第10章 第9話 The point of no return.◇◆
愛実はジェレミー・シャンクスを連れてポータルを通り、異界の自宅マンションに帰還する。
地下ポータルに灯る無数の明かりと、ほどよくセンスのよい館内の間接照明。
そしてエレベータの振動が、この空間に侵食が及んでいないことを教えてくれえる。
二人は不安を紛らわすようにエレベータの中で言葉を交わす。
「Is your family in a safe place?(ご家族は安全なところにいますか)」
「I’ve already evacuated them. Thanks for your concern.(家族は避難させてきたよ。ありがとう)」
エレベータは最上階の自室に接続し、エレベータを降りるとすぐに自宅扉がある。
彼女は足を止める。
「張り紙?」
愛実がドアの前で見つけたのは、正確には張り紙ではなかった。
自宅ドアの前に、貼り付けられることなくA4サイズの紙が浮かんでいた。
「紙が浮いてる……?」
愛実は紙を取ろうと手を伸ばす。
極細の糸で吊るされているのかもしれない。
無防備に伸ばした愛実のその手首を背後にいたジェレミー・シャンクスが掴んだ。
「Wait. I take it. It might explode. (待て、私が取る。爆発物かもしれない)」
彼は愛実より先に手にとって紙を見てみるが、白紙だった。
「It's a blank sheet.(白紙だ)」
愛実が続いて受け取ると、紙の上に青白い立体文字が浮かび上がった。
「No, I found something.(いえ、何か出てきました)」
「What? Still blank for me.(何も見えないが)」
【東 愛実さん。助けが必要な場合は内線1番に連絡ください。管理人】
愛実はメッセージを読み上げるが、ジェレミー・シャンクスにはメッセージそのものが見えていない。
メッセージもすぐに消えた。
I Cチップなしに浮遊し個人認証する紙など、二人共見たことも聞いたこともない。
「It’s wired. Are you close to the administrator?(妙だ。管理人とは親しいのか?)」
「No. I have never even met actually. (いえ。実は会ったこともないんです)」
「Then don't contact him.(なら連絡するなよ)」
愛実も沙織も、管理人とは一度も見えたことがない。
正確には、姉妹は管理人を探していたが会おうとしても会えなかった。
同じマンションに住んでいると八雲には聞いてはいたが、居住者として何ヶ月も過ごす間、管理人と遭遇するどころか人の気配すらしなかったのだ。
その管理人が接触を図ってきたのは何故だろう。
愛実はメッセージを折りたたんでポケットに入れ、エントランスでレジデントであることを認証し用心深く室内に入る。
「これは……」
室内に自動で明かりが灯ると、荒らされたような形跡と、おびただしい血のついた服がソファの上に無造作に投げ捨てられてあった。
嫌な予感がして室内のセキュリティ録画を確認する。
すると沙織が慌ただしく室内を物色していた様子が記録されている。
空き巣が入ったのではなく結構だが、沙織の顔を見るまで無事だと確信できない。
すでに沙織の服に大量の血液がついていることと、機敏な彼女の動きから、彼女はこの時点までは、怪我はしていたかもしれないが少なくとも動ける程度だったとわかる。
録画の時刻はEMP攻撃に晒される直前だ。
(何かあった……ではこの血は誰の……?)
沙織のではなく、返り血のように見えなくもない。
愛実は恐怖で鼓動が跳ねるのを押さえながら沙織のモバイル端末にアクセスしてみるが、繋がらない。
EMP攻撃で端末が壊れて、あるいは基地局が破壊されて繋がらないのだろうか。
「Indeed, the administrator might know something.(管理人さんが何か知ってるかもしれません)」
タイミングが最悪のような気もするが、愛実は背に腹は代えられないとばかり、内線1番に連絡する。
「東 愛実です。管理人さんに繋いでください」
「私です」
自動音声が途切れ、電話口からは若い男の声がする。
愛実は内線を切られないよう一息で話し終える。
「張り紙見ました。直接会ってお話したいことがたくさんあります。どこに行けばお会いできますか?」
「伺いましょう」
通話が切れた。
「Who’s coming?(誰か来るのか?)」
通話が切れて数秒もしないうちにインターホンが鳴る。
二人はぞっとして顔を見合わせる。心の準備がまだだ。
(尾行して外に張り付いていたってこと?)
「Step back.(下がっていろ)」
ジェレミー・シャンクスは愛実にそう告げ、警戒しながらドアを開ける。
ドアの向こうにいた訪問者は二十代と思しき日本人の青年だ。
「はじめまして。管理人の藤堂です」
愛実の目からは細身の青年のように見えたが、戦闘経験のあるジェレミー・シャンクスは彼の上腕や首周りの筋肉、そして立ち姿勢を見て一目で油断のならない相手だと察した。
鍛えているのではなく、日常的に戦闘している、職業兵士のような雰囲気だ。
この男は危険だ。おそらくは、八雲よりも。
藤堂が丸腰にもかかわらず、ジェレミー・シャンクスは銃に手をかけている。
防御せずにはいられなかったのは、本能的な危険を察知したからだ。
そんな水面下の探り合いに気付き、愛実は無駄に第一印象を損ねないよう挨拶する。
「管理人さん、こちらのマンションでお世話になっています。入居時にお会いできず申し訳ありません」
「いえ、それはお気になさらず。こちらもご挨拶できず失礼しました」
「あなたは八雲さんの弟さんですか?」
「はい」
そうだと言われてみれば少し兄の面影がある。
ジェレミー・シャンクスは妙に思った。
藤堂は日本語で話しているが、翻訳なしに言葉を理解できる。
アガルタ世界内部でのそれのように、脳に情報を書き込まれているようだ。
彼が敵だとしたら、二人共簡単に洗脳されて操られてしまうような気がする。
ジェレミー・シャンクスは挨拶を終えた後も愛実を庇うように間に立って、愛実に藤堂から少し距離を取らせている。
霞が関の職員の目のある中で表向き公務員として振る舞っていた八雲より、二対一であっても密室で遭遇する不審者のほうが遥かに厄介だ。
藤堂は軽く手を広げて、無手であることを示す。
「お話を伺っても?」
「すみません、中にお入りください」
「お邪魔します」
愛実は背中を向けないようにしながら彼を招き入れる。
「散らかってて……あれ?」
先程まで散らかり放題だった部屋が片付いている。
あの光景は何だったのだろう。
狐につままれたような気分を宥めながら、三人はテーブルにつき、愛実はこれまでの状況をかいつまんで説明する。
「というわけです」
「なるほど」
「それで、姉に連絡をしたのですが、通話を取ってくれなくて」
「東 沙織さんが電源を切っているだけです。現時点で彼女は無事です」
「あの血は……? 現時点のことまでどうして分かるんですか?」
「直接見てもいますし、先ほどお会いしたときに安否確認のできる装置を渡してトレースしています」
「よかった……!」
愛実は思いがけない情報を得て無事を喜ぶ。
「それで、姉は安全な場所にいますか?」
「当面の危険はないはずです」
藤堂の言葉を聞いて、愛実は彼が沙織を保護しているのだろうと錯覚しほっとする。安否がわかったところで、彼に兄のことを伝えるべきだと思った。
「藤堂さん……お兄さんの容態をご存知ですか?」
「断首されて胴体は中央医療センターに、首は太平洋の小島にあります。把握しています」
彼は感情の見えない表情で告げる。
「行き先までわかるんですね」
首のありかは初耳だ。
それにしても、肉親の死に対してこの淡々とした反応はなんだろう。
ショックで何も考えられないのだろうか。
できればこの異界のマンションで、これ以上危険で不審な人物と遭遇したくはないものだが。
「……お兄さんのことは残念です」
何しろ異界のマンションやポータルを作るような相手の弟だ。
兄と同様に、ただの人間だと思わないほうがいい。
穏便に話をして協力をとりつけるべきだ。
「ええ、今日は妹も亡くなりました」
愛実は絶句する。
一日のうちに家族が二人も亡くなるなど、愛実には受け入れられない。
「あのテロでですか……お辛いでしょう」
「ありがとう。一つでも因果の掛け違いが起きれば、結果は甚大なものとなります」
「何かテロ以外の予想外なことが起こったということですか」
愛実は藤堂の言葉の裏にある含蓄を読み取った。彼は頷く。
「ええ。因果には勝てません。管理者でさえも。これ以上の犠牲を出さないためにも話を続けます。兄が死亡するまで三日ほどかかります。今はまだ持ちこたえていますが、彼の死亡が確定すると、彼が止めていた災害が一気に実世界に押し寄せます」
「How could he stopped disaster?(どうやって災害を止めていた?)」
今彼を問い詰めている場合ではないと判断した愛実は、ジェレミー・シャンクスを制して尋ねる。
「お兄さんを復活させる方法があるのではないですか」
「どうやら今回は無理のようです」
「Come on. Does this not work for him?(待てよ。これがあってもか)」
愛実が尋ね、ジェレミー・シャンクスはすかさず保管していたサンプルチューブを彼に投げて手渡す。
当事者に訊くならこのタイミングしかない。
藤堂はチューブを受取り、内容を一瞥する。
「What is this actually? I already gave it to her.(実際これは何なんだ。彼女に飲ませたら復活した)」
「何かわからず投与するとは」
「I would do anything if the patient were dead, even if it weren't me.(私でなくとも、患者が死んでいたら何でもする)」
ジェレミー・シャンクスは心肺蘇生時に躊躇なく患者の肋骨を折るタイプだ。
判断を違わず、彼のできることに全力を尽くす。
「And I know a little bit about mythology. It saved her life.(それから私は神話に少し詳しくてね。だが、おかげで彼女は命をとりとめた)」
心停止をし、完全に死亡した愛実が復活したことがその証拠だ。
「A lot of innocent people died today. Can't we use this to revive them before their corpses are necrotic?(今日、大勢の無辜の人々が死んだ。死体が壊死しないうちに、これを使って復活させることができないか)」
「血液は凝固すると失活します。東さんにはすぐに飲ませたので効果があったのでしょう」
「Why don't you donate your blood?(君は献血をしないのか?)」
「あいにくと私の血はἰχώρではありません」
藤堂は人差し指の爪先で親指の腹を切り、血の色を見せる。見慣れた静脈血だ。
八雲のように黄金色ではなかった。
「兄の血も人に飲ませるべきではありませんでした」
「Is there a disadvantage over dying?(死ぬ以上のデメリットがあるのか)」
「心臓への負荷がかかり、数日以内に二度目の死を迎えます。処置しておきましょうか、東さん」
一体何をされるのかと愛実は身構える。
ジェレミー・シャンクスの処置は救命のために仕方なかったとしても、これ以上意味不明なものを投与されたくない。
こうしている間にもやらねばならないことが山ほどある。
「どんな処置ですか」
「兄の血液成分の分解です。このまま死にたいというなら止めません。あなたの意思を尊重します」
愛実は気乗りしないながらも受け入れるしかない。
何をされるか定かではないが、この期を逃せばもう藤堂とは会えないかもしれない。
何しろ、これまでどうやっても彼と連絡をとる手段がなかった。
今、彼にしかできない処置を逃して、数日で死体に逆戻りは避けたい。
「お願いします」
「鎮静させて少し浮かせますよ」
「浮かせる!?」
藤堂が手をかざすと、予告通り彼女の周囲から重力が消えたように数十センチほど体が浮く。
藤堂の指先の動きから、彼に操られているとわかった。
金縛りに遭ったかのように首から下がうごかない。
愛実は悲鳴を上げそうになったが我慢して飲み込む。
現実には屋内スカイダイビングなどのスカイスポーツ施設で遊んだことはあるし、仮想世界では日常的に浮遊していたが、現実には経験がない。
そのとき、先ほどは見えなかった自身を包む紫色の光のベールに気づいた。
「この光はアトモスフィアですか」
「アトモスフィアや神通力などと呼ばれているものです。正しい使い方をすれば人体に害はありません」
アトモスフィアは標的物質と反応を起こすときに励起され放射光を残す。
今は八雲の血を分解するために使っているという。
「アトモスフィアが実在するものだとは……」
「実在するダークエネルギーですが、この時代にはまだ発見されていないだけです」
藤堂から受け取るアトモスフィアの質感は、愛実が想像していたものと違った。
アガルタ世界に存在するそれのように温かくも心地よくもなく、ブラックライトや殺菌灯の中にいるように無機質なものだった。
「何も感じません。もっと温かくてこう……」
「心地よいものかと思いましたか。人間には受容器がないので何も感じないだけです」
「受容器があれば?」
「おそらくそのように感じます」
愛実はアガルタ世界でアトモスフィアの感覚が再現されていたことを知った。
その時、鋭い声が室内に響く。
「Put her down now.(彼女を降ろせ。今すぐだ)」
ジェレミー・シャンクスは藤堂の下腿に向けてハンドガンを構えている。
彼は藤堂が愛実に危害を加えていると疑っている。
殺害するつもりはないが、本気で撃つつもりではいる。
藤堂が取り合わないので再度警告する。
「I told put her down. I don’t miss.(降ろせと言ったぞ。私は外さない)」
愛実は本気で撃つつもりだろうかと危惧する。
映画でしか見たことのない現場に立ち会ってしまったが、体の自由を奪われたままどう立ち回ればいいか分からない。
この膠着状態でどちらを止めればいいのだろう。愛実の肌にじっとりと汗が吹き出す。
「あなたに医療者の良心があるなら患者を優先すべきです。私は彼女の治療をしています」
「It’s fine. If only it were therapy.(それはいい。それが治療であればな)」
これでは愛実を人質にとられているも同然だ。
「あなたが狙いを外さなくても、私の手元が狂えば彼女を危険に晒します」
藤堂は振り向きもせず警告する。そうしている間にも愛実への処置は続いている。
「それに、当たらないと思いますよ」
彼は背後を見せたまま軽く左手の拳を握り込み、それを開いた。
彼の手の中からバラバラと銃弾が落ちる。
銃に触れずに弾だけを抜かれたのだ。
銃身に振動すら感じなかった。
ジェレミー・シャンクスは次の瞬間彼の背後から殴りかかり、見えない壁に吹き飛ばされて壁に叩きつけられ、そのまま床に倒れ伏す。
「やめてください! 傷つけないで下さい」
藤堂が反撃していると感じた愛実は絶叫する。
藤堂は受け流し、治療に専念する。
全身にくまなく注がれるアトモスフィアを受け入れるしかない。
「終わりましたよ」
愛実は処置が終わってふわりと床に降ろされる。体も動くようになった。
危害を加えられたか、治療が行われたかどうかも定かではない。
愛実は倒れていたジェレミー・シャンクスを助け起こす。
怪我はしていないようだ。
「Are you okey?(大丈夫ですか?)」
「The real atmosphere is insane.(本物のアトモスフィアは凄まじいな)」
彼は不本意ながら拳をおさめるしかなかった。
愛実はかねてからの疑問を尋ねてみる。
「あ、あの。アトモスフィアがあるということは、神具もあるんですか?」
「実在します」
「お兄さんはそれらを使って本来起こるべき災厄を止めていたのですね」
アガルタ世界ではアトモスフィアがエネルギー通貨のようなものだった。
アトモスフィアと神具が現実に存在するのなら、どれほどの影響を及ぼすか未知数だ。
愛実はこれが現実だとは信じがたい。
たった一人で、世界中の事象を制御できるなどとは。
そういった存在を、人は古来より神と呼んで畏れてきたのだろう。
「Well, Do you have the same abilities as your brother? You can use those tools? Then why don't you stop?(それで、君には兄ほどの能力があるんだな? 神具も使えるんだな? ならなぜ止めない)」
全ての神具が実在するというのなら、至宙儀を使えば何もかも解決する。
使わない理由が理解できない。
人類の終焉を高みの見物と決め込むつもりだろうか。
「申し訳ないのですが、私がこの世界に直接介入すると事態はより悪化します」
「これ以上悪いことなんて起こりようがないと思うんですが……」
世界各地で同時多発テロが起こり、首都が襲われて機能を失い、多くの人々が今も犠牲になっているはずだ。
それ以上のことなど、愛実には地球が消滅するぐらいのことしか思いつかない。
愛実が尋ねると藤堂は辛そうに視線を外に向け、窓に近づく。
「この世界はあなたがたの世界と相違ないでしょう」
このマンションの外に広がるのは、人々が文明から追い出されたかのような寂寞とした無人の世界だ。
ずっと、ここがどこなのか愛実は八雲に聞きそびれていた。
「ここは一体どこなんですか」
「時空の違う、同じ場所です。私達が最善を尽くし、あなた方を災厄から守り続けて、その結果辿り着いた……」
藤堂もまた、別の世界で八雲のしていたようなことを続けてきた、と告白する。
時空に干渉するほどのエネルギーを使い、仲間とともに世界の脅威を取り除こうとしてきた。
ただ、何度試行しても事象に歪みが生じ、これまでのところ、さらなる災禍を生み出して破滅へと繋がるだけだった。
彼はその過程で多くの仲間とエネルギーリソースを失い、試行できる回数もあと僅かだそうだ。
本日、兄と妹の死をもって、彼は唯一の生き残りとなった。
「You've tried several times, haven't you?(何回か試したのか?)」
「両手と両足の指を使い切るぐらいの桁数は」
「Are you kidding?(冗談だろう?)」
「そうならよかった」
冗談などではない、という声のトーンだ。
愛実は彼の見てきた人類の滅亡が、いかに避けられないかを追認するような気がして、恐ろしくてそれ以上踏み込んで聞けなかった。
「私達はあらゆる分岐を模索しましたが、この行き詰まりから解放される道はいまだ見つかっていません」
「打つ手はない、ということですか?」
このまま大勢の人々の死を受け入れ、ただ見ているしかないというのだろうか。
「ただ、今回は他の世界と異なり、稀有な変異が発生しています」
「どう違うんですか?」
「東 愛実さん。それはあなたの生存です」
「私……?」
愛実は青ざめながら自らを指す。
他の世界で何があったか知りたい一方で、しかし聞いたからといって受け止められそうにない。
愛実は恐ろしくてたまらない。
「あなたが今日の時点でまだ生きている、それこそが変異です。ほかのどの世界でも、あなたは既に亡くなっているのです。あなたが生きていることで神坂 桔平さんが構築士とはならず、アガルタ世界は死後福祉の利用にとどまり、機密は仮想世界の外に持ち出されず、Reachability of Inttelligenceは覚醒せず、DFH計画は起こりませんでした」
神坂 桔平が構築士になった契機は間違いなく愛実の失踪だ。
愛実の失踪が彼の人生を変え、その結果広範な影響を及ぼしてしまったというのだ。
「そんな……」
何もかもが変わってしまった。
この災厄を引き起こしたのは、愛実のせいなのだろうか。
彼女は自責の念に襲われる。
「私が生きているせいで大勢の方が亡くなったということですか……? 正しい歴史では、私は死ぬべき人間ということですか」
愛実には特別な力などないし、何かできることがあるとも思えない。
それでも、生き残ってしまった意味を何かせずにはいられない。
自らが意図せず特異点を作ったというのなら、世界を変えるのも自分なのだろうから。
「選択を誤れば、この風景を見ることになるのですか」
愛実はバルコニーから外に出て、誰もいない東京の街を眺める。
その視線を地上に落とす。
地上56階。アガルタ世界と違って人は飛べない。
ここから飛んでしまえば……きちんと死ねる。
愛実の頬に大粒の涙が伝う。
「藤堂さん。教えて下さい。私が死ねば、終末を遅らせることができますか」
少なくとも、終末までの時間稼ぎができるかもしれない。
愛実はバルコニーの手すりに手をかける。
藤堂は啓示を与えず、止めようとしない。
愛実に自力で判断させ、対処させようとしている。
「Stop. Don't make any decisions. It's not just about you.(やめろ。何も決めるな。君だけの問題ではないんだ)」
ジェレミー・シャンクスが愛実の肩に手をかけ、そのまま彼女を羽交い締めにするように抱きしめる。
止められなければ、何かに急き立てられるように飛んでいた。
「Don’t try to punish yourself, it is not your fault. You are alive.(自分を罰しようとするな。君のせいじゃない。生きていていいんだ)」
「でも、私のせいです」
「Did the world you died in lead you to the right answer? It means a lot that you're alive. When you die, it's over.(君が死んだ世界は正解に繋がったのか? 君が生きていることに価値がある。死んだら終わりだ)」
愛実は彼の忠告を一旦受け入れ、バルコニーから一歩下がる。
この先の選択はきっと重大で、後戻りができない。
何を決めるにしても、迂闊には動けない。
判断材料がほしい。
愛実が自殺を諦めたのを見届けてから、藤堂が口を開く。
「諦めがついたようですね。では中に入りますか?」
「まずは情報を集めます。藤堂さん、手伝ってもらえますか」
「もちろんです」
藤堂は愛実とジェレミー・シャンクスに対して掌をかざす。
するとそこはマンションの一室から空白の空間へと様変わりしていた。
白い空間に情報の洪水が現れ、二人はそのデータ量に圧倒され、恐れをいだく。
愛実の求める情報を中心に、宙に膨大なマップが表示されている。
「ど、どうやって?」
愛実は驚いてのけぞる。
まるで仮想空間に迷い込んだかのようだ。
ポータルを通って異空間のマンションに出たのだから、さらに違う場所に繋がっていても何ら不思議な話ではないが、にわかには理解できない。
「場所ではなく認知が変わったのです」
彼は生身で演算をして、その一部を分け与えている。
この時代にもかろうじてその技術の片鱗はあるが、発達した生体コンピューティングというものだろう。
「私達の脳に直接映像を見せているということですか」
「はい。私の脳にある情報を同期させています」
「How do we handle this information?(この情報はどう扱えばいい?)」
「思念で操ります。やってみてください」
必要な情報が念じただけで手繰り寄せられる。
愛実とジェレミー・シャンクスは二人で協力して情報を精査しテロリストの進行状況を調べる。
テロリストの位置や被害状況までがリアルタイムで積み上がっている。
公的機関の最重要機密からダークウェブ、オフラインデータ、表層から深層まで。
プライベートネットワークも網羅していることが分かる。
愛実は駆け出しの構築士ではあるが、これほど膨大な情報を扱ったことがない。
「これ、どこからこんな情報を」
「It's the observational data of all the events happening in the world.(世界で起こっている全事象の観測データだな)」
「どこから観測しているんでしょう」
二人は藤堂の顔を見る。
彼が手に入れている情報の解像度は高く、藤堂は八雲が把握していなかったことまで知っている。
兄弟で情報を共有していないのか、八雲に隠していたのかは定かではない。
「If it weren't for this moment, I'd have a million questions for you.(こんな時でなかったら君に聞きたいことが山程あるな)」
「今は必要なことを優先してください」
彼は相手にする気はなさそうだった。
藤堂は淡白に見えるが、彼の意思が介入しないよう公平であろうとしているのだと察した。
「What does this tracker indicate?(このトラッカーは何を示している? 稼働が始まったぞ)」
ジェレミー・シャンクスは海洋上に規則正しく配置されている表示をみとめ、愛実とともにその構造を調べる。その数、数百基。
藤堂の観測で詳細な設計図なども閲覧できるため、すぐにその機能を推測できる。
「This must be a gravity device.(これは重力装置だな)」
「Gravity devices? Why so much at sea?(重力装置? 何故海上にこんなに?)」
この数とこの規模の重力装置があれば……赤道上の大気組成、気温、重力を変えてしまえる。
EMP攻撃や都市の破壊は偽旗で、重力装置を止めるための抑止力の排除が目的だったということになる。
「Once this is up and running, we will not be able to withstand the drastic changes in our global environment.(これが稼働したら……私達は地球環境の激変に耐えられない)」
どこか現実離れをしていた窓の外の光景が、にわかに現実味を帯びてくる。
ひたひたと脅威が近づいてくる。
「I'm going to be blunt: Humanity will not survive.(はっきり言うが、人類は生き残れない)」
ジェレミー・シャンクスは断定した。
「If you have such accurate location information, you can report it to the proper authorities at ......."(これだけ正確な位置情報があるのなら、然るべき機関に通報すれば……)」
そう、例えば自衛隊や米軍なら座標を提供すれば破壊してくれるのではないだろうか。
「Even if we rush to the appropriate agencies, can we explain that these gravity devices are underwater and cannot be observed even by reconnaissance satellites?(然るべき機関に駆け込んだとして、これらの重力装置が海中にあり、偵察衛星でも観測できないことまで説明できるか)」
緊急出動させたとして、重力装置を同時に数百基を止められるかどうかが次の問題となる。
愛実が何か言っても公的機関に取り合ってもらえない。
内調に勤めていた頃の沙織であればともかく、内調から切られた沙織では何も動かせない。
「これを私達で解決できると思いますか」
絶望から抜け出す方法を求めるように、愛実は藤堂に手がかりを求める。
「できると言ってください……」
藤堂は力なく首を振る。
何か知っていたところで意思決定を促すようなことを言えないのだろう。
「私に言えるのは、これを切り抜ければ新たな世界線へと繋がるということだけです。その後は私達がいなくとも、情報管理と未来予測による危機回避が力を発揮するでしょう。それが人類の生存のための僅かな希望です」
「We are not soldiers or counter-terrorism experts. We need advice.(我々は兵士でも対テロ専門家でもないんだ。助言が必要だ)」
「Who would believe this story?(でも、この話を信じてくれる人なんて……)」
ジェレミー・シャンクスの視線はある衛星データに吸い寄せられた。
「Maybe in here.(おそらくはここに)」
全主神の本体が殺害され、さらに主神を失った管区。
外部からは見えるはずのないデータが表示されている。
データが更新され、リアルタイムで正常に稼働し続けている。
全管区の主神の人格を継承して稼働させている、主神以外の何者かがいる。
正体を突き止めたい。
「藤堂さん、接続できますか。お願いします」
今、手に届く人類の叡智がおそらくはここにある。
愛実はそう思えてならなかった。