第10章 第8話 Ichor◇◆
沙織と神坂は太平洋上を高高度飛行で八雲の首を持ち去ったテロリストを追っていた。
二人で長時間黙っているのも気まずいので、神坂から沙織に話しかける。
神坂にとっては沙織と会話をするのは二十年ぶりだ。
「沙織さんとお呼びすればいいですか」
「ご自由に」
神坂の呼びかけに、沙織は素っ気なく返す。
沙織も神坂にどんな態度で接すればよいのか決めかねているのだろう。
「こんな時ですけど、沙織さん。あなたと再会できてよかったです」
「そうね。私もあなたが無事で何より」
肉体はお互い死んでいても、それは関係ない。
テクノロジーによって人格は保護されているのだから。
「あなたがどうしていたかは、愛実を通じて話は聞いていたわ」
救助隊に引き渡した愛実が無事かどうか、ということは二人とも敢えて触れないでおいた。
今は神坂と沙織、二人にしかできないことを、心を無にして完遂する他にない。
でなければ、愛実の居場所すら危うくなってしまう。
飛空車の背後からかなり速度を上げて追跡しているからか、フライングアタッチメントのバッテリー残量が限界まで減っている。
「沙織さん、これ到着するまでバッテリー足ります? 目的地が分からないので長距離になる可能性もあります。バッテリーがなければ自身の飛翔に切り替えますが、長時間はもたないと思います」
神坂は現在フライングアタッチメントに飛翔を委ねてブースト機能であるスイッチモードをオフにしているが、バッテリー切れで敵地で活動限界を迎えたくない。
「そうね。追跡を振り切るために地球何周かするかもしれないし。早めに交換しましょうか」
沙織はグローブを外して中指にはめたリングに何か念じると、彼女の手の中に新しいアタッチメントが現れた。
それを空中で神坂に手渡す。
神坂は海上に落とさないよう一本ずつアタッチメントを交換し、飛翔を継続する。
「すごい……そのリング。オーパーツとしか言いようがないですね」
「でしょう。ほかに何か必要な装備があるなら急いで出したほうがいいわ。24時間で消えてしまうそうよ」
沙織の持つリングはアイテムインベントリといって、指に填めると本人の体重を超えない重さのものを何でも出すことができるそうだ。
「何でも出せるのでしょうか」
沙織に渡された銃火器ではなく、別の武器に持ち替えたい神坂である。
「そうね。八雲の弟と妹は、何でも出していいって言ってたけど」
彼らはこんな物騒なものを渡して何をさせたかったのだろう、と沙織は懐疑的になる。
神坂と沙織は今、彼らの思惑通りに動いているのだろうか。
彼らはどうすべきなのか、教えてくれなかった。
「その方たちは、物理的な制約があってこちらの世界に手を出せないと言っていたのですね」
「ええ。直接手を貸せないとも言っていたわ」
「だったら、出してみたいものがあります」
「何? 自分で出して」
聞き取ることを億劫がった沙織は神坂にリングを渡す。
「手を出して念じるだけで出るわ。落とさないようにね」
「なるほど……あれ。出ませんね」
神坂はその場に手を突き出して何かを出そうと試みるが、何度か失敗しているようだった。
「何を出そうとしているの」
「神具の呼び出しに失敗しました」
神坂が呼び出そうとしたのは至宙儀だ。
あれさえあれば、ゲームチェンジャーになる。
「何言ってるの。当たり前でしょ……空想の産物なのだし」
「そのリングがあるなら、空想の産物ではないと思ったので呼び出してみたんです」
「何で神具なんて呼び出そうとするの」
神坂は、沙織の疑問ももっともだと頷く。
「できることは、やっていい。それがアガルタ世界のルールだそうです。八雲さんの知識を悪用されることは、八雲さんが懸念していたアガルタ世界の技術を持ち出されることに他なりません。何故彼がそれを阻止し続けていたか、今なら私にもよく分かります」
より重大なほうを天秤にかけて、最悪を避けて非常時の運用をする。
一時的に神具を呼び出すことになっても、後始末は後ですればいい。
もしそれが許されないのなら、このリングはアガルタ世界と現実を接続しない。
神坂はリングを介して身の丈以上もある銀色のなめらかな杖を召喚し手にした。
沙織の見慣れない武器だ。
「それは何?」
「非殺傷性の半物質の神杖です」
「そんなの出せるの」
つまりアガルタ世界の道理では“使っていい”ということだ。
この神杖は神坂が仮想世界の27管区内で設計したもので、神坂が思いつく限りの機能を付加していた。
空想上の荒唐無稽なものではなく科学的に再現可能なので出せたのだろう、と彼は解釈している。
「そのリングはあなたが持っていて。私はもう欲しい装備はないから」
「では預かっておきますね」
「その杖が使えるか分からないから、海があるうちに試し撃ちをしておいたら?」
「そうですね」
この神杖は基本非殺傷状態で使うが、ダークエネルギーの増幅や指向性エネルギー兵器にもなり、プラズマの放射もでき、近接と遠距離攻撃、どちらにも使える。
神坂は27管区では常にアトモスフィアを充填していた。
それが現実世界においてはダークエネルギーに換算されているはずだ。
彼は神杖を握りしめて手になじませ、ぐっと力をこめると出力を抑えて連続的に海上に火球を発射する。
海面から海底まで型抜きで貫通したかのように穴が開く。
少し遅れて、海上に高々と水柱が上がった。
「威力は十分ね。取り扱いに気をつけなさい」
「ですね。自爆しないように気をつけます」
杖表面に残エネルギーゲージが表示されている。
ダークエネルギーは全く減っていない。
仮想世界での攻撃より威力が大きいようなので、出力には細心の注意を払わなければならない。
27管区では赤井も至宙儀の性能にあかせてやりたい放題だったが、現実世界ではそうもいかない。
バイオクローンのスイッチモードと神杖があれば、大抵のことは切り抜けられそうだし、見慣れない武器には相手も怯んでくれそうだ。
島嶼が見えて暫くして、二人は同時に疑似脳を経由して有効なネットワークを発見した。
「通信回復しました」
「米国ではネットワークが生きているようね。衛星通信も使えそう」
二人は短時間でEMP兵器により世界の主要な都市が攻撃を受けていると把握する。
「なんということ……」
霞が関を襲ったようなバイオクローンの襲撃による破壊だろう。
公的機関や世界各国のアガルタ機構との通信は途絶しているようだ。
「沙織さん。八雲さんはオンラインでしょうか」
「無茶言わないでよ。今、生首なのよ?」
確かに生首は、培養液に入れていれば脳細胞レベルで数日は生きているだろう。
今は整髪料についたナノデバイスを追跡しているだけだから本当の意味での生死はわからないが、会話ができる状態だとは沙織は考えられない。
沙織は決断を下す。
「八雲の首を見つけて、持ち帰れそうなら持ち帰る。持ち帰れないなら、細胞一片も残さず焼却する」
八雲の細胞は未知のテクノロジーの結晶だ。
細胞のデータを取りたくはあるが、あまりに危険な情報であるために、敵の手に渡る前に抹消する以外にないと沙織は判断する。
一方の神坂は、できる限り生脳の情報を復元したいと考えている。
彼の協力がなければ、アガルタの復興は困難を極めるだろう。
「座標が止まったわ」
「民間人も住んでいる島ですよね……」
二人はターゲットを追って北マリアナ諸島の北端の島嶼に辿り着いた。
島は近代化されて町並みは整備されており、数百人からの住民がいそうだ。
光学迷彩を纏っているために、人々には目撃されていない。
「全員ではないにしろ、住民の殆どは民間人でしょうね。騒ぎにならないよう、エントリーは慎重に」
住民を巻き込みたくないという意思は二人共同じだ。
二人は海上から島の上空に入り、木立や茂みの間に身を隠す。
人と遭遇せず痕跡を残さないよう、地に足をつけないまま木々の間を縫って目標地点へと進む。
テロリストが秘密の拠点を造るとすれば、空爆に備えて地下施設にするだろう。
沙織は監視センサーに捕捉されないよう死角を通る。
沙織たちが追っていた飛空車の姿はもうない。どこかに隠れたようだ。
「どこから潜入しましょうか」
「地下施設に帰還する飛空車について内部に潜入するしかないわ」
潜伏し監視していると、飛空車が一台、南の方角より帰還してくる。
沙織たちが追っていた者とは別の人員が乗った車両だ。
飛空車がこちらに接近してくると、草原に施されていた迷彩が解けて地面に大型の鋼鉄のハッチが現れる。
沙織の突入のハンドサインに、神坂が頷いて応じる。
二人は熱光学迷彩を起動したまま飛空車の背後に忍び寄り、後部センサーに気付かれないように飛空車の降下に合わせて地下格納庫へと忍び込んだ。
飛空車の陰に隠れ、地下基地への潜入を開始する。
飛空車から降りた人員が通用路と思しき大きな横開きの扉の奥に消えてゆく。
(熱光学迷彩を起動して。この扉から行くわ。援護を)
神坂は疑似脳に施設内部構造の解析をさせ、マッピングを始めた。
二人は正面から侵入し、八雲の首の座標を確認しながらそれぞれの武器を構えたまま通用路を飛翔する。
地下は地上と比べて空気が数度冷えて、施設内部には高い鋼鉄の壁がそびえ立ち、線状に配置された照明がわずかに灯っている。
地下は五階まであり、各階の広い通路はいくつにも分岐し、用途に応じた施設へと続く。
地上部からは想像できないほど大規模に広がる地下施設は、不気味な奥行きを窺わせる。
沙織が神坂に無言で呼気吸収機能性マスクを手渡す。
これは毒ガスを無効化し呼気センサーをも撹乱することができる。
施設内ビークルと思しき装置で高速に移動していた八雲の座標が止まった。
場所は地下二階のホールで、周囲には大勢の人間らしき熱反応がある。
「数が多いわ。少し無茶をしないといけないようね」
八雲の記憶はすでに盗まれている状態なので、人格データを含む疑似脳が複製されていなければいい。
テロリストらはこれから八雲の記憶か人格データを複製する算段なのだろうが、その時間を与えてはならない。
「何か来る!」
通路の奥から複数の敵性体が、二人めがけて猛然と迫ってくる。
それらが姿を現すと同時に、彼らを先導する攻撃用ドローンが白く輝くエネルギー弾を放ってきた。
発光体の大きさから、通路にいる限り射線を避けられない。
神坂は沙織の前に飛び出て庇うと、神杖でエネルギー弾を弾くようにして初撃を流した。
ドローンに続いて現れた部隊は、パワードスーツか特殊装甲に身を包んだバイオクローンだと思われる。
沙織はサブマシンガンで射撃するも、弾丸は分厚い装甲に弾かれる。
「硬いわね」
彼女は躊躇なく相手に飛びかかり、銃身を掴むと向きを変えた。
そのまま横薙ぎに連射し数名を吹き飛ばす。
神坂は神杖の先端の半物質の柄で敵の装甲ごと貫通し、体内に即効性の麻痺薬を置いてくる。
それを中枢神経に叩き込めば、ガスマスクも装甲も意味をなさない。
放たれたグレネード弾を掴んで通路に放ち、隔壁を閉める。
隔壁の向こうから押し寄せる熱波と衝撃波をもろともせず、当て身や杖を振るだけでクローンを沈黙させる神坂は、アガルタ世界での赤井の姿と遜色ない。
「やるわね……」
「個別に対応するには数が多すぎますね。敵も集まってくるかもしれません、切り抜けましょう」
そう言うが早いか、神坂は杖を実体に戻して振り抜き数名を引き倒す。
狭い通路の中で人の雪崩を起こし、敵性体を押し戻す。
神坂は指向性エネルギー攻撃を使わない。
相手がテロリストであろうと、できれば誰も殺さずに切り抜けたいのだ。
しかし相手も神坂と同様に怪力で、情勢は拮抗している。
そのとき、不意に敵のドローン群が天井へと射撃を放った。
大質量の隔壁が天井より落下し、バイオクローンとの間に障壁ができた。
「横へ!」
神坂と沙織は一瞬の隙をついて脇の通路へと脱出し、疾走しながら言葉を交わす。
第一の目標は八雲の首の奪還で、彼らを殲滅しなくていい。
「今の。ドローンの誤作動でしょうか」
「誤射ではなさそう。まるで誰かが援護射撃をしているようね」
「罠かもしれませんね」
「ストップ」
沙織は急ブレーキをかけると、床に膝をつき八雲の生首と座標を照合する。
「ここよ。八雲の首はこの下だわ」
「敵は二十体いますね」
「ちなみに生身の人間は一人もいない。行くわよ」
二人は床を爆破して上階から階下へと突入、その場にいた構成員らが瞬きをする間に、神坂は神杖で衝撃波を放ち昏倒させる。
沙織は八雲の首の入った保存ケースを回収した。
ケースはまだ開封されていないようだ。
襲いかかってきた構成員を神坂はまとめて電撃とともに神杖で壁に叩きつける。
出力を調整しているので、殺害はしていない。
沙織は去り際に強烈な閃光弾と無能力化パルスを放ち、構成員等を即時に無力化した。
しかるべき機関の捜査を待っている間に逃げられ、新たな破壊活動に展開する恐れがある。
「八雲の首は持ち帰るわ。ここは封鎖して脱出する」
二人は脱出経路へと急いだ。
沙織は追跡を振り払うために、時間稼ぎのための非殺傷性爆弾を置きながら飛翔する。
そこかしこで彼女の仕掛けたトラップが起爆する音が聞こえる。
神坂は疑似脳のAR表示を見てあることに気づく。
「沙織さん。左奥に、大勢の人が不自然に押し込められている場所があります」
「敵が潜伏しているのではなくて? 避けるべきだわ」
「武装しておらず、生身です。子供もいます。うめき声も……。彼らが囚われた民間人なら……」
神坂の鋭敏な聴覚が遠く微かな音を捉えている。
彼らは横たわったまま苦しみ、言葉にならない声を発している。
それらは潜伏しているテロリストや、その家族かもしれない。
しかし神坂は、民間人である可能性をどうしても捨てられなかった。
「あの扉です!」
神坂は沙織とともにドアを蹴破り突入する。
そこにいたのは、百メートル四方の広い空間に整然と並べられたベッドに拘束された人々だった。
彼らは劣悪な環境でヘッドギアを装着され、痣だらけのやせ細った体には無数の電極やチューブが挿し込まれている。
何らかの処置をされ、体が細かく痙攣している。
沙織は彼らの皮膚表面をこすり、遺伝情報を採取する。
公開されている行方不明者のデータと照合する。
「照合完了。行方不明者だわ……信じられない。三年も前の行方不明者よ。こっちは二年前。家族からの届け出があるわ」
「この人たちは、何をされているんですか……」
彼らはDFH計画に巻き込まれ、拉致されてテロリストたちに生命を脅かされている。
ここに放置して逃げるわけにはいかない。
「DFH計画に携わる者は、志願者ばかりだと思っていた。そうではないのね……こんなに大勢の人々が巻き込まれていたなんて。事件を洗い直す必要があるわ」
DFH計画に必要な生体部品は一定の基準を満たした脳のみ。
彼らの遺伝情報は、いずれも非常に高い知的、人格的素養を備えている。
構築士試験を受けていない民間人の中にも、何万人に一人かの才能のある者はいるのだ。
アルテマ社のデバイスで適合者を見つけだし、洗脳や拉致をして何かに使っていたのだとしたら……。
神坂は沈痛な面持ちで小枝のような細さの子供の腕に触れる。
「こんな子供まで……」
アガルタのチャンバーダイヴ式ログインシステムは職員を脳負荷や生体ダメージから保護していた。
万全の設備やモニタリングがなければ、生体は衰弱して廃用症候群になってしまうのは当然のこと。
今すぐにでも彼らを解放したいが、手順を踏んでこのヘッドギアを脱がせなければ無事では済まない。
証拠隠滅のために起爆するかもしれない。
だからといって、彼らを置いてはいけない。
対応を決めかねていると、ホールへと発煙弾が撃ち込まれる。
神坂は沙織より速く反応し、彼女を背後に押し倒して跳躍し、発煙弾を空中で捕らえ、通路へ投げ返す。
と同時に、反対側の扉から十名程度のバイオクローンがなだれ込んできた。
◆
ロイはネイサン・ブラックストーンに予告した通り、準天頂衛星上から階層跳躍を使ってテロリストの拠点のセキュリティを突破し、ネットワーク内に入り込んだ。
秘密裏に彼らのシステムをハックし、データの転送と解析を始める。
「さすがロイだ。相手には気づかれたか?」
「標準装備されているアルテマ社のデバイスをハックした。敵基地の発信電波を通じてオンライン上の構成員の脳に直接認識阻害コードを発している。もし気付いたとしても、俺の介入を疑わないように処理している。不十分か?」
「この一瞬で……そこまでできるのか」
「このくらいなら」
ロイの冷静かつ沈着な態度と言葉にナズは戸惑う。
彼が人類の敵になったら、人類は終わりだと、そんな危惧さえ懐かせる。
ロイは彼の表情から恐怖を読み取り、言葉を繋いだ。
「ナズ。俺の知識は全て外の……ナズも含めて現実世界の人類から学んだことだ。非常事態とはいえ、俺が授かった能力の全ては二つの世界の人々のために活用する」
「そうだったな。謝るよ」
「ちなみに、ナズはこの施設に潜入したことがあるようだ」
「何だって」
ロイは作業の手を止めずに告げる。
「記憶が曖昧だ。どうやったら思い出せる。僕に雷でも落としてくれないか」
ネイサンにとって、アガルタ世界に入る前に消した記憶は復元するのが難しいようだ。
「それで必要な情報を都合よく思い出せるわけがない。さっき記憶を覗いたときに少し見えた。無理に思い出さなくていい」
ロイも過去、自身に神通力の雷を連続で落としていたことは棚上げしている。
「普通の精密機器工場ではない。そもそもここに工場があることも秘匿されているようだしな。証拠を残しておこう」
テロリストの拠点だという証拠はいくつでも挙げられそうだ。
ロイは証拠となりそうなデータを拾い集めてまとめ、改ざん不能なコードを埋め込んだ。
「どこにもリークするなよ。どこへ通報すれば安全か分からない」
「それがよさそうだ。俺が暗号化して持っておく」
それにしてもアガルタの外のセキュリティシステムがこれほど脆弱で、それと対象的にロイから見ても完全に堅牢だったアガルタシステムが破られてしまったのが信じられない。
可能性があるとすればソーシャル・エンジニアリング・ハッキング以外にない。
テロリストを手引した者が組織内部にいたのならば、取り除かなければならない脅威だ。
ネイサンの教唆をもとにロイが暴き出したのは、この大規模な拠点で明らかに殺傷性の高く戦闘能力に長けたバイオクローンを製造しているということだった。
国際的に定められたAIの倫理的制限を無視といえるほど逸脱している。
バイオクローンの開発コードネームはDivine body。
アガルタ世界の技術を持ち出し、現実世界において神々のような力を行使し、大気の組成を変えて地球環境を破壊し、旧人類の滅亡、その後の選ばれしヒューマノイドのみの繁栄を画策している。
ロイは彼らの陰謀を白日のもとに暴き出してゆく。
「このバイオクローンの敏捷性は生体脳の受けるダメージを考慮していないから、生体脳で操縦できるとは思えない。高性能のクローンを作っても、生体脳は急加速に耐えられないだろう。すでにここを出て世界中に散ったクローンは遠隔操作か自動操縦で動かしているんだろうか」
「もし、アクチュアルブレインではなくプレインストールされたプログラムで動かしているとするなら、遠隔で奴らを制御できないか」
「それは今試したが、オフラインなんだ。外部からの干渉を受け付けない」
つまりバイオクローンの中に操縦者が乗り込んでいるか、プレインストールされたプログラムで、ネットワークを使わず連絡をとりながら個別に活動している。
ネットワーク経由でのシステムハックを警戒しているのだろう。
遠隔操作は可能な設計だが、中に人がいる場合はオーダーを受け付けず、機能停止させることができないという仕様になっている。
敵もさるものだ。
「バイオクローンを止めることができないのなら、追って各個撃破するしかなくなる」
「ナズ。これらと同等以上の性能を持つバイオクローン、もしくはこれを追跡して個別に殲滅できる兵器を、人類側は所有していると思うか?」
「五年前の情報ですまないが、少なくとも、僕はそれを知らない」
ロイの問いかけに、ネイサンはかぶりをふる。
「データを精査するに、ここに残っているのは55体。既に129体のクローンが世界各地で稼働しているようだ。こちらから干渉はできないが、個々の所在は追跡できる」
出撃したクローンは数体ずつのチームで世界中の大都市に散って破壊活動に加担している。
米国本土に25体、欧州に30体、東アジアに20体……などと表示されている。
世界各地のニュースで都市の大規模爆撃が報じられ始めた。
すでに壊滅的な破壊工作が行われているとみられる。
「人類文明の終焉の時はすぐそこだ……。どうやって止めればいい」
「外の世界がこうなってくると、こちらも無関係ではいられなくなってきたな」
キララも青ざめた顔で聞いている。
「アガルタ世界は衛星上に引き上げたから、地球が破滅したとしても重力が崩壊しない限り数十年から百年は耐えられる。だが……」
「この拠点にあるものは今のうちに破壊すればいいのではないか。野放しすると増援を送りかねんぞ」
キララはアガルタ機構のシステムが危機に瀕していると理解し、施設内のバイオクローンの破壊を提案する。
「バイオクローンを破壊せず、乗っ取って撃墜に使えないか。この施設内のクローンはまだオンラインなんだろう」
というのはネイサンの意見だ。
この施設内のバイオクローンを操作すれば、できないことはない。
撃破のためのプログラムをインストールすれば、追いすがって破壊することができる。
「待て、施設内24区画で何者かが交戦しはじめた」
「この音は何だ?」
「館内アラートの音だ。侵入者ありの警告だ」
ロイはテロリストの拠点内部で発生したアラートを感知し、監視カメラを通してターゲットを捕捉した。
「どうなっている?」
施設内に攻撃を仕掛けているバイオクローンの生体認証を行うが、二体とも製造番号が判明しない。
だからといって識別信号パターンがそれぞれ違うのでこの工場の製品とも違う。
施設内監視カメラで捉えた二体は人間に限りなく近い容姿をしている。
軍事用ではなさそうだ。
ネイサンは二体の日本人をベースにしたと思しきバイオクローンに目を凝らす。
「ここのクローンでないとすると、国際組織側の特殊部隊だろう」
「たった二体で来たのか?」
「突入時のユニットを二体にまで削られたのでは」
彼ら二人で何ができるのだろうと見守っていたところ、ロイは男の持っている武器に目を止めた。
(! ……何故この杖がここにある?)
ロイは、男がしなやかな金属の杖を慣れた様子で手にしているのに目を奪われる。
杖の形状はアガルタ世界の神杖にほかならない。
赤井の戦闘データと男の動作の類似性を解析するまでもない。
杖の扱い方、身のこなし、息遣い、それはロイやキララの身近に見てきた人物のそれと遜色ない。
アガルタ世界の彼と比べてクローンの性能により少し鈍重だが、動作の端々に癖は出る。
生きていたのか、という安堵と歓喜がこみ上げてくる。
至宙儀を引き剥がさなかったのは正しい判断だった。
「これは……アカイ? 変身しているのだな」
赤井と何度となく近接戦闘を重ねてきたキララの勘は鋭い。
見知らぬ姿をしているが、このバイオクローンに乗っているのは赤井だ、と確信していた。
「アカイと連絡を取らないのか」
促すキララをネイサンは諌める。
「別ユニットと作戦行動中に話しかけるべきではない。最悪の場合命を落とす」
「何を今更。不死身の神だ」
「だといいな」
見知らぬ人物と行動していることから、脅されて行動している可能性も視野に入れて、ただちに赤井と連絡を取らないほうがいいと述べるネイサンは慎重だ。
「アカイは何をしているんだ。この基地を破壊しに来たのか」
「……戦闘が目的ではないようだ。何か探している」
断片的な彼らのやり取りを拾うに、この施設の構成員が持ち帰った何かを探し求めて潜入したようだ。
「援護はできるか?」
「ああ。ばれないようにやる」
ロイはシステムを操り、彼の援護を開始した。
◆
災害現場のむせ返るほどの喧騒の中で目を覚ました東 愛実は、千葉の救急病院に搬送された。
朦朧としていた意識が次第にはっきりしてくる。
喉に違和感はあるものの、それ以外はまったくの無傷のようだ。
ダイヴスーツは脱がされていて、院内着を着ている。
愛実は呆然としたまま起き上がる。
病室内に備え付けられた時計が止まっている。
病室は不自然に暗く窓の外も明かりがない。
真っ黒な超高層ビル群が不気味に聳え立っている。
(停電? 暗すぎる)
輸液されているのは見えたが、喉がカラカラで咳が出る。
ふと彼女の目に止まったのはサイドテーブルに置かれたメモだ。
手を伸ばし、メモを取る。
外の月明かりでメモを見れば、そこには見慣れない文字が書かれている。
(これ)
愛実は目を丸くする。
27管区のアガルタ世界の文字だったからだ。
そこに書きつけられていたのは「君の容態について話しておくことがあるので後でここを訪ねる」という、ジェレミー・シャンクスからのメッセージだ。
ほどなくして、愛実の病室を訪れたのは、疲れ切った様子のジェレミー・シャンクスだ。
愛実がメモを掲げてみせると、彼は軽く頷いた。
「Do you have any physical abnormalities?(体に異常はないか)」
ジェレミー・シャンクスは病室の鍵を閉め、愛実の診察をしながら彼女に経緯を話す。
霞が関一帯へのEMP攻撃により、都内では打規模な停電や火災が起こり犠牲者も多数発生している。
それは日本にとどまらず、世界各地で起こっている。
停電により甲種一級構築士の肉体は全員死亡とみられている。
難を逃れたアガルタ機構の職員は、報告のうえ自宅待機の指示が出ている。
今回のテロの原因がアガルタ機構にあると判明した場合、プロジェクトは永久に凍結となるかもしれない。
ネットワークやインフラが破壊された今、構築士としての愛実ができることは何もない。
食べられるときに食べ、よく寝て休息しておくように。
愛実は惨事を耳に入れて胸が詰まりそうだ。
仮想世界、現実世界側双方のスタッフに大勢の犠牲者が出たなかで愛実が生還を遂げたのは奇跡というほかにないが、失われた人命に思いを馳せれば少しも喜べはしない。
「Is it true that all the Rank 1 constructors are dead?(甲種一級構築士が全員死亡というのは、確かですか)」
「Technically yes.(表向きには)」
彼は視線を伏せて、含んだ言い方をする。
「Technically?(表向き?)」
神坂 桔平の生体脳と疑似脳は生存しており、バイオクローンに乗り継いで負傷者の救助に加わっている。
それはブリジット・ドーソンからの情報だという。
肉体が殺害されたのは遺憾だが、生体脳と疑似脳が無事ならば最悪の状態は避けられている。
「It might be just a consolation. I haven't seen him directory.(気休めかもしれない。私は直接彼を見ていないから)」
「Thank you for teaching me. I'm already okay. Am I supposed to stay at home?(教えてくださりありがとうございます。私はもう大丈夫です。私は自宅待機ですか?)」
ジェレミー・シャンクスは首を振って咳払いをする。
「To get to the main topic. I'll be honest with you, I made you ingest a foreign substance.(それより本題に入る。実は、君に異物を飲ませた。その影響を見極めたい)」
「A foreign substance?(異物?)」
先程から喉がイガイガするのはそのせいだろうか、と愛実は身構える。
何か劇物のようなものを飲まされたのだろうか。
「Please don't take it the wrong way. I had no choice but to do that.(悪く思わないでくれ。そうするほかになかった)」
ジェレミー・シャンクスが愛実を追って搬送先までやってきたのは、彼女の容態を確認するためだ。
異物を飲ませたことによって愛実は蘇生したが、肝機能障害や有害事象、人格障害が出るかもしれないと彼女に伝える。
「If that saved my life, I can only express gratitude. By the way, what was the foreign substance?(それのおかげでこうして助かったのなら、感謝しかありません。ちなみに異物とはなんですか?)」
「Blood.(血液だ)」
「Do you mean blood transfusions?(……輸血したということですか?)」
彼はその疑問に答えるように無言でポケットの中から小指の先ほどのサンプルチューブを取り出し、愛実に見せた。
中に入っていたのは、何かの塗料としか思えないほど目も覚めるほどの黄金色をした雫だ。
「This is the blood.(これがその血だ)」
「It can't be the blood.(これが血のわけ……)」
愛実は到底信じられない。
何より、それは体液の色ではない。
人体のどこからも、この色の体液は出てこない。
「I thought so, too. Probably, it's the circulating fluid of a highly advanced bio-clone with self-repair capabilities.(同じように思っていた。堅いところでは、自己修復能力を持った高性能バイオクローンの代替血液だと)」
彼は愛実の理解を待ち、一呼吸置いて告げる。
「Until a simple analysis of this blood reveals that there is no genetic information at all.(この血液を簡易解析して、遺伝情報の一切が検出されないと判明するまでは、だ)」
バイオクローンならば、ベースとなる遺伝情報は必ず存在する。
愛実にも事の重大さがわかってきた。
「I'm sure this is true Ichor.(これは本物のイーコールだ)」
「Tell me who’s blood.(誰の血なんですか)」
その血の持ち主を、ジェレミー・シャンクスは八雲 遼生だと告げた。
ジェレミー・シャンクスの表情に、27管区でのエトワールのそれが重なって見える。
愛実が知る限り、彼は仮想世界では職務に忠実な構築士だった。
ドッキリを仕掛けたり、下らない冗談を言う人物ではない。
彼はふざけていない。
真面目にそれを、イーコールだと言っている。
そんなものを、人が飲んで問題ないのだろうか。愛実は一気に不安に突き落とされる。
「You and your sister were under his protection and surveillance. So, do you know who he is?(君たち姉妹は彼の保護と監視を受けていたらしいが、彼が何者か知っているか?)」
愛実はジェレミー・シャンクスの問いで思い出した。
そうだ、八雲の用意してくれた異界のマンションなら電力もネットワークもダウンしていない。
そこならどんな脅威も干渉してくることができない。
戻って情報を集めるべきだ。
こんな状況下でも何かできることがあるかもしれない。
「After his death, the organization is destroyed, and cities around the world are under attack by bio-clones. If there is any way to prevent this, I would like to gather any information. don't you know anything?
(彼の死を契機として機構は壊滅し、世界中の都市がバイオクローンによる攻撃を受けている。それを阻止する手段があるなら、何でも情報を集めたい。何も知らないか)」
ジェレミー・シャンクスは思い詰めたような表情をしている。
できることは何でもしたい、その彼の思いに愛実も答えたい。
愛実は起き上がり、ベッドから立ち上がろうとする。
「What up?(どこへ行く?)」
彼は愛実が立ち上がろうとしているのを見て、輸液を抜いてくれた。
「Where is here?(ここはどこですか?)」
「This is a medical facility in Funabashi City. It appears that they were brought here due to a power outage in the center of Tokyo.(船橋市の医療施設だ。都内中心部が停電中でこちらに搬送されたようだ)」
「I want to go to Funabashi Station.(船橋駅に行きたいんです)」
「There are restrictions and restrictions on going out throughout the Kanto region, so you should rest. What are you planning to do?(関東全域に外出制限と規制が出ているし、君は安静にしているべきだ。何をしに行くつもりだ)」
「To find answers to your questions.(あなたの質問の答えを探しに)」
「You know something. Let's send it to you.(何か知っているんだな。送っていこう)」
愛実はジェレミー・シャンクスとともに病院を抜け出した。
外出禁止令が出ているため、二人共徒歩だ。
総合病院は幸いにも船橋駅の近くにあった。
院内着では目立つので、ジェレミー・シャンクスのコートを羽織っている。
二人は船橋駅の階段裏の倉庫にたどり着く。
「Is there something here? It's just a warehouse.(ここに何かあるのか? ただの物置だ)」
「It looks like that to you.(そう見えますよね)」
愛実は扉に指を押し付けて、ポータルを開くための暗証番号を唱えた。
すると倉庫の扉の表面に光のゲートが現れ、その奥に空間が見えた。
ジェレミー・シャンクスは驚いて目をこすっている。
「Surprised. This must be platform 9 and 3/4.(驚いた。ここが9と3/4番ホームかな)」
【おかえりなさい。居住者一名認証しました。進入を許可します】
ポータルの入口に青白い文字が現れる。
愛実はジェレミー・シャンクスを振り返りながらポータルに呼びかける。
「私のゲストも共に認証してください。お願いです、緊急なんです」
【管理者に問い合わせています】
その管理者とやらが八雲でなければいい、と愛実は願う。
もし八雲だった場合は、永遠に認証は通らない。
【管理者の承認により認証しました。ジェレミー・シャンクス、ゲストとして一時滞在を許可します】
「Thanks.(どうも)」
「You can enter. let's go.(入れます。行きましょう)」
愛実はジェレミー・シャンクスを伴い、異界のマンションの5番ポータルへと帰還した。