第9章 第9話 To the REALWORLD◆
【 アガルタ第30管区(第2医療特区) 137億2014万3823年 192日 】
【 利用者1名 ステータス・制限稼働状態 】
日本アガルタ30管区・2136年2月15日(水)、午後3時すぎ、東 愛実の東京の実家にて。
図書館での自習を終えて帰宅し、同居中の伊藤と夕食を終えた。メグは30管区の流行りのワンピースに身を包み、化粧もヘアアレンジも上手にできるようになっていた。
伊藤が食後のお茶を出して、明るい声で告げる。伊藤は今日はアイボリーのセーターを着てパンツスタイルだ。
『そろそろ出ますか、現実世界』
「えっ!」
いつか来るだろうとは思っていたが、とうとうその時が来た。
その日の到来を全く予想していなかっただけに、メグの心臓が跳ねる。
「えっ、でもそんな、まだまだだって思ってました」
地球に戻ったら、しばらくは叔母の家で暮らすということになっていたはずだ。
『そうだったのですが、お姉さんの所在が分かりまして、連絡がとれたそうなんです』
「!?」
伊藤はインフォメーションボードを立ち上げて読む。
叔母の家ではなく、東 沙織が東京の実家で身元を引き受けるとのこと。
何がどうなったのかわからないが、伊藤は事情が込み入っていないことを祈る。
伊藤は外に出られないし、現実世界のことは仮想世界からインターネットなどで調べるか、また聞きでしか分からない。
「会いたいです。でも、いつになりそうですか?」
『あなたのよいタイミングで、すぐにでも。こちらの都合に合わせてくださるそうです。ですから外の世界に帰還する時期をいつにするか、決めないとですね。あなたと精神科医との面談後になりますが、もし差支えないのであれば、早めに現実世界へ帰還されることをお勧めします。お姉さんも待っていることですし』
伊藤が勧めるのも無理はない。東 愛実の本体は二年以上も収容されている病院で寝たきりで、薬剤や機能維持装置によって保たれてはいるが、日に日に肉体が虚弱化してしまう。
精神的なコンディションに問題がないなら、早く現実世界に戻してあげたい。
ということは、彼女には伝えていないが……。
伊藤は空中にインフォメーションボードとカレンダーを浮かべながら、メグと一緒に考え込む。
「休日でしたら、あいていると思います。あ。でも部活の大会と飼育の当番が……」
メグは乗馬部のコンペが迫っていることを思い出した。それに、飼育当番のシフトも入っている。
『なるほど、それも優先しなければなりませんね』
「もしかして、外に出たらもうこの世界には戻ってこれないですか? まだ私、大学卒業してないですし……もうすぐ獣医学部3年が終わるところで、獣医師になるまであと2年あります」
メグは踏ん切りがつかないといったように、もじもじしている。
伊藤はメグに対して看破を使えるが、メグの対人スキルの訓練のために最近はあまり使っていない。
「もし今外の世界に出たなら、北海道に戻って大学に復学し、実時間2年そこで暮らすことになるのでしょうか」
『一応、そうなりますね……』
「どちらにしても、姉とは暫く離れ離れになりますね……」
メグがうなだれるので、伊藤もつられて困った顔になる。
30管区においては伊藤が東京の実家と北海道を空間的につなげているので、東京⇔札幌の通学も楽々だが、リニアや飛空車を使ったとしても時間も運賃もかかる。
伊藤は「そうですね」と言いながらインフォメーションボードでオペレーションルームとやり取りをする。暫く待った後、伊藤の申し出に現実世界側から即断即決の許可がでたことに驚く。
異例の速さで変則的運用が許可されたのは、八雲の根回しのようだ。
八雲がかけあって、伊藤の妻、死後福祉局 局長の冴島を説得したということになる。このところ、八雲は厚労省内での影響力を強めている。
八雲は27管区のいちPMにすぎない立場だが、何故か彼の思惑通りに事が運ぶ。さすがの伊藤も、妻が現実世界にいる以上は、あまり変な動きをしないほうがいいように思った。
現実世界にいる妻を、八雲に人質にとられているようなものだ。
『許可が出ました。獣医師の資格を取ってから外に出られるようにこの世界の時間を加速しましょうか? つまり、現実世界時間一か月ほどの間に時間を加速して2年ほど進めるということです』
「姉には会いたいですが……この世界を去るというのは、名残惜しいというかまだ決心がつかなくて。すみません、こんなことを言っても伊藤さんも困りますよね」
メグは嬉しそうなリアクションをしてみたももの、すぐにトーンダウンする。
『あなたのご心境はよくわかりますよ。私も仮想世界が好きな側の人間なので』
「そうなんですね! でもこの世界の、学友のみんなも……私のこの世界での家族も仮想世界の人たちなんですよね」
現実世界にはいない素民の人々を、メグは虚構だとは思わない。
彼らは確かにこの世界を生きている、人格もあると思っている。
『仮想世界住人に愛着があるのでしたら、あなたが外に出た後は学友として連絡をとることもできますよ。そんなに難しく考える必要はありません。両方の世界を往来してもいいのですから』
伊藤は、平日は講義の聴講のために仮想世界で過ごし、休日には現実世界に戻るということも可能だと告げる。
メグの顔が再び明るくなった。
「それなら外に出てみたいです!」
『現実世界と仮想世界の時間比率の調整はお任せ下さい』
「そんなことができるんですか?」
『はは、この30管区において私にできないことはありませんよ』
伊藤はわけもないといった素振りで言うが、メグは目を大きく見開いている。
現実世界だけが人生だとは思わない。仮想世界は決して人生を引退した人たちのための世界ではなく、もっと自由に活用してよいのではないかと考えていた。
第二の人生は隠居生活でなくてもよい。
肉体から心を解き放てば、人はもっと自由になれるはずだ。伊藤はそう考えている。
『まあ、外の世界はそうはいきませんけどね……』
「外には外の神様がいるのでしょうか」
メグは自然な流れでそう訊いてしまう。
はっきり実在しないと言ってしまうと、宗教自体を否定することになってしまうので、伊藤はぼかす。
『どうでしょうね。神話というものの大半は、向こうの世界においてはフィクションですよ。古代、雨ごいや病気の治癒祈願、死の恐怖からの逃避、王権や政権の正当化……人間の力の及ばないことを宗教に押し付けることで、人々はうまく社会を築いてくることができました』
伊藤にはそのつもりはないのかもしれないが、メグは赤い神の世界を根本から否定されたように感じた。
『死後の世界があると信じることで、古代の人々は不合理を受け入れることができたのです。病や死すら克服しつつある今となってはもう、宗教は役割を終えて、この世界の中でのみ古典的なエンタメやキャラクターショーとして残るのかもしれませんね。私もその役者の一人です』
こう言っては公務員としては不適切なのだが、メグには伝えておいたほうがいい気がした。
現実世界に出て他力本願に生きても、願いをかなえてくれる神はいない。
だからこそ自分自身で人生の意味を見つけ、幸福をつかみ取り、理不尽も飲み込まなくてはならない。
「なんだか、こっちの世界のほうがいいですね。伊藤さんは、この世界で過ごす時間の方が長いと聞きましたが」
『こちらの世界にいるときの方が自由を感じますね。地上は体が重くて息が詰まります、完全にこっちの世界の人間になりたいものですが』
「死んでアガルタ世界に入りたいということですか?」
『利用者になりたいのではないんです。サービスの提供側でいたいんですね、だからこうして働いています』
彼は望んで仮想世界を人生の一部として働いている。
それに、仮想世界で囚神として過ごしている場合は、患者とは違って生体状況を管理され、現実世界で事件や事故に巻き込まれることもなく、肉体はかえって安全だ。
「奥さんやご家族と会いたくなったりとかしません?」
『ああ、両親や妻には仮想世界内でインフォメーションボードごしに会えていますから。子供もいませんしね』
「寂しくならないんですか?」
『どうして? 会えているのに?』
伊藤にとっては映像と実物の間には大差がないのだろう。
伊藤と話していると、メグも感心してしまうというか、多様な生き方があるのだと思う。
「……怖いこと聞いてもいいですか」
『ええ、どうぞ』
「赤い神様ももしかして向こうの世界の人で、国家公務員なんですか?」
メグの声は震えていた。
伊藤は一瞬、答えるのを躊躇ってから慎重に答える。
『もちろんそうです。彼に限らず主神は全員、地球人ですよ。中の人がいます』
「とてもそうは思えませんでした」
メグはうまく思い出すことができない。
それでも、彼と過ごした短い期間、彼は紛れもなくあの世界の住人のように見えた。
「もしかして……と思っていることがあるんです。厚生労働省のHPをみれば、誰が勤務しているのかは分かりますか?」
『……あいにく、甲種一級構築士に限っては匿名なのです。国民には情報が開示されません』
「伊藤さんは実名なのに、赤井さんは匿名なんですか?」
『私は表向きには甲種一級構築士ということは伏せてあり、日本アガルタのプロジェクトマネージャーとしての名しかありません』
「インターネットを使って調べてみたんですけど、同窓生の中で桔平くんの消息だけが分からないんです。それなのに、伊藤さんは桔平君の消息を探し当てたんですよね……どうやって調べれば出てきたのでしょうか」
メグは確信を持っているようで、伊藤の目をとらえて離さないので、伊藤も少したじろいでしまう。
『別の部署に調べてもらったので、私は調べ方を知らないのですよ』
「……そう、ですか」
そこまで見当をつけられるのなら、もう現実世界に戻っても大丈夫そうだなという印象を伊藤は受ける。
それとは対照的に、メグはもう少しのところで答えにたどり着けずもどかしい思いをかみしめる。
国会図書館に収蔵されている職員名簿もあたってみても係長、室長、部長以上しか掲載されていなかったので、公務員なのかすら分からないが。
同級生は誰も連絡がつかない、なのに捜索願が出されていない。
彼らは桔平の家族とも連絡がとれなくなっているようだ……。
(だから、やっぱり桔平くんは何か事件に巻き込まれているのでなければ、諜報機関のような場所で働いているのかもしれない。守秘義務があって周囲には話せない)
メグの推論が固まってきた。
(もしそうなら、お姉ちゃんが知っているかも。お姉ちゃんも諜報機関で働いていたから。案外、近くにいたりして。もしくは……甲種一級構築士として働いているか)
管区の開設時期と桔平の卒業の時期を照らし合わせれば、彼がもしアガルタ世界にいた場合どの管区にいる可能性が高いかわかる……。
メグの表情がこわばっているのを察した伊藤はくぎをさしておく。
『まずはお姉さんとゆっくりお話しになることをお勧めします』
「そうですよね。お姉ちゃんには本当に、長い時間会っていないので……でも、会ったら何て言ったらいいかなあ。ごめんなさいかな……」
メグは沙織との再会に思いを馳せている。
『あなたが謝る必要はないと思いますよ』
メグはむしろ、沙織の巻き添えを食らって巻き込まれただけだ。
どちらが謝るべきかというと沙織のほうで、伊藤は沙織に心配をかけたといって自らを責めるメグを、けなげに思いつつ胸をいためた。
伊藤は加速構築を使い、現実世界との時間同期を解いて30管区の仮想空間内時間を早めた。
メグは沙織との再会を楽しみに学業に励み、学友との時間も大切にしながら堅実に単位をとって卒業の見込みが立ってきた。もともと現実世界においても申し分ない成績をおさめていた彼女ではあるが、少しずつ記憶も回復してきたようだ。
この間、メグは定期的に赤井とも連絡をとっている。
ロイが自らの志願で甲種一級維持士補として登録されたと知り、メグはその決断に敬意を表した。
これで、27管区の素民たちが現実世界の人間のために蹂躙されてしまうことはないかもしれない。
(ロイが見ているならきっと、大丈夫だ。あの子は道を誤ったりしない)
メグは彼を信じていた。
◆
霞が関一丁目。日比谷公園霞門前。
沙織は立ち尽くしている。気が付いたら、ここにいた。
ここは確か、八雲との待ち合わせ場所だ。
腕時計を見ると、約束の時刻になった。
「時刻通りですね」
沙織の目の前に、いつの間にかスーツ姿の八雲 遼生が立っていた。
立っていたというより、現れた、という印象を受ける。
通勤用バッグを背負って、出勤途中とみえる。
沙織はびくっとして身構える。
四方八方に気を配っていたが、接近の気配を感じなかった。
「来るつもりはなかったのよ。罠なんでしょう」
「足が勝手にここにきてしまいましたか。それはお気の毒に」
八雲が沙織の何もかもを見透かしたように言う。
「いったい何が目的なの? 私は仕事を失う羽目になった。私に何をさせたいの。あなたがそう仕向けたのよ」
あの日、沙織は少しの好奇心を持って八雲に接触したばかりに、精神支配を受けてしまった。
記憶の混乱を生じたことで、内調での任務に適さないとみなされてしまった。
沙織の受けた処遇は、退職勧奨だ。
「人の心を操るのはそんなに愉快かしら」
「あいにくと私にはそういう、他人を甚振るような趣味はありませんし、あなたにも特に利用価値はない。どちらかというと感謝してほしいものですが」
沙織は屈辱的な物言いに耐えかねて唇を引き結ぶ。
「あなたが私と出会ってから、あなたの身に何も危ないことは起こっていないでしょう」
たしかにそうだが、それは仕事を辞めたからだ、と沙織は反論したい。
「そう悪い取引ではなかったと思いますよ。私とあなたの目的は一致していますし、あなたは仕事を辞めたのと引き換えに、私の庇護を得たのですから」
「持って回った物言いはやめて。何が言いたいの」
「素人の出る幕はありません、と」
「私だってプロよ」
沙織にも内調プロパーとしてCIAでの経験もあり、日本においては特殊部隊を率いてきた自負がある。経歴、実力ともに申し分のないプロの諜報員であり、素人とは言わせない。
「そんなもんですかね」
八雲は沙織を挑発するかのような口ぶりで両手を軽くかざし、中空にフレームを作るようにする。
そのフレームを拡張してゆく。
沙織が身構えると、八雲が時空を切り取り、張り巡らせた見えない壁に、完全消音で放たれた無数の散弾が突き刺さっているのが見えた。
「っ……!
「これまで私はあなたの暗殺を128回防ぎましたが、プロとやらのあなたは何回気づいていましたか? 私には何時何分何秒、どの時空どの座標に何が存在するか、すべて見えているのですが」
八雲がフレームのようなバリアを解除すると同時に散弾が路面に落ちた。
路面を跳ねた弾の動きが突然止まる。
時間が止まったかのように、現実世界のすべてのベクトルが止められる。
周囲の時間が停止し、沙織と八雲だけが動いている。
「まさか一度も気づかなかったなんてことはありませんよね」
「こんなの……ありえない! また私に幻覚を見せているの? あなた……何者?」
「少し口を慎んだ方がいい。甲種一級構築士が仮想世界の管理者ならば、私は現実世界の管理者です」
人のそれではない、機械でもクローンでもない、
何かそれらを超越した存在と対峙していることに沙織はようやく気づいた。
「今日は妹さんの二度目の誕生日です。あなたには是非にも立ち会ってもらわなければなりません。時空を支配する私の庇護下にいる限りは、あなたと妹さんには致命的なイベントは起こりえない」
八雲があまりにも悪役然とした物言いをするので、
彼は沙織を守ってくれていたのだ、ということを理解するまでに暫し時間を要した。
彼の能力を今、ありありと見せつけられている。
「教えて。イカレてるのはどっち? 私の頭? それとも現実のほう?」
「あなたとその記憶は健康そのものですし、この座標においては比較的平穏だと思いますがね」
「何も信じられない……」
「では、信じられるものを少しずつ集めるしかないでしょうね」
八雲が踵を返すと、飛空車の群れはまた空を流れ、いつもの喧噪が流れ始めた。
◆
日本アガルタ30管区内。2138年3月23日(日) 午後22時。
「旅立つにはいい日」
メグはその日、疑似世界東京は上野恩寵公園に来ていた。
桜吹雪に浴しながら、定められたときがきたと悟った。
「夕桜 朧月夜に ちりぬれば 浮世の橋を 帰し渡らむ」
桜吹雪を見上げながらぼんやりと、そんな句を詠んだ。
仮想世界に残す辞世の句のようにも思える。
すっかり旅支度を整えて、近親者とのしばしの別れを終え、伊藤は天御中主神◆◆◆の姿へと戻り、メグを現実世界へ帰還させる水先案内人となる。
彼の和装は夜桜に映える。
『では、現実世界で会いましょう』
伊藤はメグから少し距離をとり、転送に巻き込まれないように対処する。
メグは深々と頭を下げる。
「伊藤さん、今日までありがとうございました」
『それは、赤井さんにもお伝えしておきます』
「最後に一目、お会いたかったのですが……」
『それは向こうの世界に戻ってからでもできます』
「そうですよね」
管区間移動ではなく、現実世界帰還時はとりわけ仮想世界時空が不安定化するため、余計な介入とならないよう、27管区の赤井は立ち会えない。
メグの帰還の様子は、彼も27管区のインフォメーションボードから見ているはずだ。
『この先は引き返せませんが、いいんですね?』
「はい、もう大丈夫です」
伊藤はメグの同意を取ったことを示すサインを求める。
メグが電子署名を終えると、伊藤はパチンと指先を鳴らす。
周囲の背景が消えて広大なグリッドが広がった。
今度こそ、現実世界へ向けての転送ゲートを開く。
【 空間連結シーケンス 】
【 仮想/現実間転送ゲート・両界接続完了 】
【 JPN:治験者ID1409の擬似脳を帰還待機スペースへ転送します 】
インフォメーションボードにアナウンスが流れる。
メグの手のこぶしが緩く結ばれた。
『確認しました』
伊藤は万感の思いで彼女を送り出す。
「いってきます」
メグは伊藤に手を振った。
【 管区管理者は認証キーを入力してください 】
伊藤は最後の手順となる、セキュリティーキーを解除。
【 ID1409、バイオメトリクス認証完了 】
【 第30管区から帰還待機スペースへのエントリを許可します 】
【 生体時間同期完了・バイタルステータス・擬似脳ステータス・脈拍・血圧・正常 】
【 待機スペースニューラルネットワークを確認。接続まで12秒 】
【 帰還者管理番号:1番 】
【 アバター名/実名:東 愛実 】
【 仮想世界年齢23歳・実年齢23歳2か月 】
【 接続しました 】
メグの素体はゆるゆると光の粉になって崩壊しはじめた。
メグの意識は東 愛実のそれとなり、無へと転化する。
現実世界のオペレーションルームで行程を監視している八雲らスタッフは、仮想空間内の伊藤から疑似脳を引き継ぐ。
【 疑似脳-生脳 データ同期完了 】
【 覚醒シーケンスを開始します 】
二時間後……彼女の意識は東 愛実の脳の中で少しずつ覚醒しはじめた。
東 愛実の肉体は専門病院から厚労省内病院へと移管され、厚労省の多くのスタッフに見守られている。
そしてその場には、ひっそりと東 沙織の姿もあった。
東 沙織は八雲に伴われて愛実の関係者として現れたが、バイオクローンを乗り継いで未成年のような姿をしていたために、西園 沙織と同一人物だと気づいた者はその場にはいなかった。彼女は涙ぐみながら、遠巻きに生命維持装置につながれた妹を見ていた。
「……ん……」
愛実は喉が枯れて、言葉が出てこない。
視界ははっきりしない。
五感が戻ってこない、頭がいたい。
それでも、声はたしかに聞こえている。
「おかえりなさい、東 愛実さん」
「声は聞こえる?」
「よく頑張ったわ。焦らなくていいから、そのままでいて」
職員たちが口々に声をかける。
ジェレミー・シャンクスとブリジット・ドーソンが彼女の経過を見守っている。
どこからともなくすすり泣く声が聞こえ、ぱらぱらと拍手がわきおこった。
何人いるだろう、お姉ちゃんはいるだろうか、と東 愛実は耳から入ってくる情報に集中する。
喝采も喧噪も、何もかもが、ぼんやりと遠くに聞こえた。
「おかえりなさい、現実世界へ」
八雲が一言囁くように、黄泉比良坂より現世へ帰り着いたものへねぎらいの声をかけた。