第9章 第10話 Inverse Tokyo◇◆
東 愛実が仮想死後世界アガルタから現実世界へと帰還して一週間後。
彼女は厚労省内病院の特別個室にいた。
彼女は数年単位で長期臥床をしていたものの、先進医療に基づく栄養学的管理やリハビリテーションを実施していたおかげで、廃用症候群までには至っていない。
それでも筋肉の萎縮はある程度起こっており、理学療法士と関節可動域訓練を行っていた。
今日もリハビリや検査の予定が目白押しだ。
廃用症候群を防ぐ技術は仮想死後世界アガルタの構築士の現実世界での生身の肉体を維持する目的で、特に発展を遂げていた。
「それにしても……支払いってどうなるんだろう」
病院食とは思えないほど豪華でおしゃれな朝食をほおばりながら、料理にサービス、部屋の設備など、あまりにもVIP待遇が続くので愛実は不安になってきた。
「そろそろ請求書を確認しておいたほうがいいのかな。落ち着かない、退院はいつになるのかな」
愛実が今後の見通しのできなさに眉間にしわをよせていたところ、アガルタ世界27管区内ではロベリアとして勤務している、ブリジット・ドーソンがひょっこりと顔を出す。
彼女はこれからダイヴするからかノーメイクでワンピースとサングラスの、シンプルかつ丁寧な格好をしている。
「愛実さん。調子はどうです?」
「おはようございますブリジットさん。すみません、朝食の時間で」
愛実はバターつきのロールパンを皿に戻しながら姿勢を正す。
「こちらこそお食事中にすみません。あら、ホテルライクの豪華なお食事ですね。今日は私なんてスムージーだけです」
「すみません、美味しいものをいただいていて」
「ダイヴ前はあまり食べ過ぎない方がいいのです、トイレに行きたくなっちゃうでしょ。お腹が緩い日は結構大変なんですよ」
ブリジットはユーモアを交えておなかをさするしぐさをする。
「ああ! そうなんですね! トイレとかどうするんですか?」
「あまりきれいな話ではないので、お食事中にはあまり聞かない方がいいですね」
「えっ、はい」
仮想世界のロベリアとは少し違う雰囲気で、愛実は彼女が役を演じていたのだと思い知らされる。
愛実は「では自分の人格は変わっていないのだろうか」とひるがえって考える。
自分は本当に沙織が知る愛実なのだろうか。
自分は愛実だと思っているだけの、何か違う人格なのではないか。
アイデンティティの根幹にかかわる疑問もわきだしてくる。
「さて、そろそろ出勤します」
当然のことなのだが、愛実はもう締め出されてしまった27管区へ、ブリジットは勤務のために毎日出入りできる。
それは愛実にとって疎外感を感じさせ、非現実的な感じがする。
愛実が直接アクセスできるアガルタ世界は、伊藤の管理する30管区だけだ。
動画で27管区とやりとりをすることはできるが、当面生活が落ち着くまで、何を話してよいかわからない。
「27管区へ何か伝言がありますか?」
ブリジットは気をきかせて尋ねる。
「元気にしていますと、安心してくださいと伝えてください」
「では、そのように27管区に言づけておきますね。皆さん、あなたのことを心配していましたから」
そうなのだろうな、と愛実はしんみりする。
「ですよね……私が出てすぐに会いたいなんて思っちゃうと、寂しい思いをさせてしまいますよね」
「それは心配無用です。あなたの一日は、27管区世界の一日とは限りませんから」
「あ、そうか……もう何年も経っているかもしれないんですよね」
愛実ははっとした。
27管区の人々の時間の流れは変則的だ。
次に会おうと思ったときには、誰かの寿命が尽きていなくなっているかもしれない。
27管区に最後までいるのが確定しているのは赤井とロイだけだが、本当に最後まで残るのはロイだ。
ナズも現実世界に出てしまっているかもしれない。
ひとたび現実世界に出てしまうと、個人情報を得ることは難しく、連絡をとることすら困難だ。
思っているより早く、彼らは自分を忘れるかもしれない。
愛実はそう思うと、できるだけ近いうちに会いたいと思う。
(日常に復帰しないと。体の機能が回復しないうちは、面会どころかリハビリが優先されてしまう。その後は獣医として就活をしなきゃ。人生、やることが多すぎる)
のんびりとしている場合ではない。
愛実の表情が曇ってきたのを見たブリジットは、心配そうに首をかしげる。
「愛実さん?」
「あっ、はい!」
「何か不安なことがあったら明日また教えてください」
「何もないです。お仕事頑張ってください!」
愛実はブリジットを病室から見送る。
「よし、がんばる」
以前にもまして時間の流れを意識してリハビリに励み、今日は歩行器を使って歩行訓練を行う。
脚の筋肉は頼りなく、自重を支えることができなくてふらふらとしてしまう。
自分の身体が自分のものではないような気がする。
27管区で飛んだり跳ねたりした仮想の体はもう戻ってこないのだろうかと思うとくじけそうになる。
現実世界に戻って愛実が実感したのは、この肉体がいかに痛みや不便に満ちているかということだ。仮想の身体では得られなかった鋭敏な感覚に包まれている。
包まれていた袋を破って飛び出したように世界の解像度は上がったが、生きているだけでごくごく小さな不快感が蓄積してくる。
例えば血流の音、体温、湿度、胃腸の活動する音、指のささくれが繊維に引っかかる感覚、小さな捻挫をしたときの痛み、汗が表皮を伝う感覚。
現実世界には不要な情報が多すぎる、と愛実は思った。
こんなにたくさん知らなくてもいい。
でも、この情報量の多さがわずかな違和感となり、個体の命を救うこともある。
朝起きたら肉体疲労がリセットされないこの世界は心も体も疲れる、と愛実は思った。
寝て起きてもまだ眠いだなんて、考えたこともなかった。
(お姉ちゃんに会えるのはいつなんだろう? 八雲さんという方がきてスケジュールを教えてくれると、伊藤さんは言っていたけど……)
愛実が疲れ果ててベッドに仰向けになっていると、
「東さん。厚生労働省の死後福祉局の冴島さんと八雲さんが面会にみえていますが、どうなさいますか?」
と、看護師が確認に訪れた。
愛実が現実世界に出て以降、面会を試みる人物はセキュリティの問題から、毎回の身元や素性の確認が行われるという説明を受けていた。
そのチェックをパスして面会が申し込まれているということは、何か重要な話が行われるのだろうか、と愛実は詮索する。
(ええと……伊藤さんの奥さん。と、八雲さん、だよね)
伊藤から、妻の本名と彼女が死後福祉局のアガルタにかかわる部署にいるとは聞いていた。そして、八雲は伊藤の言っていたキーパーソンだ。
「お会いしたいです!」
愛実は即座に反応していた。
面会時間の少し前に、看護師に車いすで面会室に連れて行ってもらう。
既に面会室の前には、スーツ姿の男女が待機していた。
看護師は部屋のセッティングを終えると席を外す。
「初めまして、東 愛実さん。私は死後福祉局の冴島 彩奈です。今後のお話にまいりました」
「27管区プロジェクトマネージャーの八雲 遼生と申します、よろしくお願いします」
二人は役人然とした所作でアナログ名刺を手渡す。
現実世界なので、名刺はインフォメーションボードに格納されない。
愛実は名刺を受け取って、見比べるようにじっと冴島を見つめた。
伊藤の言っていたように、クールな印象を受ける女性だ。
「はじめまして、冴島さんの旦那さんの伊藤さんには何年もの間お世話になりました。よくしていただいて」
伊藤とは二年以上も同居していたのだから、愛実はその妻に対してもどことなく親近感を覚えてしまう。
伊藤の名前を愛実の口から聞いた冴島は、クールな表情を崩して戸惑いをみせる。
「伊藤が仕事をしていたようで何よりです」
あっ、と愛実は地雷を踏んだことに気付いた。
どれだけ仕事と割り切っていても、夫婦なのだから、愛実と伊藤の同居の件は敢えて触れるものではなかったのかもしれない。失言をしてしまった、と。
愛実が青い顔をしていると、八雲が助け舟を出した。
「今後のご予定ですが、国が新築マンションを用意しますので、そこに居住いただけますか」
「えっ? 私と姉は実家で暮らすのでは……?」
「それがですね……お伝えしにくいのですが」
冴島が言いにくそうに切り出すには、東京の実家はすでに沙織によって売却されているとのこと。
長らく空き家であったので、防犯のために売却し更地にしておいたのだそうだ。
思い入れのある実家を、愛実に相談もなく売ってしまうなんて。
愛実は戸惑ったが、愛実が現実世界に戻れるともしれなかった近況を考えると、沙織の選択はあながち間違ってもいない。ということでひとまず納得した。
「わかりました……その、姉とはいつ会えますか?」
「面会許可が下りましたので、本日午後、沙織さんとの面会が実現できそうです」
「姉と会えるのですね! 嬉しいです!」
愛実は待ち焦がれていた実姉との面会が叶うと聞いて興奮を抑えられない。
「はい。手続きの関係で今までお待たせしていました。お姉さんはさる理由からバイオクローンに乗っているとのことで、外見が以前と異なっているのですが、その事情は汲んであげてください」
八雲が現在の沙織の近況を伝え、画像を見せる。
見ておかなければ、同一人物と証明することは難しい。
愛実は寝耳に水の話で、混乱してしまう。
「えっ……! これが姉ですか? 別人みたいですし、高校生ぐらいに見えませんか?」
「18歳ぐらいの年齢設定でしょうかね。立場上、別人の外見でなければ危険でしたので、やむを得ずだと思います」
「姉の前の体はどうしちゃったんですか?」
「残念ですが、この世にはもう……」
愛実は言葉も出ない。しばらく沈黙して、ようやく現実を飲み込む。
「そうか……私も、誰かに襲われたからこうなったのですもんね。姉も危ない目に遭っているのですね。その危険な状況というのは、今後も続くのですか?」
身を守ろうにも、愛実には何の力も技能も持っていない。
せっかく現実世界に戻ったというのに、すぐに死亡してしまうのは勘弁だ。
何をどうすれば安全なのかすら分からない。
「今後は普通に暮らしていただいて差支えありませんよ」
八雲は明瞭な口調で告げる。
何故八雲がそんなに断定できるのか、愛実には奇妙に映る。
「それは、特殊な訓練を受けた姉が一緒だからということですか?」
沙織は諜報機関に所属していたので、愛実のボディガードができると思っているのだろうか。しかし、彼女一人でも危険だったから体を乗り換えたというのに……?
八雲の意図がわからない。
「そうではありません。国があなた方の身辺警護を行います」
何をどう警護するのかぴんとこないが、これから四六時中、警察官やボディガードに付きまとわれる生活が待っているのだろうかと思うと愛実は少し複雑だ。それでも、安全には代えられない。
「……よろしくお願いします。警護というのは、ずっと付き添いでですか? それともたまに巡回で警戒してくださるとかですか?」
「ナノデバイスを利用した、政府要人警護のためのセンサーシステムがあるのですよ。あなたの身に異常が起こったり、普段と異なる行先を目指した場合に、位置情報や状況を把握していつでも駆けつけます。保安部と通信も可能です」
「すごいです。ナノデバイスはどうやって身に着けるのですか?」
「特殊な整髪料を使っていただければ髪に付着します。これは市販していませんので、誰にも話さないでください」
八雲が説明をしながらヘアスプレーを手渡す。ラベルには無香料と書いてある。
空気中に吹きかけると活性化するらしい。
「へえー! では毎日忘れずにつけないといけませんね」
愛実は感心してしまう。そんな技術がすでにあったとは。
進んだ技術を公表すると犯罪に使われてしまうかもしれないから、表には出さないという説明を受ける。
とはいっても、遠くから狙撃されたりすれば通報システムも間に合わず即死だ。
愛実は政府要人でもないのだし、ないよりはマシレベルの警護なのかもしれないな、と考え直す。
「それはいつまで続くのですか?」
「そうですね、当面、一年ほどでしょうか」
「私、獣医師として就職したいのですが、この状態ではもしかして難しいでしょうか。一年間隠れていたほうがいいですか?」
「民間の動物病院への就職は、セキュリティの問題もあり、現況では少し難しいかもしれません。国家公務員としての獣医師を志望でしたら、対応可能ですので斡旋しますよ」
冴島がここぞとばかりに、用意していた就職斡旋先のパンフレットをよこす。
愛実は乗り気はしなかったが、愛想笑いをするしかなかった。
愛実は小さなクリニックで働きたいタイプだ。
「……ちょっと考えてみます」
「また意向が決まりましたら、お話を聞かせてください」
「お願いします」
暫くは沙織と同居をすることになるが、自分で生活費を工面しなければならない。
(お姉ちゃんが仕事を辞めたのなら、私が働かなきゃ)
今度は私が沙織を助けなければ、と愛実は決意する。
午後になって、冴島と八雲から指定された時間ちょうどに、病室をノックする音が聞こえた。
「はいー」
愛実は緊張して応じる。
入室したのは、事前に八雲から呈示されていた写真通りの少女だ。
少女には沙織の面影はまったくない。
「東 沙織さんです」
八雲が同行してそう説明するので、何とか本人が来たのだとわかる。
八雲は沙織と愛実を引き合わせると、「では、ごゆっくり」と帰っていった。
病室には、まったく似ても似つかない容姿をした姉妹が取り残される。
少女は大きな花束を抱えたまま、居心地が悪そうに入口に突っ立っていた。
「お姉ちゃんなの?」
愛実は探り探り、ベッドに腰掛けたまま彼女に声をかける。違わないとは思うが、信じがたい。
「そうよ。愛実、おかえりなさい」
少女は花束を手渡しながら愛実の名を紡ぎ、目には涙を浮かべている。
「ただいま。お姉ちゃん。厚労省や仮想世界の人たちに助けてもらって、帰ってきたよ」
愛実が仮想世界で生まれなおし言葉もうまく話せなかった状態から何年もかけて大人になってゆくのを、沙織はどんな思いで見ていたのだろう。
暫くお互いに言葉もなく、ただ抱きしめあう。
容姿が若すぎるというせいもあるが、姉ではなく妹みたいだ。
沙織の華奢な肩をいだきながら、彼女はどれだけ気を張り詰めて生きてきたのだろうと愛実は不憫になる。
「お姉ちゃんは大丈夫じゃなかったよね。何があったのか、話を聞かせて」
「そうね、話しておかなければならないわ」
沙織と愛実は再会を喜び合い、姉妹は時間を忘れて思い出話に花を咲かせる。
夕暮れが訪れる頃には沙織の緊張もほぐれてきて、愛実の乗った車いすを押して院内を回る二人の姿があった。
その数日後、愛実は在宅リハビリに切り替え、沙織と二人で厚労省の手配した新居に引っ越すことになった。
モダンな超高級レジデンスのエントランスロビーは広々として、対人コンシェルジュサービスは完璧、全棟全面強化ガラスの設えに、ハウスマネジメント、ポーターサービス、ハウスキーピングサービス、クリーニングサービスも完備。
東京の名所を一望できる、パノラマラウンジまであるのだそうだ。
「わあ……でもこんなところに住ませてもらっていいんだと思う? ちょっと贅沢すぎとか思わない?」
なんというか、本当に二人のために国が物件を借り上げているのならば、税金を浪費しているようでしのびない。もっとほかの社会問題にこそ使ってほしい。
そんな風にも愛実は思う。
すると、沙織はため息交じりに実情を明かした。
「ここは八雲が個人で所有している不動産物件なの」
国が用意していた、というのとは話が違う、と愛実は思った。
きっと電気代や諸経費は払えないし、八雲に負担してもらうのも借りを作るようで心苦しい。
もう少し、セキュリティは確保しつつほかの物件はなかったのだろうかと愛実が沙織に疑問を投げかけていると、沙織は力なく首を振る。
「仕方ないわ。屈辱だけど、彼に匿ってもらう以外に選択肢がないの」
「どういう意味?」
「すぐにわかるわ」
沙織はその答えを明かすように、住居として用意されたマンションの最上階の部屋へと案内する。
信じられないほど広いフロアは、モデルルームのようだった。
センスのよい大型家具と、寒々しさすら感じる少し生活感のない豪奢な間取り。
見たこともない、珍しい花も活けてある。
沙織に付き添われて愛実がリゾートのようなプール付きのバルコニーに出ると、高層ビル群が広がっていた。
「いい眺め……東京の街並み。怖くなるくらい」
愛実が素直な感想を漏らす。
「今見えてるこの景色、東京の街並みではないわ」
「どういう意味? だってここは東京で……何もおかしくない」
そこにあるのは伊藤と一緒に仮想世界で予習した、東京の街そのものだ。
「ここに見えている世界は、東京とは違う街。いえ、もっというと、エレベーターから降りた瞬間、違う世界に来ているの」
「待って、何を言っているの?」
「よく見て、この街。誰もいないの」
愛実は先ほどから夕暮れの街並みが静かすぎることに気づいた。
それは人々の作り出す音がないからだ。
空に飛空車は飛ばず、路上にも誰もいない。
たった一人も。
鳥も飛んでいない。
デジタルサイネージは何も映していない。
たった一つもだ。
愛実は寒気を覚える。
「こんなことって……視覚効果ではなくて!?」
「いいえ、違うわ。ここは紛れもない現実世界だけど、異なる世界に接続している……」
現実の底が抜けて、奈落へ突き落されるように感じた。
だから沙織は言ったのだ。
八雲に匿ってもらうしかないと。
現実世界に出たと思ったら、さらに大変な世界の入れ子構造が広がっている。
「ここは反転世界の東京という、人類には手の届かない、絶対安全なシェルターのような世界らしいわ。正直、愛実にもその世界が見えてほっとしているの。ひょっとすると、私だけおかしくなってしまったのかもしれないと思ったから」
「見えるよ、お姉ちゃん。……ねえ……その、でも八雲さんは本当に味方?」
返答によってはここに匿ってもらっているのではなく、軟禁されてしまうことになる。
「お姉ちゃん。こんな秘密を知って、私たち生かしておいてもらえる?」
「庇護が必要なくなったら、記憶を消してしまうと言っていたわ」
「記憶を消すって、薬物とかで?」
「いえ、生身でできるらしいわ。現実世界を切り取って、別の世界につなげてしまえる相手よ、人の記憶を操作するなんて造作もないわ」
沙織が八雲に抗うことを諦めてしまった理由が明かされる。
伊藤は「現実世界には神はいない」と言っていた。
しかし、それは本当なのだろうか?
ただその存在を、知らないだけなのではないか。
まるで、地球という世界に閉じ込められた、アガルタ世界の住人のようだ。
リアルな、本能的な恐怖が愛実の中で首をもたげてきた。
◆
【アガルタ第27管区 13年142日目(4887日目)
総居住者数 253556名
総信頼率 99%
基点区画内 98%
第一区画内 99%
第二区画内 99%
第三区画内 99%
第五区画内 99%】
国民の皆様今日もお元気ですか?
甲種一級構築士の赤井と申します。
恙ないかって? あるよ。
ニュースといえば、メグが現実世界に無事に帰れたことだね。
伊藤さんの全面バックアップを得て獣医師の資格をとったうえで、現実世界帰還だよ。
ちゃんと記憶も戻って、リハビリが終わったら日常生活を送れるっていうから、奇跡だよね。
日常生活はいいんだけど、身の安全とか大丈夫かな?
八雲さんからは、セキュリティ万全の借り上げのマンションに引っ越してるって話を聞いた。
八雲さんの弟さんもそこに住んでるらしいし。
ちなみに、八雲さんより弟さんの方がいろんな意味でハイスペだっつってた。
八雲さん以上にハイスペって概念あんの?
じゃあまあ、安心か。
信頼率は前のように過去最高に達し、高止まりしている。
これはもう、私がどうこうというより、スタッフの皆さんの頑張りという以外にない。
ユーバリ地区に赴任したロイのおかげでも大いにある。
ああそう、彼は隙間時間で英語と日本語を完全に覚えた。
辞書数冊分の知識量が彼の頭の中に丸ごと入っている。
いよいよだね、私が彼に完敗する日はそう遠くない。
私はその日を歓迎するつもりでいるよ。
表向き素民たちの間に平穏が続いていたある時、突如事件は起こった。
“赤井君、27管区内の素民たちが不自然に消えているようだ”
私を空中に呼び出したエトワール先輩が報告をしてくれる。
素民に会話を聞かれないようにするには、空中が一番だ。
エトワール先輩、オフレコの思念通話で話している。
空中で会話しているからそもそも素民には誰にも聞かれてないんだけど、ほかの構築士にも聞かれたくないらしい。
“行方不明ですか?”
“いや、そういったものではない。ただの迷子ならインフォメーションボードのトラッキングで見つけられる。録画を見ても、ある瞬間を境に消えている”
エトワール先輩はインフォメーションボードからまさにその瞬間の映像をピックアップして、私のインフォメーションボードに送ってくれた。
その映像を確認する。
消えている素民たちは特に各地区のキーパーソンや顔役などではない。
ごく普通の一般素民だ。
人間患者はいなかった。
狙われているのはA.I.のみということになる。
一見して消えた者の共通点は見当たらない。
“なるほど……”
いや、思った。
気づかなかったわけではない。
なんか、夜逃げみたいな感じで住居を引き払っていなくなった家族がいるって。
この世界において、夜逃げというか、住居から素民がいなくなることはそう珍しくない。
主には、危険な動物や自然災害を予期して別の場所に避難をしていることが多い。
これまでの経験から、何かの事情があって別のエリアに引っ越したのかなと思っていたけど、そうではなかったんだ。
……私がちゃんと見守れていなかったね。
エトワール先輩が見せてくれた映像はどれも、どこかに移動したのではなく、日常生活を送っている素民が急に消えていた。
素民にも、野生動物にも、誰にも襲われていない。
そう、まるで神隠しのようにそこにあったグラフィックが、あるときを境に消滅する。
『自然死ではなく現実世界を巻き込んだ事件や事故であれば、彼らを呼び戻せるが』
エトワール先輩は禁じ手を告げる。
『どうやってですか?』
『そんなときにこそ至宙儀を使いたまえよ』
そうでした。
すぐ存在を忘れるな。
背中にあるから忘れるよね。
『でも、原因を探らなければまた突然の失踪を繰り返しますね』
『だな』
また同じ危機を生まないためにも、原因究明が先だ。
“現在までに5回、計36名の素民が消えていて……少し、気になることがある。その事象が起こったのが、見事に猫元君が非番のときなんだ”
“なーこさんの不在を見計らったかのような? ということですか”
なーこさん、最近突発性の頭痛に襲われることがあって、時々通院してる。
人の体調のことをあまり詮索できないんだけど、心配だよね。
もしこれがただのバグや偶発的事象でなければ、犯人? はなーこさんの存在を恐れている? 通院日を知っている誰かってこと?
“27管区の内部の人間が関与しているかもしれない”
“これ、外に報告します?”
“それを悩んでいるんだ”
うーん……八雲さんも何も言ってこないけど、彼が把握していないってあるのかな?
今、彼が27管区PMをやっているのだし、必ず把握しているよね。
なのに見過ごしている? 敢えて聞いてもいいやつ?
犯人が彼だったらThe ENDだよ。
いやーどうかなー……。
“なーこさんの通院日って、当日連絡ではなく事前連絡なんですか?”
“私たちと同じく休暇をとりたいときは勤怠管理システムに入力しているだろうから、何者かが把握するならその時だろう”
『何を二人でぼーっとしてるのかな?』
『ぎゃー!』
うわーびっくりした! なーこさん来た!
『お、驚かさないでくださいよ』
心臓が飛び出るかと思いましたよ。
『なに、密談ですかー? 私もまぜまぜしてー』
『あーっと、すみません二人で仕事さぼってました』
『えーほんとですかー?』
なーこさんは少しふてくされた顔をしながら空中で揺れている。
『なーこさん、そういえば体調っていかがです?』
ちょい唐突だった?
なーこさん、「は?」って顔になってるけど。
『あ、いえ、頭痛の件で……心配で』
『頭痛は厚労省指定の病院にかかっています。でも原因がよくわからなくて、仮想潜水症候群かなって話になってます』
『本当に仮想潜水症候群か……? 頭痛はまだ報告されていないが』
医師のエトワール先輩が首をかしげている。
仮想潜水症候群(※)というのは、生前に仮想世界にダイヴする職業の人々がまれにかかるとされている症候群で、急性減圧症候群や潜水病などとも類似している。
とはいえ、アガルタのダイヴシステムでは水圧調整がされているものなので、仮想潜水症候群になるのは珍しいとのこと。
『あ、そういえば明日精密検査を受けるんです、明日も半休いただきます』
“明日ですって?”
“明日か!”
『承りました。お大事にしてください』
私とエトワール先輩、なーこさんをいたわりつつ、視線も交わさず緊張が走る。
なんも準備できてないけど、そんなこと言ってる場合じゃない。
※…この疾患はフィクションです。




