すべく太平洋横断中だった私達は、アガルタの暫定組織によるテロからの防衛作戦を耳にした。
そこで私と沙織さんは二手に分かれる。
厚労省所管病院施設に行方不明者たちの入ったパワードスーツを、沙織さんに送り届けてもらう。
沙織さんも厚労省を追放されているけど、緊急時だから柔軟に対応してもらえるだろう。
沙織さんは異界のマンションに戻り、八雲さんの首を藤堂さんに返す予定だ。
八雲さんの生脳はどこに置くにしても狙われるので、実弟に渡したほうがいいだろうとのこと。
私は沙織さんと別れて南下し、高速で移動してインドネシアはジャヤプラに近い赤道上の地点に到着、海底の最深部に存在する重力装置の処理を請け負った。
このポイントは思ったより島に近いな。
もし重力装置が作動してこのポイントで津波が発生したら……どれだけの犠牲が出るか。
そんな惨禍を予測し、身がすくむ。
海面に異常な波紋が形成されはじめているのは、重力装置の前駆動だろう。
私は海面すれすれに滞空し、藤堂兄妹のリングを介して耐圧性の高いパワードスーツを着込む。
さて。
ダイビングポイントはここでいいはずだ。
日本時間午前1時、当地の現地時間は午後11時を回ったところだ。
バイオクローンに乗っている間は疑似脳による制御を受けているからか、眠気も疲労も感じない。
精神的にも安定していて、あまりネガティブな気持ちにもならない。
幸か不幸か、こんな時なのに落ち着いて任務に集中できる。
私は杖を空中に浮かべて待機させたまま、通信を開始する。
「ポイントに着きました。ロイさん」
「ナビゲーションを開始する前に解析プログラムをお渡しします」
衛星上で司令塔を務めるロイが重力装置の位置、深度と速度、水圧、水温、水流のデータセットとともに、解析プログラムを送ってくる。
予想していた以上の情報が即時に届けられた。
私のバイオクローンはすでに稼働しているから、難易度の高いミッションを割り振られている。
失敗は命取りになるだけでなく、もはや手におえなくなってしまう。
「赤井様、あなたのバイオクローンは無呼吸潜水が可能で耐重力性能が付与されていますが、赤道直下を外れると赤道潜流に攫われます。ポイントの確認をお忘れなく」
そう言われれば忘れてた、赤道潜流。
赤道を挟むように存在する大海流だっけ。
それほど速くはないけど、意識して流されないよう気をつけないと。
赤道ではコリオリの力がきかないから発生するんだよな。
海流に翻弄される魚の気分だ。
「警告ありがとう。気をつけます」
さも忘れていないという顔で私は応じる。
その些細な強がりが、逆に彼を心配をさせた。
「心配なのは海流だけではありません。現実世界においてあなたは無敵ではなく、私の援護も届きません。あなたに割り振ったのは最難度のミッションです。無理だけはしないでください」
「わかりました。強がるのはやめましょう。慎重にいきます」
「くれぐれも」
深海耐圧の照明をつけて、ナビゲーションを見ながら海底への潜水を開始する。
夜の海で夜光虫の輝きをまといながら、限りなく透明な世界へと沈んでゆく。
水深数メートルの幻想的な光景を抜けると、深淵は死地へと繋がっている。
バイオクローンなので体を水圧に慣らす必要はなく、時間の節約のために降下速度を上げてひたすら潜ってゆく。
仮想世界と違って海底への潜水は遥かに心理的な抵抗がある。
深海へ繰り出すのは、ある意味宇宙に行くより恐怖だ。
さきほどは存在しなかった恐怖と向かい合う。
数百メートルを過ぎ、完全に闇に閉ざされた頃には、衛星通信の信号が水中で減衰してくる。
あとはソナーの座標を頼りに潜ってゆくしかない。
ひたすら深度計ソナーを頼りに闇の中へと突き進み、深層と呼ばれる深度の、3000メートル付近に到達。
ようやく海底だ。
水圧の関係でマリアナ海溝は避けたのだろうけど、超深海に設置されていなくて助かった。
視界を確保するためにも、堆積物の上に降り立つのは避ける。
それでも重力装置の振動や衝撃波によりかなり視界が悪くなっていた。
耐圧パワースーツの中にいても、どの方向に重力装置があるのか分かる。
ほどなく、駆動中の重力装置を発見した。
地上での重さは6.5トン。
円筒が海底に突き立っているような形状だ。
重力装置が衝撃波を出す周期を計算し、チャージしている合間に解除作業を進める。
注意深く海底から持ち上げて横に倒し、解除コードの解析プログラムを使う。
海底ではロイと通信できない。
だから彼の準備したプログラムを信じるしかない。
私の知る限り彼はここぞと言うときにはやる。
逐一確認しながら、解析を終えたプログラムの吐いた停止コードを重力装置へ送り込む。
重力装置は明滅を繰り返し、最後に沈黙した。
予想通り解析プログラムは完璧だった。
再起動しないように装甲の一部を破壊し、内部を深海の水圧に晒すと一丁あがりだ。
通信可能な深度に戻ってきた。
「解除しました」
待ちわびているであろう仲間たちに向けて報告する。
これ一つ壊してもまだ数百あるんだよ。
もたもたしてはいられない。次の地点へと急ぐ。
今動ける人員は私しかいない。
◆
神坂と別れた沙織は、埼玉県の厚労省関連病院にパワードスーツに包まれた行方不明者らを引率し送り届ける予定だ。
都心の惨憺たる状況とは対照的に、郊外の施設では被害を受けてはいない。
この場所ならば医療負荷を与えず最低限の医療対応はしてもらえるだろうと踏んでのことだ。
騒音に驚いた医療スタッフとAIらが一団を迎え入れつつも、その物々しさに圧倒されている。
「警察機動隊の松田です」
沙織は愛想よく堂々と偽名を名乗り、職員は沙織のIDを確認する。
彼女は内調時代に身につけたスキルでデジタルIDの偽造は朝飯前だ。
松田なる機動隊員の所属記録を確かめた病院職員は先入観にとらわれ、疑うことすらしなかった。
「確認しました。お疲れ様です」
「要救助の行方不明者を搬送してきました。ここにいる全員です」
「ま、待って下さい。当施設もベッドは満床です」
病院職員は受け入れに難色を示しているが、沙織は平静を装い、事務的な口調で早口に告げる。
「都内への攻撃の影響で通信障害があったのでしょう。パワードスーツをリリースして中の人を診てください。ただちに命に関わる人も、衰弱している人もいます。満床でしたら一日程度スーツ内部で待機可能です」
「そ、それでしたら手配します」
沙織に断る口実を潰されたので、病院側も渋々引き受ける。
沙織も押し付ける気でいる。
「分離した記憶をお預けします。警察のデータと照合してそれぞれ個人に戻して下さい。詳しくは厚労省に問い合わせてください」
「ところでその容器は……検体の入ったケースですか。こちらで預かりましょうか」
沙織がさりげなく携えている、八雲の首入りの格納容器に注目が集まっている。
これを検められると厄介だ。
しかし沙織は冷や汗一つかかず取り繕った。
「こちらは臓器移植用の検体で、急いで名古屋の施設に輸送しないと。ああ、清潔のためにここでは開けられませんのでクリーンルームでの確認が必要ですか」
「結構です。施設へ直行してください」
それらしい方便に納得した職員たちはそれ以上詮索してこなかった。
「お疲れ様です。それでは失礼します」
沙織はにこやかに微笑むと、彼らに見送られながらその場を後にする。
偽装工作にも慣れすぎて、焦るどころか良心の呵責すらなくなっていた。
◆
「赤井様が重力装置の一つの解除に成功しました。私の解析プログラムも機能しているようです」
衛星上の仮想世界で待つ愛実たちに、重力装置無効化の最初の朗報が舞い込んだ。
緊張していたロイも少し表情が緩む。
「やるときはやるな。君たちは」
ジェレミー・シャンクスが二人の仕事ぶりに賛辞を送る。
ナノデバイスが完成するまで重力装置を止められるのは神坂だけだ。
しかし愛実は神坂の安否が気にかかり、手放しで喜べない。
「桔……いえ、神坂さんは海底の水圧には耐えられたのですか?」
「赤井様は最高性能のバイオクローンを使用しておられるのでご無事です。バイタルも安定。ナノデバイスの生産と大気中への放出も開始しました」
ロイの送ったプログラムをもとに、各地の工場でバイオクローンに侵入するためのナノデバイスの生産も軌道に乗っている。
愛実たちは各地から送られてくる進捗データを祈るような思いで見つめる。
進捗率は約30%。
まだどの施設も製造装置をハッキングされたことに気付いておらず、反攻作戦は秘密裏に進んでいた。
「うまくいってるみたい」
「そうだといいがね」
「生産したナノデバイスが最寄りのバイオクローンに感染しました。あと5分でセキュリティを突破しシステムを掌握できます」
「あのね、ロイ」
調整に余念のないロイに、愛実は声を落として話しかける。
「最初に送り込む構築士がまだ決まっていないなら、私に行かせて。やらせてほしいの」
何か不具合があった場合に貴重な人材を失うわけにはいかない。
実験台になるなら自分が、と名乗りを上げた愛実だったが、その決意は挫かれる。
「恵さん、あなたが最初に行くと周囲を敵に囲まれて破壊されます。それは認容できない損失です」
バイオクローンを一体でも捨て駒にすることはできない。
ミイラ取りがミイラになってしまえば、何のための作戦かわからなくなる。
「これまでのデータから伊藤様なら同時に対処できます。合理的な理由から伊藤様に先陣をお任せします。悪く思わないでください」
最初に送り込まれる人間ほど危険なため、キャリアの長い順に送り込むのが合理的だ。
「確かにキャリア順のほうがいいな。私も適当なところで指名してくれ。待ち時間が惜しいが」
ジェレミー・シャンクスは時間のロスを気にしている。愛実も同感だ。
「待っている間にバイオクローンを操るオペレーターを呼びませんか。甲種一級以外で難を逃れた構築士に連絡を取れば……」
「走って呼びに行くのか? 都内のモバイルはEMP攻撃で使えなくなっているんだろう? 伝書鳩でも飼っておけばよかったな」
「それでひらめいた」
ジェレミー・シャンクスの言葉にネイサンが口を挟む。
「伝書鳩で連想することなんてあるか?」
「まさに鳥です。沙織が連絡用のツバメ型を数羽持っていたはず。ここにないかな?」
このマンションはEMPの影響を受けていないため、ツバメ型デバイスがあるとしたら破壊されていないだろうとの読みだ。
「この部屋で見たことあるから……どこかにあるかもしれない」
愛実もはっとする。沙織がそれを手にしていたのを覚えている。
「差し出がましいようですが、クローゼットの下から三番目の引き出しにありますよ」
藤堂が独り言のように場所を明かすので、愛実は赤面する。
隠し場所が姉の下着の在り処だと気付いたからだ。
まさか既に中を検めたのだろうか。
「ま、待って。私が戻ります! 引き出しの中身を触らないで!」
彼女はログイン状態のまま意識をマンションに戻し、クローゼットの奥を探る。
デバイスは確かに下着コーナーの奥に隠されていたので、愛実が下着を掘り起こしていると、背後から咳払いが聞こえた。
「何を必死に探しているの」
異界のマンションに帰宅した沙織が、愛実の背後から呆れたような言葉を発した。
「お姉ちゃん! 帰ったの!?」
「やむなくよ」
部屋中に血痕を残して消えた沙織との再会に、愛実はほっと胸をなでおろし、軽く抱き合う。
無事を喜ぶ再会はこれきりにしてほしいと思う愛実だが、事態はなかなか好転しない。
「よかった」
「一体何の騒ぎ?」
「アマツバメを貸りたくて。構築士に連絡を取りたいの」
「それならいいわ」
沙織はクローゼットからアマツバメの入った小箱を取り出し、そのついでのように八雲の首の入った箱をテーブルの上に載せる。
「そうだ。こちらは弟さんに。お悔やみをと言いたいところだけど、気が早いかしら」
「待て待て、キーパーソンの首をここに持ってきていいのかね。厚労省が必死に探しているだろう」
ジェレミー・シャンクスが気まずそうに沙織に尋ねる。
「その首を預ける厚労省の人間が信用できないわ。なら親族に引き取ってもらうのが最善というものでしょう」
「法に触れるぞ」
「どの罪でかしら。心当たりが多すぎてね」
沙織はまったく意に介さない。
「ありがとうございます。兄はまだ存命です」
藤堂は首の入った容器に手も触れず生首を取り出し空中に浮かせる。
黄金の血液が滴り落ちている。
ほどなくして八雲の生首は意識を取り戻した。
「八雲さん! 意識が」
愛実が驚いて八雲の首に呼びかける。あやうく腰を抜かすところだった。
『暫くは話せます。この状況を残して死ぬのは心残りですが、あなた達を信じて任せます』
首を切られて声帯を失った八雲は念で会話をしている。
生首の謝罪を見ていると心臓に悪い。
これから訪れる死を受け入れているのか、八雲からは悲壮感も伺えない。
「八雲様、もし心残りがあるのなら、死後はアガルタの再興を手伝っていただけませんか。あなたの力が必要です」
彼の能力を無駄にしないために、ロイは間が悪いのを承知でオファーする。
無理やりにでも生前の意思を聞いておかねばならない。
『死者の遺志は無視していい。お望みなら、無理矢理にでも知的資源として使ってください』
八雲には感傷はなさそうだった。
『息絶えるのを待つ時間も惜しいだろう。誰の手も煩わせないよ。後味が悪いからね』
八雲はそう言い残し藤堂と念話で最後の言葉を交わすと、数秒とかからず自己分解して液体になってしまった。
紛うことなき自殺だ。
愛実は悲鳴をあげてしまった。
数秒で人体が溶けるからくりは、細胞が融解する自殺遺伝子を発現させたからだ。
実体を残していると遺伝情報を解析されて危険だということで、自決し後始末までやってのけた。
藤堂はデータのみとなった兄の記憶をロイに引き渡した。
「肉体は昇華し記憶はデータ化、転送しました。あなた方が知るべきでない機密情報を消去しましたので、残りは活用してください」
「本当によいのでしょうか」
「兄が生前に決めたことです」
「申し訳ありません。心苦しいですがお預かりします」
彼の記憶は安全にデータ化されてロイに引き継がれる。
アガルタゲートウェイの実現により死が永遠の別れを意味しない時世になってより久しかったが、それでも人格のデータ化は死者の魂を墓から掘り起こし、わざわざ冒涜するかのようだ。
愛実は生々しさに言葉もない。
ジェレミー・シャンクスが気を回して尋ねる。
「今のが肉親との今生の別れでいいのかね?」
「私達は時空連続体に接続していますので、死は些細なことです。ある時から、お互いに悲しまないことにしました」
「ややこしいな」
時空連続体にある者はある時点では死んでいても、死んでいない。
半死半生の量子学的重なりの中で生きているのだ。
あたかも現実を含んだ巨大な仮想世界の中で生きているかのようだ、と愛実は思う。
ロイはすぐに八雲のデータを反映し、システム内部に取り込んで再生させる。
アイザック・スミスとしての八雲は、システムとして組み込まれ仮想世界に投影された。
「今日び復活まで幾許とかからないのか。ナザレの大工も驚くだろうな」
「お取込み中で悪いけど、誰にツバメを飛ばせばいいの?」
沙織はそのやり取りの時間を無駄にせず、アマツバメが現実世界の構築士を追跡できるよう設定をはじめていた。
「27管区と30管区のスタッフに送るのを優先してくれる?」
「それがいい。馴染みの管区のほうが話が早いだろう」
愛実の提案に、ネイサンも頷く。
「アマツバメを介してむすびに接続すればいいの? EMPで破壊されてデバイスがないのよね?」
「私が手が空いているので接続しましょうか」
藤堂が手伝いを申し出る。
「ぜひ」
構築士の所在は藤堂が全てトレースしており、彼はアマツバメからの通信を中継できる。
藤堂がバックアップに回らず全て対処すれば何もかも解決するのではないか、という疑問は愛実には払拭できない。
最善でなくとも、次善の策を講じることはできそうなものなのに。
無限の試行の果てにたどり着いた結論が、これだったとしても。
「できた。配達先を設定したわ。このツバメを地下のポータルから元の世界に戻って飛ばしてくればいいのね」
「お待ち下さい」
沙織が部屋を出ていこうとすると、思いがけず藤堂に呼び止められる。
「何よ。邪魔するっていうの?」
「右から三番目の窓から飛ばせば元の世界に戻りますよ」
「窓の位置は指定なの?」
「指定です。お間違いなく」
念押しをするので、間違えたら大変なことになるのだろうと察する。
沙織と愛実は間違いなく三番目の窓から十羽のツバメを放った。
アマツバメは直滑降したあと上昇気流に乗り、軽やかに空へ舞い上がり姿を消した。
「消えちゃったけど」
「コーキングで消えたの?」
「いえ、時空間転送されました。これで問題ありません」
空間的なショートカットを使ったので相手には数分ほどで着くそうだ。
どんな仕組みでそうなっているのか愛実には想像もつかないが、彼と彼らの所持するエネルギーの本質を考えればできないことはないのだろう。
「それで? そっちはうまくいっているんでしょうね」
最後のツバメを飛ばし終え、沙織がロイに尋ねる。
「順調です。バイオクローン内で覚醒した伊藤様がエクアドル沖で潜水を開始しました。目標まで水深30メートル。周囲に敵性体の接近はありません」
伊藤がバイオクローンを掌握し、赤井が二機目の重力装置を解除したという報告が舞い込んできた。
「いいペースだ」
「伊藤さんが覚醒したということは、テロリストの意識はどうなっているの? 宙にういているの?」
「伊藤様が隔離回収して一時保管していますが、移動先が必要です」
一同に緊張が走る。
「私たちはアビスに地獄の収容所を作るんでしたね。急ぎましょう」
「やれやれ、泥縄になってしまったな」
「まだ間に合います」
愛実とジェレミー・シャンクスは顔を見合わせて頷く。
「すぐ取り掛かろう。さあ、地獄にでも地の果てにでも案内してくれ」
「転送しますね。少し酔いますよ」
二人が転送されたのは、アガルタ内のABYSSと呼ばれていた謎の廃管区だ。
荒野には物理結界が張り巡らされているが、ロイは領域の安全を監視しながら警告する。
「吐きそう」
構成の不安定な大気に晒され、愛実がえずきそうになる。
「すみません、調整が終わっていないので。気をつけてください。まだ全域の探索も終わっておらず、安全確保できているのはこの場所だけです」
「何に注意すればいいの?」
愛実がスタッフとして裏方に回って知ったことだが、アガルタの稼働が安定している状況では、脅威は全てスタッフの自作自演であり、基本的にはどの管区も安全な世界だった。
この廃管区もアガルタの管区の一つなのだから、愛実には危険があると言われてもピンとこない。
「放置された罠や爆発物などがあるかもしれません」
「罠?」
「当面ここが安全ならそれでいい。始めるぞ」
「はい!」
二人は打ち合わせをすることもなくABYSS内に構築を開始する。
【 範囲指定→オブジェクト消去 】
【 地盤調整→レイアウトを作成 】
愛実が荒れ地を消し去り、敷地を一気に均す。
ジェレミー・シャンクスが引き続き墨出しにあたる作業を高速で行えば、空間に青白いグリッドが現れる。
【 外形設計完了→反映 】
【 モデル作成・設計最適化→投影 】
【 加速建築→デザイン反映 】
【 物質構築開始 】
領域のデータが書き換えられ、新たな構造物が次々と生じてゆく。
ジェレミー・シャンクスが堅牢な監房を目にも止まらぬ速さで構築する。
二人が手掛けるのは清潔で明るい、広々とした監房だ。
【 植栽デザイン→セット→展開 】
愛実は囚人たちの目を楽しませるための色とりどりの花を植える。
この場所を懲罰のためではなく彼らが自身の過ちと向い会えるような空間へと作り変えてゆく。
気がつけば愛実も構築に夢中になっている。
思い通りの世界を描き出すこの瞬間は、誰にも侵されない神聖なひとときだ。
「まあ。こんな寂れた場所にお花畑なんて。悪くないわね」
結界に凭れ掛かるようにして、外から黒いドレスを着た黒髪の女が佇んでいる。
愛実は彼女の醸し出す場違いでミステリアスな空気にぞくりとした。
ジェレミー・シャンクスはさり気なく女と愛実の間に身を置き、攻撃に備えて結界を張りながら声をかける。
「見ないアバターだな。構築士か? クリーチャーか?」
「いいえ。ここのレジデントよ。お客さんはそちら」
レジデントと名乗るにしては利用者IDが出てこない。
人格データが管区と同化しているということは、八雲の古い記憶に由来するものだろうか。
この女が敵か味方なのかすら判然としない。
「そう警戒しなくていいわ。暇だし手伝いましょうか。悪人を改心させるのは得意よ」
「あなたは?」
「人類心理学者だったけど、死んだら関係ないわね。ただのメリーでいいわ」
彼女はゆったりと片目を瞑った。
「気持ちはありがたい。ただ面と向かって言いにくいんだが、君が信用できない」
ジェレミー・シャンクスは彼女の厚意を突っぱねる。
「これは傑作。アビスで身元保証人が必要だとは思わなかったわね」
女は呆れたように大きな黒い帽子を取る。
「では私が身元保証人ではどうですか」
タイミングを見計らったかのように先ほど死んだばかりの八雲が現れた。
「こんな物騒な場所に隠しておくお友達と、八雲PMとの関係は?」
「亡くなった妻です」
八雲は彼女の手を取った。
独身だと聞いていた二人は危うく叫びそうになった。
◆
伊藤に続いてバイオクローンの中で覚醒したのは、日本アガルタ第一管区主神、天照大御神を務める構築士、折田 綾だ。
無意識下でブリーフィングを受けて目覚めた彼女は、なすべきことを理解している。
構築士の感情はシステムによって抑制されており、恐怖を感じない。
とはいえ、幼い頃よりヒーローに憧れ、やがて構築士を志した彼女はそれ以上に奮い立っていた。
現実世界の存亡に関わる使命を果たすときがくるとは、構築士冥利に尽きるというものだ。
彼女の隣で大塩 毅も覚醒。
彼は第四管区主神、大国主神を務める。
彼は仮想世界では物静かで温厚な性格だが、現実世界に戻ると淡々としている。
「色々と飲み込めないのですが、これは演習ではないのですね」
自らに言い聞かせる大塩の隣で、折田は各地の状況を確認しバイオクローンのストレッチをして可動域を確かめている。
二人はバイオクローンの構成を把握し、ただちに順応する。
彼ら二人は長らく伊藤のもとで働いていた経験もあり、アガルタ世界のどんなアバターでも難なく乗りこなしてきた。
「行きましょう。アバターの乗り換えに不慣れな者のカバーもしないと」
「ええ、そのつもりです」
目指すはインド沖。目的地まで一時間といったところだ。
飛び立とうとした矢先、建物の外から人々の悲鳴が聞こえる。
二人は無視することもできず建物の外に飛び出ると、ビルが崩落し、生き埋めになった大勢の人々が助けを求めている。
「……救助を優先すべきですよね。ですがここは」
大塩がたしなめると、折田は悔しそうに拳を握り込んだ。
助かるともしれない目の前にいる数百人か、確実に助かる世界中の大勢の人々をとるか。
二人にはそんな選択すら与えられない。
「……重力装置の阻止に向かわなければならないのはわかっています。任務の完遂は絶対です」
「ええ。行きましょう」
「一分経つごとに救命できる確率は低下していきます。私は目に見える範囲の人々を救助してから追いつきます」
折田が大塩に告げると、大塩は時刻を気にした。
「時間がありません」
「五分だけでも」
そのとき、数人が埋もれているとみられる被災現場に重い柱が崩落してきた。
「上!」
折田が叫び、人々が更に下敷きにならないよう柱を受け止める。
大塩は崩れかけた建物から突き出していた鉄柱を引きちぎり、折田の支えている柱に支持棒をする。
その隙に折田は、数人を瓦礫の下から掘り起こして助け出した。
彼らは重傷だが、まだ息がある。
「私達が担当する二拠点は近いですよね。どういう意味か分かりますか?」
折田が含みのある言い方をする。
言ってしまわなくとも、塩田はすぐに言いたいことを察知した。
「もちろん。私が二箇所担当すれば数時間は稼げる、ということですよね」
「察しがよくて助かります」
大塩が折田の思いを汲み、大胆な提案をする。
たとえ優先順位があっても、どちらも見捨てられないのが彼ら構築士という人間だ。
彼らはちらりと視線を交わすと、ただちにその場から消え持ち場へと向かった。
◆
「……っ!」
第14管区、キリスト教管区代統治者 聖カタリナ・アレクサンドリア、本名ミランダ・シュトラウス(Miranda Strauß)も覚醒する。
「現世に戻ってきましたね。迷える子らのためにも必ず戻らないと」
彼女は今年他管区から着任し日本に帰化した聖職者で、日本アガルタの各宗派のキリスト教管区を管理している。
代統治者は主神と同等の地位にあるが、仮想世界ではあくまで神ではなく聖人として認識されている。
彼女に任されたのはエクアドルの市街地に近いポイントだ。
地上にある重力装置は水中にあるものより人的被害が大きく、その解除には細心の注意を要する。
彼女が目覚めたのは高層ビルの最上階だ。
ビル風が吹き込んでくる。
「ここはどこ?」
館内の案内板を見るに、庁舎のようだ。
その最上階のホールの割れた窓側に人々が集められている。
「What are you doing right now? Come here. (今、何をしているところです? こちらへ)」
彼女が彼らに声をかけると、スペイン語で返事がある。
「Les dijeron que salieran volando por la ventana.(窓の外に飛ぶように言われていました)」
「Vaya, qué sorpresa. ¡Indignante! (まあ、なんということ。とんでもない!)」
テロリストたちは旧人類を滅ぼすことに躊躇がない。
同じ人間だと考えていないのだ。
むしろ旧人類を一掃することによって彼らの優越を証明しようとしている。
ミランダにはそうとしか思えない。
「No se preocupe. Estoy del lado de todos los ciudadanos.(心配しないで。私は市民の皆さんの味方です)」
ミランダは時間を気にしながらも落ち着いて避難経路への誘導を始める。
「¿Cuántas personas han volado? (飛んだ人は何人いるの?)」
「Uno de ellos fue empujado por ti. (一人があなたに突き落とされて)」
恐怖で泣いていた若い女性が答える。
「...... Sí, perdón por el retraso. No soy la misma persona. No te preocupes ahora, vamos a acabar con todos los terroristas en este edificio. (……そう、遅れてごめんなさい。私は別人なの。もう安心して、このビルにいるテロリストは一掃しておきますから)」
ミランダのせいではないのだが、彼女の乗りこんだバイオクローンの所業に怒りと罪悪感を覚える。
彼女は全員を非常階段から階下へ逃がすと、割れた窓から外に飛び出した。
安全確認を兼ねて飛翔しながら地上へと降りてゆく。
彼女は窓の外から敵のバイオクローンを発見した。
「Got it. (見つけた)」
迷う間もなく奇襲をかけ、オフィスのデスクを蹴り込んで背後から身動きを封じ、重い椅子のパイプを引き抜き、バイオクローンに貫通させて床に串刺しにした。
「You’re not my people. So, see you in hell.(お前は市民ではないから地獄で逢いましょうね)」
さきほどの温和な態度とは裏腹に、ミランダは豹変した。
◆
28管区、白椋 千早。
本名は中本 莉央、彼女はケニアのナイロビの市街地にいたバイオクローンの中で目覚めた。
彼女は神坂の同期であり友神でもある。
任地はコンゴ沖の海底だが、覚醒するなり修羅場を目撃した。
彼女がいるのは半壊したホールで、大勢の人々が避難していた。
覚醒する直前まで人々をバイオクローンで襲っていたようだ。
「何か変」
彼女は辺りに有毒ガスが充満しているのを検知した。
「Everybody get down!(伏せて!)」
ドアの向こうからホールに放り込まれた火種に飛びかかって掴み、握りつぶす。
放ったのが警察かテロリストか誰か分からないが、人質ごとバイオクローンを葬るつもりだったのだ。
ここにいては人々に危害が及ぶ、そう考えた彼女はホールの天井に空いた穴から飛翔して外へ飛び出した。
一難去ってまた一難、外にはさらなる脅威が待ち構えていた。
彼女の視覚センサーに写ったのは、EMP兵器の影響で墜落中の飛空車だ。
彼女は飛空車に追いすがり、地上に激突する前にフロントガラスを割って空中で中の乗客二名を救出する。
安全な公園に二名を降ろし、震えながら子を抱く母親に声をかけた。
「Everything goanna be OK. Run. (もう大丈夫です。逃げて)」
「Thank you for saving us.(助けてくださってありがとう)」
しかし彼女の外見は都市を攻撃したバイオクローンである。
彼女の救助した親子は情報不足で彼女を怖がらなかったが、飛空車の墜落で周囲は騒ぎとなり、あっという間に武装した警察が集まってきた。
「You’re surrounded.(お前は包囲されている)」
「Hands up and release the hostages.(手をあげて人質を解放しろ)」
「Sorry for making a fuss.(ごめんなさい、騒がせてしまったわね)」
白椋は何か言いたげな親子を宥めると、警察の呼びかけを無視して空に舞い上がった。
警察に何を言っても理解してもらえないし、それを説明する時間もない。
数分ほど飛行していると三体のバイオクローンが高層ビルの上に集まっているのが見えた。
彼女は進路を変え、遭遇を避けようとしたが、気が変わった。
(少しだけ探りを入れましょうか)
既に視認されている可能性を考慮し、機転をきかせて彼らに合流する。
ポイントに到着する前にバイオクローンの動向や指揮系統を偵察することにした。
重力装置を止めるために海中に潜ってしまえば濡れてしまうので、先に偵察すると効率がいい。
彼女が高層ビルの屋上に降り立つと、指揮官らしき者が声をかけてきた。
「You’ve already complete the mission.(作戦はもう終わったのか)」
「Definitely. All clear. (間違いなく)」
白椋は怪しまれないよう敢えて堂々としている。
彼らは油断をしたか、次々と情報を語り始めた。
「In any case, human history is renewed today.(いずれにしろ、今日で人類史は刷新される)」
白椋は陶酔しているバイオクローンら背後にさりげなく廻る。
「It’s not today.(それは今日ではないでしょうね)」
彼女は静かに告げると、二体のクローンの首を捩じ切る。
一人だけ無傷で残した。
彼女は急加速をして、唖然とする残り一名の喉を掴んで壁に押し付けた。
「Now, I'm going to ask you to speak. (さあ、話してもらいますよ)」
「I don’t know what are you talking about.(なんのことだ)」
白椋は喉を絞める手に力を込め、もう一度壁に叩きつける。
「You can decide if you want to talk first or after the pain. (先に話すか、痛い思いをした後で話すか決めてください)」
「You can't torture a bio-clone. (バイオクローンに拷問しても無駄だ)」
「Who told you it was useless? (誰から無駄だと聞きました?)」
「……!」
はったりなのだが、脅しには十分だ。
「Or I can ask your family instead of you.(それともあなたの代わりに、あなたの家族に聞いてもいいのですが)」
「What do you want?(何が望みだ)」
バイオクローンの表情は窺えないが、声に焦りは現れている。
「Let’s talk. (お話しましょう)」
白椋は恐怖を利用して、かなりの量の秘密情報を聞き出すつもりだ。
◆
29管区の蒼雲 天晴。
本名、清水 空祈。
アメリカ、ワシントンD.C.にて覚醒。
目覚めた彼は強烈な違和感を覚える。
仮想世界の快適なアバターに乗っているのとは勝手が違い、苦痛すら伴う。
「何だこの木偶は。体が攣りそうだ」
長居しないためにもさっさと終わらせてしまいたい。
彼はバイオクローンの重量と操作性の悪さに悪態をつきながらも、任務は忘れていない。
「それで、ここはどこだ?」
米国アガルタを襲撃中のクローンの中で目覚めたようで、辺りは死体や怪我人で溢れかえっていた。
彼の足元で悲鳴が聞こえる。
「悲鳴?」
足元を見下ろすと、瓦礫をかぶり汚れた女性職員が倒れている。
助け起こそうとすると、拒絶される。
「Please don't kill me.(殺さないで)」
あまりの怯えように、蒼雲は舌打ちする。
パニックになる理由がわかった。彼女の腹部に赤黒いしみができている。
刺し傷か銃創かわからないが、乗っ取る前のバイオクローンに傷つけられたのだろう。
何もなければすぐに立ち去るべきだが、怪我人をそのままにしていけない。
彼女は震える手で護身用の銃を構え、しゃにむに蒼雲を撃ってきた。
殆どの銃撃が外れるなか、たった一発がバイオクローンの装甲に跳ね返り、彼女の腕をかすめた。
「What the hell.(なんてこった)」
彼女は痛みをこらえながら蹲っている。
「I’m not your enemy. I'm from the government. I just took over this stuff. Let me see your wound. (敵ではないんだ。政府の者だ。今このバイオクローンを乗っ取った。傷を見せて)」
彼は戦意を喪失して喘ぐ彼女に止血と応急処置を施した。
道具がないので原始的な方法だが、一次救急としては十分だ。
「Here we go. Let the hospital take care of the rest.(これでいい。あとは病院に任せるんだ)」
彼が手を離すと、彼女は脱力してその場に倒れた。
出血量も多く、この状態で歩かせるのは酷だ。
「Hang on tight.(しっかりつかまってくれ)」
蒼雲は彼女を背負って飛び立つ。
任地に向かうついでに病院に送り届けるつもりだ。
どれだけ怪我人を助けても気休めにしかならない。
この惨禍を終わらせるために、一刻も早く根切りをしなければ。
◆
神坂は三体のバイオクローンに執拗に追跡されている。
巻こうとはしたが、あまりにしつこいので応戦する。
「相手をしますか」
バイオクローンからの銃撃を躱し、空中で急停止し背後を取る。
左腕の上に杖を乗せ、背後から指向性エネルギー兵器を構え照準をあわせる。
バイオクローンの運動中枢のある脊髄を狙って正確な攻撃を放てば、事切れたかのように真っ逆さまに墜落する。
二体目。杖を加熱し、その熱で踊りかかってきた者が両腕を裁ち落とす。切れ味は鋭い。
三体目。鳩尾を狙って風穴をあけ、オイル漏れを起こさせる。
四体目を対処しようとしたとき、神坂の背後から閃光がほとばしる。
彼の瞳は正確に弾道をとらえていた。
四体目のバイオクローンはインドネシア空軍の無人ドローン部隊により撃墜されたのだ。
広大な空・海域を有する群島国家であるインドネシアは、領空侵犯に対しての攻撃を自動化している。
大規模な爆発があったために、熱反応を検知して集まってきたのだ。
2139年の空中戦にドッグファイトは必要なく、ひとたびロックオンされたら勝負はついている。
「Thank you for your assistance.(援護をありがとうございます)」
「Identify yourself.(身元を確認できるか)」
神坂が謝意を述べるが、無人機は神坂も疑っている。
デジタルIDを持たないバイオクローンは撃墜対象となるが、彼は厚労省所管の国際デジタルIDを発信できるので認証できたようだ。
彼が身元を明かすと、無人機からの通信を受け取る。
「Identified. You shut down the gravity device. We'll shoot down them as soon as we find. (認証しました。あなたは行って重力装置への対処を。無法者は撃墜しておきます)」
「Copy that. (了解)」
バイオクローンは次々と集まってくるが、無人機が攻撃をしてバイオクローンの挙動を引き付けてくれる。
追跡を振り払うことができてありがたい。
神坂はバイオクローンの中にある何者かの記憶を救えなかったことを気にかけながら、やるべきことに立ち返り、彼らに任せて先を急いだ。