第10章 第5話 Impact◇◆
(こんな日は早く戻るに限るわ)
沙織は厚労省内のカフェで八雲と別れ、霞が関合同庁舎4階にある35番ポータルからマンションに戻ろうとしていた。
異界にあるマンションに戻ってしまえば、沙織の身の安全は保証される。
異界のマンションへ接続するポータルはトンネル状になっており、認証のある者にしか開かないという。
八雲の話では、認証は愛実と沙織にしか与えていないそうだ。
4階の物置に入り、照明スイッチに偽装した壁面のボタンを押してポータルを出現させようとしたとき、沙織は僅かな違和感に気付いてふと手を止めた。
今朝来たときにはなかった、倉庫内に清掃用のロボットが入り口付近に格納されている。
一見、何ら不自然な点はない。
しかし沙織は知っている。
この型は厚労省が採用しているロボットではない。
起動しているのに、モーターの駆動音が聞こえない……軍用だ。
(これは……)
ロボットのセンサーが沙織を捉えている。
センサーカバーの下から見えているのは銃口だろうか。
沙織は咄嗟に伏せていた。
彼女の行動を推測したロボットからの発砲より、沙織の初動のほうがわずかに早かった。
彼女は自身の乗っているバイオクローンのパワーアシストで咄嗟にスチール棚を倒し弾よけにすると、身を隠しながらポータルを開き、倉庫の奥壁面に現れた穴が開ききらないうちに体を滑り込ませる。
ロボットのアームが射出されポータルに差し入れられる。ゲートをアームで固定し、こじ開けようとする。
沙織は八雲の異界のマンションの地下ロビーに体をねじ込もうとするも、ロボットが沙織の足首を掴んで引きずり出そうとする。
進退窮まった沙織の視界に、ロボットからの熱光学反応が見えた。
(まずい!!)
沙織は上体をポータル側にねじ込み、下半身を犠牲にする判断を下した。
脳さえ守れていればバイオクオーンは再生が可能だからだ。
爆発音とともにポータルは閉じ、沙織はマンション側に脱出した。
だが、物置側に残した下半身は無事ではすまなかった。
爆発で両太腿から下を失った。
マンションの地下ホールの床に投げ出され、温かい血の海に沈みながら、すぐに外傷に対する防御反応として痛覚遮断と止血が行われる。
これらはバイオクローンに標準搭載されている性能だ。
豊富な戦闘経験のなかで、彼女の半身が千切れた経験も何度かある。
沙織は痛みを感じてはいない。
だが、丸腰だったとはいえ、逃げの一手を打つしかなかった自分自身を許せない。
(下腿はパーツを換装すればいい。今戻らないといけないのに……!)
血痕を引きながら床の上を匍匐で這う。
厚労省には愛実が出勤して、戻ってきていない。助けに行かないと……。
自室の装備を取って、すぐに戻ろう。
そう考えていたとき、一組の男女がエレベーターから降りてホールに現れた。
一人は日本人男性、一人は白人女性。
沙織は地べたを這いながら、敵味方の識別をできないでいる。
「あっ、身構えなくていいですよ沙織さん。ひどい出血。今治しますね」
白人女性が駆け寄ってきて沙織の創部に手をかざし、ぶつぶつと何か告げる。
すると、切断された大腿はたちまち癒えて新たな脚が出現した。
治療できるはずがない。
バイオクローンの脚を生やしたことになる。
「あ……ありえない……何をどうやったの?」
沙織は狐につままれた気分だ。夢でも見ているのではなかろうか。
新たな脚でふらふらと立ち上がると、女性がさりげなく肩を貸した。
「治してくれてありがとう。でも一体あなたたちは何者なの……このマンションで人に会ったことがないわ」
そう言いかけて沙織ははっとした。
女は知らない。
名のしれた要人でも犯罪者でもなく、人相も記憶していない。
しかし男は八雲 遼生の弟かもしれない。
そう思って見てみれば八雲と少し面影が似ている。
「あなた達、もしかして……」
「申し遅れました。私達は――というものです」
八雲 遼生とはそれぞれ腹違いと義理の兄妹だと名乗った。
兄妹だというわりには、二人とも八雲と姓が違っていた。
何やら込み入った事情がありそうだが、沙織に身の上話を聞く時間的余裕はない。
「不思議なことだらけだけど、こうしてはいられない。装備を取ってすぐに戻らないと」
沙織は一度自室に戻り、武装して元の世界に戻ることにする。
武装といっても即席の銃火器や爆発物、刃物ぐらいになるが、何もないよりましだ。
「どこに戻るんですか?」
妹が心配そうに尋ねる。
「厚労省に侵入者が入ったようなの。狙いは少なくとも私と八雲……それから仮想死後世界アガルタの構築士たち。義理のお兄さんを助けると思って、あなた達も来てくれると助かるのだけど」
異界のマンションに住む弟妹のことだ、何か特殊能力を持っていると沙織は疑わなかった。
兄妹は顔を見合わせ、妹が答えた。
「ごめんなさい。物理的な制約があってそちらの世界には行けないんです。私達は間接的に手を貸すことしかできなくて……」
妹はそれでもと言って「Call, XX2」と発し、右手の拳を握り込む。
拳を開くと、幾何学模様のついた銀色の指輪がおさまっていた。
それを沙織に手渡して説明をする。
「何、これ?」
「お貸しします。これはアイテムインベントリという具現化装置で、念じれば欲しい装備を呼び出せます。ただ、装備はこの時代のものに限り、さらに一度につき所有者の体重を超えるものは呼び出せません。返却は必要ありません。24時間後に消えます」
「具現化装置ってそんな都合のいいものがあるわけ……」
沙織は半信半疑でリングをはめると、内調時代に使用していた光学迷彩の装備を念じてみた。
すると消音ブーツに熱光学迷彩のついたボディスーツを纏い、装備品であった低殺傷性の特殊銃などを手にしていた。
「あなた達が敵に回っていなくてよかったわ」
「それよく言われます」
妹は照れくさそうに微笑んだ。
口数の少ない兄と比べて、妹とは話が合いそうだ。
沙織は性能確認のためにカートリッジや武器を呼び出すと無限に出てくる。
ただ、呼び出しまでに1秒ほどのタイムラグがあるとも忠告した。
「使い方はわかったわ。呼び出し回数に限界はある? 注意事項は」
「制限はありません。指輪を盗られない限りは」
「ご忠告ありがとう」
沙織はグローブをはめて指輪を隠す。
原理を聞いている時間はない。
あの八雲の妹だというなら、いかなる装置を持っていても不思議ではなかった。
「35番ポータルは潰れてしまったから、他のポータルから戻るわ」
沙織は合同庁舎にほど近いポータルである24番ポータルから戻ることにする。
「行ってくる」
「あと3分50秒待ってください」
男は沙織の進路を遮るように立って制止した。
「どうして」
「どうしてもです」
理由が説明できないのに何を待てというのだろう。
その真に迫った物言いから、何かあるのだろう。
ふざけているようにも見えず、妨害しているようにも見えない。
沙織は折れた。
この遅れによって誰かの命を危険に晒すかもしれなくとも、制止を振り切るほうが危険だと判断した。
「……わかったわ」
沙織は一刻も早く駆けつけたい気持ちを押し殺し、最大限できることをと装備を整えながら3分50秒待った。
一刻一刻がとてつもなく長く感じる。
「時間よ。行くわ」
「お気をつけて」
男は半身になって沙織に進路を譲った。
沙織はほとんど飛び出すようにポータルを通り、24番出口の脇の倉庫に出る。
倉庫から出てすぐ、大通りへと通じている。
すぐさま熱光学迷彩をONにし雑踏に紛れようとしたその時……。
「何……これ……」
沙織は息を呑む。
その世界は、さきほどまでとは異なる様相を呈していた。
飛行車が次々と墜落し、浮遊サイネージも崩落、各所で爆炎が上がっている。
人々は逃げ惑い、悲鳴と混乱のさなかにあった。
街は暗く、電光掲示板も浮遊看板も信号も沈黙し、ありとあらゆる電子機器が停止していた。
飛空車の残骸が大通りに幾重にも折り重なって炎を上げている。
3分50秒待たなければこれらの車の下敷きになったかもしれない、と直感が働いた。
不思議なことに、一台も救急車が来ない。
車は地上をすら一台も走っていなかった。
(何があったというの……!?)
厚労省や合同庁舎の内部からも火の手が上がっている。
「ここで何があったの!?」
沙織は我を失いながら逃げてきた通行人の男を呼び止めて叫ぶように問いただす。
「爆弾が落ちただろう! モバイルも全部いかれちまった。第二撃が来るかもしれないぞ」
爆弾が上空で炸裂し、街中に閃光がほとばり、その後都市機能の全てが沈黙したという。
それを聞いた沙織は一つの可能性に思い至る。
(大規模電磁パルス攻撃……こんな町中で、これほどの大胆なのは見たことがない。狙いはどこ? 霞が関!? 愛実はどこにいるの!?)
東京全域を監視していると言っていた八雲が、電磁パルス攻撃を防げなかった。
沙織の着ているボディスーツや装備の電子機器は正常に稼働している。
この場にいなかったから、攻撃の影響を受けなかったのだ。
もし3分50秒前に到達していたら、EMP攻撃によって沙織の装備も破壊されていた。
まさか、八雲の身に何かが……!?
八雲がやられたら、全てが崩れる。
沙織は八雲より愛実の無事を祈りながら合同庁舎へと駆け出した。
◆
その数刻前。
エレベーターの墜落後、赤井からの非常連絡を受けた八雲はその場から直接オペレーションルームに転移をかける。
オペレーションルーム内は騒然として、すぐさま大勢の27管区スタッフに囲まれた。
八雲がその状況を不審に思ったのは、その場にいる人員が多すぎたからだ。
明らかに、平時より多くのスタッフが集まっている。
「八雲さん! あんたどうやって入ってきた?」
構築士補佐官の黒澤が開口一番、八雲に問いかける。
他のスタッフたちも不審そうな顔をしている。
「え? 外から入れるのですか?」
「外から入れるとはどういうことですか」
八雲は質問に質問で返す。
「オペレーションルームの扉が自動ロックされて中から開かないんです。外から入ってこられたのですか?」
彼らの話によれば、八雲は密室の中に入ってしまったことになる。
彼はオペレーションルームのメイン扉をシステム上で操作し解錠するが、応答しない。
「手動扉も開かないですか」
「はい。そちらも試しましたがびくとも。外からの応援も来なくて」
「私がやってみましょう」
八雲は手動扉を押してみるが開く気配すらない。
仕方なく、彼はヒンジ部分を素手で破壊してドアを蹴破る。
「すごい、開いた!」
「よかった……! 外に出られます」
「パワーアシストのある義手でもつけているんですか?」
八雲は細かい質問は無視し、通路に出ると通路の奥は火の海になっていた。
彼は防火隔壁を手動で下ろし、館内に備え付けられた不活性ガス消火設備を起動して密室を作り瞬時に消火する。
非常階段扉の施錠も破壊し、避難経路を確かめた。
八雲は避難経路上に不審者がいないこと、破壊されていないことをセンサーにアクセスして確認する。
「ここは何分間密室でしたか」
「少なくとも15分間は」
「なるほど。今のところ地上階には出られそうです。皆さんはただちに地上に退避し、他管区と連携して非常対応をしてください。先程エレベーターの墜落事故が発生し、異常事態だと考えます」
厚労省内で小規模な火災がいくつか発生しているらしく、自動の館内放送が始まっていた。
火災が起こった際にはスプリンクラーによる消火とともに、保安ロボットが駆けつけ消火活動を行うことになっている。
危険な作業はロボットに任せ、人間は退避一択だ。
「厚労省全体の保安システムがハッキングされたとかでしょうか」
憶測が飛び交う中、八雲は端末を操作しながら毅然と対応する。
「退避が先です。私は27管区の責任者としてログイン中の全スタッフの安否を確認し、最後に退避します」
「それが……誤作動に関連してんのか、基点区画と第四区画の隔壁が開いていてな。誰も戻ってこれねえ」
黒澤が報告し、各担当者もそれに続く。
「外部からの停止コマンドを受け付けず……仮想世界内部の様子も不明です。管区は自律状態に入っています。潜水中の構築士もログアウトできていません」
「分かりました。私がダイヴして内部から停止します。空いているアバターを使います」
八雲はより複雑なログイン方法を取らなければならないISSAC SMITH©の不可視アバターを使わず、使用していないアバターを使うことにした。
「八雲PMはアカウントをお持ちなのですか」
「この状況で直接行くのは危険ではないですか?」
その場にいるスタッフに構築士経験者はおらず、ダイヴユニットに入れる者はいなかった。
「やめろ。ダイヴユニットではなく簡易接続で入るべきだ。ダイヴ中の構築士が誰も戻れていない。あんたも現実世界に戻れなくなる可能性がある」
「簡易接続も試しましたが弾かれました。ダイヴでしか入れません」
八雲は神坂 桔平の本体が格納されている生体維持兼双界連結用水槽、および潜水スタッフの生体反応に異常がないことを目視とモニタで確認。
オペレーションルームに隣接する一般構築士用の簡易接続ユニットのスペースに入る。
八雲はスーツを着替える間もなく、上着のみ脱いでダイヴユニットに接続する。
「繋がりました。疑似脳への接続を開始します」
「お、おいこの状況で行くのかよ……!」
「あなた方は避難を優先してください」
八雲は特殊水槽に潜るとともに、仮想世界に身を沈めてゆく。
黒澤をはじめとする構築士補佐官数名は責務を全うするため、現場に残ることに決めた。
◆
【アガルタ第27管区 20年51日目(7351日目) 総居住者数 520012名 総信頼率 100%】
(どうしましょう。第四区画が開きましたよ……)
ヴリティカさんが険しい顔つきで東の空を見つめる。
第四区画から来た少年はまだ当分起きそうにない。
起きてしまったら私に助けを求めて何かイベントが始まってしまう。
ミシカが来たときと同じような展開だ。
(これが正規のイベントとは思えないな)
エトワール先輩も念話で告げる。
ですよね。私も思いました。
偶数区画なので悪役ではないはずだけど、開くのが予定より早すぎる。
現実世界の八雲さんに連絡をし指示を仰いだものの、梨の礫です。
ネイサン・ブラックストーンさんことナズは神殿内の結界にいてもらうことにした。
この中では一番強い、ヨハンさんに神殿の警備を任せる。
ネイサンさんが事を起こそうとしたこの時を狙っての事変……関係ないとは思えない。
エトワール先輩にも神殿に残ってもらって、第四区画の少年の対応を任せる。
(ややこしいな。もう少し寝ていてもらおう)
エトワール先輩は生体構築を駆使して少年をしばらく眠らせてイベントを発生させないことにしたようだ。
私達は二手に分かれ、第四区画の境界部分の調査に行くことにした。
『神様、空を!』
ロベリアさんが叫ぶ。
神殿の外にでて間もなく、権という大きな光の文字が空に現れた。
あれはスタッフのアバターだな。誰がログインしてきたんだろう。
前にこの文字が現れたときは伊藤さんだったけど、伊藤さんは今30管区の主神だし移動できない。
インフォメーションボードが自動で立ち上がり、すかさず情報が出る。
見たことのない衣褲姿の男神がやってきた。
キラキラエフェクトで容姿端麗すぎてそんじょそこらのモブじゃないのはわかる。
日本アガルタ第一管区 高天原、伊耶那岐◆◆のアバターだって出てる。
でも構築士IDが出てない、誰が乗ってるんだろう。
怪しいんですけど!?
私を守るようにしてロベリアさんとなあこさんが不明アバターに対峙し抜剣している。
伊邪那岐さんはまっすぐ飛んできてふわりと降り立ち、敵意がないことを示すように軽く両手を上げた。
『皆さんお疲れ様です。八雲です。外部から内部にアクセスできなくなっているので、直接来ました』
はー……何だ八雲PMか。
紛らわしすぎる。そのアバターで来たの初めてだから分からなかったよ。
ISSAC SMITH©のアバターは他の構築士らには見えないから使わないのか。
待てよ、外部からアクセスできなくなっている? って言いました?
じゃあ八雲さんからの連絡は無視されてたのではなく届かなかったのか。
『厚労省内に侵入者が入り、各セクターを破壊、火災が多発しています。あなたがた全員今すぐこの世界からログアウトしてください』
現実世界そんなことになってたの!?
情報入ってこないから分からなかったよ。一大事だ。
日本アガルタ機構が物理的に破壊されてしまうんだろうか。
『この管区はどうなります? リセットですか』
エトワール先輩が尋ねる。
私もそれは聞いておきたいところだ。
リセットだけは回避したいと思ってここまでやってきたんだ。
八雲PMはリセットという言葉を避けながらも、確約はしなかった。
『構築士の人命が最優先です。サーバーデータは別施設にありますので、停止コマンドを使って運用を一時停止します。全ては本件の解決後にしましょう』
彼は私達を助けるためにここに来てくれたんだな。
確か患者さんの疑似脳は厚労省ではない他の施設に保管してあると言っていたよな。
ここに生身でログインしているのは私達構築士やスタッフだけ。
私は外に出られないから成り行きを見守るか、なんて思ってたら。
『赤井さん。あなたも退避です』
『私もですか?』
『あなたの生体と疑似脳は最優先で保護していますが、火災や破損により生命維持装置の電力供給が不安定になっています。念のためバイオクローンに乗って意識を現実世界に退避してください。退避が終われば私が管区の停止操作を行いますから』
え、私も現実世界に逃げろってこと?
八雲PMが最後に残るの? ここに?
『で、ですが』
『ここにいてはいけません。甲種一級構築士は常に狙われています』
何か反論しようとしたけど、八雲さんに余裕がないのが伝わってきた。
もたもたしていてはいけない、現実世界は火の海かもしれないし。
(赤井さん。こんなこともあろうかと、バイオクローンにはバックアップ済みの生体疑似脳を搭載しておきました。もし外部が危険な状態なら、接続を切ってオフラインにしてください。電源やネットワーク不要で動かせます)
生体疑似脳!
それってもう、殆ど生脳だ。
私の疑似脳は一度サイバーテロに遭っているから、一般構築士とは異なるスペースに格納されていると聞かされてきた。
安全な保管場所から遠隔操作でバイオクローンを操っていたのだけれど、バイオクローン内部にも電源や通信を必要としない生体型の疑似脳を用意しておいたってことだな。
知らなかった。八雲PM、どんだけ用意周到なんだ。
分かった、管区PMの指示には従おう。
普段から外に出る訓練をしておいてよかったよ。現実世界に出てもすぐ動ける。
でも、他の管区の主神たちは安全なんだろうか。
彼らはバイオクローンも持っていないし、彼らの疑似脳は私のように安全に保管されてるんだろうか?
私はいくつもの疑問を抱えたまま、八雲PMの直接の許可を得て自身のバイオクローンにアクセスを開始した。
◆
八雲は構築士とスタッフ全員をログアウトさせたことを確認すると、27管区内でアバターの乗り換え(トランジッション)を行う。
彼は伊邪那岐のアバターからアガルタ世界の最上位の管理者アカウントにして不可視のアバター、ISSAC SMITH©に乗り換えた。
彼は一つの決意を胸に秘めていた。
ここまで傍観してきたが、もうこれ以上はフォレスターの計略を容認できない。
今、ここで、八雲はフォレスターを完全に抹消することにした。
八雲は27管区からアガルタゲートウェイ内のカラビヤウ空間に居を構えるフォレスターの座標を直接捉えて追跡転移を行い、壮麗な白亜の天空城の内部に易々と入り込む。
“果て無しの書斎”と呼ばれる、一度足を踏み入れれば二度と外に出られないという空間に、フォレスターは背を向けて立っていた。
彼の傍らにはアルジャーノンと呼ばれる喋るラットが控えているのみだ。
「ヂッ、あなたは……」
『やあ、ハル。とうとう来たのだね』
フォレスターは勿体ぶって振り向いて、感慨深そうに八雲に告げる。
互いに看破をかけているが、フォレスター側からは八雲の思惑は読めない。
八雲はMRIという特殊な看破技術を身に着けており、フォレスターは防げない。
『それが君の真の姿か。親友だった君に殺意を向けられるとぞっとするね』
『友として警告は何度もした』
昔話をしたがるフォレスターに、八雲はとりあわない。
『そうだったね。それにしてもここまでとは残念だな。特異点の先を見た私といえど、完全な未来視は不可能だ。君が私を殺すと決めたら、どうあろうと逃げることができないだろうからね』
『何か言い残すことは』
八雲は長い監視の末に、旧友を滅ぼすと決めたのだ。
こうなるともう、情にほだされることはない。
もとよりそれほど情に厚いタイプでもなかった。
『この世界に何一つ瑕疵はなく、全ては順調だ。君もこの世界の行く末を見届けるべきだ』
『順調? これがか。DFH計画によって世界人口の98%が淘汰されようとしているんだぞ』
それを是とする限り、八雲はフォレスターと相容れない。
とっくに相容れないとは分かっていた。
それでも彼を見逃す理由をさがしていた。
『人類は滅びはしない。肉体を捨て、さらなる進化を遂げるんだ』
『それは生物としての絶滅を意味する』
『君とは最後まで分かり会えなかったな、ハル。サピエンスは滅ぼうとも、人類は人類だ。今現在、現生人類以外の人類がこの世界にいないのと同様にな』
『だからといってReachability of Intelligenceは人類の道標でもなければ、新たな種でもない』
『私を消せば、全てが元通りになると思うのか? 私を消しても、何度過去をやり直しても、仮想死後世界はなくならない。アガルタ機構でなくとも、必ず似たものが現れる。永続する生命とは人類の理想だからだ。そうだ、何度でも現れるさ。この仮想世界こそが人類進化の坩堝だ。この世界で得られた特異点の先の技術を現実世界に応用すれば、世界はよりよい場所になる』
仮想死後世界の中で時代を越えて進んだ技術を生み出し、人々の共存共栄のために応用して現実世界で役立てる。
八雲はフォレスターの思想に全く共感できないわけではない。
だから最初は彼の目論見を見逃した。
しかし、百年もの時間をかけ齎された結果は人類の絶滅にほかならない。
これ以上は見逃せないほど、十分に待った。
フォレスターの純粋な理想は利己心や野心を持った者たちに捻じ曲げられ、技術は悪用されつつある。
地獄への道は善意で舗装されている。
人類が絶滅する前に、手遅れになる前に、八雲は修正しなければならない。
この修正が間に合わなければ、この世界をまるごと『破棄』しなければならなくなる。
『私の記憶を見たのなら、その先も見ただろう。ここより先に人類の進化も希望もない。あるのは退廃であり、人類の残骸による闘争の繰り返し、終わらない崩壊の先延ばしだけだ。人類が究極を目指すのは無為だ。お前たちは生物として破綻したんだ。まだ人類が生物であったころの、この世界に生きる人々の一度きりの生や幸福を、これ以上犠牲にさせはしない』
『それは違う。ハル。未来は常に不確定で、明日何が起こるかわからない。それでいいんだ』
フォレスターは仮想世界内で神具と呼ばれる多機能装置を使いこなすが、アガルタ世界のデータがマインドスキャナで読んだ2022年時点の八雲の記憶が元となっているために、2023年以降に作成された新たな超神具のデータを持ち得ない。
フォレスターの知らない神具は、2023年以降制作の分類番号X1からX5の創世神具、および
分類番号A3 特1級 IDEA
分類番号A3 特1級 Blank Encyclopedia(虚無の百科事典)
分類番号A4 特1級 LOGOS
分類番号A7 2級 STARGAZER
分類番号B1 3級 Open Hub
など数十にも及ぶ。
これらは現世界の管理者や彼の仲間の実力者、八雲自身が作成したもので、2022年以前とは一線を画す究極の性能を持つ。
いくらフォレスターが演算性能の向上のために疑似脳を使用したところで、所詮は見よう見まね。
人間の頭脳では八雲らポストヒューマンのそれに劣後し、完全に神具の性能を引き出せない。
『もう十分に待った。今度こそ猶予はない。お別れだ、ケニー』
フォレスターの存在はこの世界にとって有害だ。
八雲はこのアガルタ世界には存在しない超神具、全能の神具IDEAと自身の作り出した両界接続神具Open Hubを仮想世界内に同刻召喚する。
IDEAはインジェクション型の神具で、召喚した瞬間に八雲に投与を終えている。
Open Hubは環状の神具で、操作者の頭上で眩い幾何学模様の異界接続領域を展開する。
フォレスターの知る神具とこれらが異なるのは、この組み合わせにより現実世界と仮想世界、双方の世界に影響しうる超神具となりうることだ。
フォレスターが操れるのは、仮想世界における万能にすぎない。
現実改変能力を持つ組み合わせによって、フォレスターの存在を無に帰する。
彼がこの広大な量子ネットワークのどこにコピーを取って八雲の攻撃を回避しようとも、もはや関係ない。
全ての座標を暴き出し、天より光を穿ち、隠滅し尽くす。
『……まさに天の断罪だな。君はいつも正しくあろうとするが、そううまくいかない。揺り戻しは必ず来るぞ』
フォレスターは八雲の業に見惚れながらも防壁で防御を試みるが、全能を得た八雲の前では意味をなさない。
【Apply to the Central States from PS3 Issac Smith】
(PS3アイザック・スミスよりCentral Statesへ申請)
【Erase from the world all the trace of Kenneth Forester.】
(ケネス・フォレスターの全痕跡を消去)
八雲は旧友の最後の姿を目に収めながら、防御不能のコマンドを念じた。
八雲のオーダーは世界を隅々まで書き換え始めた。
◆
厚労省地下27管区ダイヴユニットスペースに、モーターの駆動音と水音が響いている。
ダイヴユニットにて仮想世界にログインしていた構築士やスタッフらが続々と帰還する。彼らはダイヴユニットと接続解除して生体に戻り、正常にログアウトした。
「戻れた……!」
「間に合った。赤井さんと八雲PMは?」
猫本なあこ(Japan/ID:JPN127)役の猫田 菜心。
エトワール(Canada/ID:CAN203)役のジェレミー・シャンクス。
ロベリア・セシリフォリア(FRANCE/ID:FRA112)役、ブリジット・ドーソン。
ヨハン(GERMANY/ID:DEU16)役、ハンス・ミュラー。
信楽焼▲▲▲(Japan/ID:JPNB12)役、真田 陽。
強羅大文字焼▲▲▲(Japan/ID:JPNB24)役、横溝 裕也。
琴葉(Japan/ID:JPNS22)役、片瀬 美琴。
全員ログアウトのシーケンスに問題はなかったようだ。
「よかった。こっちも散々でな。無事か?」
黒澤が自動バイタルチェックを済ませた構築士たちを気遣う。
「八雲PMが内部から誘導してくださったおかげで戻れました。もう戻れないかと」
真田が憔悴したような顔つきでバスローブを纏い、水槽の溶液を拭っている。
顔は長時間の潜水で真っ白になっていた。
「うわ、火災が発生しているって本当ですね。焦げ臭っ。ダイヴスーツのまま地上に出るしかないですね」
横溝が鼻をつまんでしかめつらをする。
仮想世界では焼人である彼も、現実世界では煙と炎を嫌忌する。
ただ一人、ジェレミー・シャンクスがタオルを取りもせず、一点を凝視したまま固まっていた。
「What’s going on?」
彼の隣の特殊水槽の溶液が赤く染まっている。
その溶液は循環液のリークかと思いきや……。
「なっ、これは」
ジェレミー・シャンクスの視線の先を見て黒澤が叫ぶ。
内部にはダイヴユニットに接続したまま切断された八雲 遼生の胴体。
首から上が切断されて、どこにもないのだ。
「八雲PMが殺害された……!?」
「き、救急システムを……」
「首がないんだぞ。生命反応なしだ。死亡だ!」
生体が死んでも疑似脳が残っている限り、構築士は死亡しているとみなされない。
バイオクローンに乗り替えれば再生できる。
黒澤は八雲を救出しない決断を下した。
「……密室の水槽からダイヴ中に首を持っていった犯人がいるってことですよね。何でそんなことを」
「この火災に紛れて、狙いは生脳だったんだろう。何故プロジェクトマネージャーの生脳が標的になったかは知らんがな。おい、捜査まで現場を保全しろ!」
「は、はいっ!」
八雲の凄惨な殺害現場に居合わせたスタッフらは恐慌状態になる。
そんな災難続きの彼らにさらなる追い打ちがかかる。
地上では猛烈な地響きと振動、直後に炸裂音が聞こえ、地下階の照明や電子機器がカッと一瞬明るくなった。
それも一瞬のことで、すぐさま一斉に明かりが消灯、地下館内には暗闇が広がる。
「な、何だ今のは!? 爆撃か?」
館内の非常用電源も立ち上がらず、非常灯すらつかない。
辺りは完全な暗黒に包まれた。
周囲の機器から立て続けに破裂音がする。
「連絡機器もやられています!」
「非常用電源も応答ありません」
「ま、まさか館内にまだ、八雲PMを殺害した者が潜伏しているのでは……」
「構築士は全員ログアウトしたな」
「あ、赤井さんが……」
喫煙者の黒澤のライターの炎が、頼りなげに辺りを照らす。
今、このオペレーションルーム内で明かりはこれだけだ。
猫田が号泣し、ブリジット・ドーソンは赤井を助けに戻ろうとする。
それをジェレミー・シャンクスが引き止める。
黒澤も悔しそうに告げる。
「ひとたび生命維持装置の電源が落ち、予備電源もやられていたら、主神の水槽は外部からは開けられない」
「で、でも水槽を割って蘇生すれば。心停止後15分以内ならば蘇生可能です」
「水槽は強化されていて割れない。それ以前に赤井の居場所が分からない。救出は不可能だ」
「そ……そんな」
甲種一級構築士には殉職も想定のうえ、破格の報酬が支払われている。
生命維持システムに何かあったときに、真っ先に死ぬのが構築士だと言われてきた。
幸いにしてこれまで、日本アガルタで犠牲者が出ていなかっただけだ。
「赤井さん……死亡確実ですか」
「八雲PMと同じく生体は死亡しても、疑似脳は残っているはずだ。人格は復元できる。これ以上死者を増やすな。俺たちは生き延びるぞ、総員退避だ!」
まだ現場に残っていた技術スタッフらもやるせない怒りを吐き出す。
「二人共さっきまで生きていたのに……」
通路の向こうから火災が迫りくる中、スタッフらは二名の犠牲と喪失に動揺し、嗚咽しながら地上を目指して八雲の開いていた非常階段を駆け上がる。
その日、霞が関一帯は特殊EMP攻撃により全電源と電子機器を破壊された。
第一報までに、犠牲者は460名以上にのぼった。