第8章 第7話 Moved to 30th District◆
【 アガルタ第30管区(第2医療特区) 137億2014万3821年 241日 】
【 利用者1名 ステータス・制限稼働状態 】
第30管区に入ったメグは、だだっ広いシンプルな白い広間に通されていて、中央に置かれたソファに腰掛けている。
床の材質は赤い神の神殿の構造に、どことなく似ていなくもない。
が、紛れもなく異世界に入ったのだということは彼女にも理解が及んだ。
世界全体の、空気が違っていた。
『私はこういう者でして』
伊藤は空中にパネルを表示させ、デジタル名刺と職員証をメグに開示した。
職員証には確かに、彼女の言うように男性の立体画像が添付されている。
「あ、ほんとだ……女神さまじゃない」
おっさんだ! とは思わなかったし、随分若く見えたが。
『おっさんでしょ』
と、伊藤が自嘲するので、
「え、そんなことないです!」
とっさにメグはフォローする。
『はは、そのまま受け止めておきましょう。改めまして、厚生労働省所管 日本アガルタ機構・ゼネラルプロジェクトマネージャー兼、第30管区甲種一級構築士・仮想世界維持士の伊藤 嘉秋と申します』
伊藤は包み隠さず、彼の長い身分を明らかにした。
「こーせーろーどーしょう? こうちくし? いじし?」
メグが漢字を完全に読めるわけではないので、伊藤は彼女が苦戦しながら読む前に自ら肩書きを名乗る。ストレスはかけない。
27管区を出たときからもう、メグは素民として扱われない。
仮想空間で療養中の日本国民として接遇される。
伊藤は素民の前では「天御中主」の演技をするが、メグの前ではもう演技はしない。
あくまで厚生労働省のいちスタッフとして、ありのままで彼女に接している。
現実世界と同じ姿をしたアバターを用意できればよかったのだが間に合わなかったし、アバターの二体同時稼動はできないことはないが難しい。
『あーそう緊張せずに接してください。ただの伊藤で結構です』
伊藤はひらひらと手をふった。
「は、はい。伊藤さん」
遠慮はいらないと言ってくれるけれど、えらい方なのだから礼儀正しくしておいたほうがよさそうだ、とメグは判断した。
伊藤はにっこり微笑んで、大きく頷く。
『さて、あなたに質問。ここはどこでしょう?』
ふわりと前髪をかきあげ、伊藤は真下を見下ろす。
すると白い石床だと思っていたそこはいつの間にか宇宙空間に様変わりした。
メグは伊藤の神力によってゆったりとソファごと宙に浮かされて、今にも落ちそうな錯覚にとらわれる。
彼女はもう十分だと、慌てて答える。
「そ、そ、空の上ですっ?!」
『ですね。正確には、日本アガルタ第30管区・医療特区の宇宙衛星軌道上です』
「宇宙……!?」
宇宙と聞くなり反射的に、窒息する! 寒い!?
と思ったメグは思わず息を止めたのだが、伊藤は苦笑した。
しかしむしろ、宇宙が何たるかを知っているからこそのメグの反応で、彼にとっては歓迎すべきものだった。
『ああ、空気と温度パラメータは設定していますので。深呼吸して、どうぞ』
伊藤は先に説明すべきだったかと反省する。
『先ほどまであなたがいらした世界は27管区でした。さて、ではあの島は?』
伊藤がぐるーりと指先で円を描いて指差した場所。
眼下には、南北に連なる4つの島から成る列島が見える。
その島々のある場所は夜を迎えていたが、無数の街の光で明るく輪郭が輝いている。
列島には、隅々にまで電気が通っている。宇宙から眺めると、まるで地上の星座だ。
「わ、わかりません……見覚えはあるけれど」
メグはアガルタ世界において、島をこれほどまでに上空から見下ろしたことがない。
飛行体で空を飛んだことはあるが、そのときには島は見えなかった。
『あれはあなたが以前住んでいた、日本という国ですよ』
「日本! ああ……これが……日本」
ニホン、それはメグの頭の片隅にあった、懐かしい響きの言葉だった。
激しく記憶を揺さぶられ、じっと日本列島を見下ろす。
故郷だ。あの光のひとつに、私の家があった。とメグは思い出す。
『を』
と、伊藤が人差し指を立てて注釈をつける。
『……模したものを、私が造りました』
それは、伊藤が超神具・相間転移星相装置でこの第30管区に天地創造を叩き込み、宇宙創生を経るという正統かつ省略なしの方法で構築したもの。
今、日本アガルタの構築士の中で、宇宙創成をやり遂げられる構築士は、伊藤以外にはいない。
眼下に見えるは現実世界の宇宙と全く同一の形式で創造をはじめ、仮想世界内で137億年以上を費やし精巧にコピーをして完成させた擬似地球の中の、紛れもない「日本社会」であった。
伊藤が構築士・維持士人生においてもっとも時間と手間隙をかけた傑作である。
彼がコピーしたのは建造物ばかりではない。
素民たちも実在日本人ではないながら、日本人と遜色のない文化を持って日本人として暮らしている。今、彼は百億にも近い素民の生死と営みをその身ひとつで維持管理している。
伊藤の疑似脳は拡張、改造しているが、それでもかなりの演算負荷を強いられているだろう。
百億超の、地球と全く同じ社会文化を成す素民たちの中に、仮想世界育ちの現実世界の人間であるところのメグをたった一人、受け入れてもてなす。
『さて、あなたにはここで暫く暮らしてもらいますが、よろしいでしょうか』
「はい。がんばります」
伊藤はリラックスしてリハビリに取り組んでほしいと思うのだが、メグにとっては「頑張らなくてはいけない」ことだった。
『ゆっくりとでもいいので、以前の生活を思い出しながらね』
この管区では現実世界帰還プログラムの、総仕上げのプロセスとなる。
もしプロセスが完了し、現実世界と遜色なく暮らすことができるようになれば、メグを現実世界に帰還させられる。
帰還までのプロセスに仮想世界でのトレーニングプログラムをひとつクッションおくことで、精神的に不安定化するのを防げる。
万一失敗したり予想外の事態に発展すれば、この管区で複数の心理カウンセラーや専門の構築士によって、メンタルケア・プログラムを受けさせる、もしくは、最悪の場合は記憶を巻き戻し27管区に戻す。それで、またチャンスを待つ。
治癒までの時間を気にせずにそういうプログラムを組むことが、仮想世界ならばできる。
仮想世界からいきなり現実世界に放り出さないことで、患者の精神を守ることができる。
帰還後は、フォローアップを怠らない。
ここが正念場なのだ。
成功を目前にして、伊藤は気を緩めない。
赤井とメグが何年もかけて少しずつ積み上げてきた成果が、一気に瓦解する恐れもある。
たった一人の住民のために、そうであるからこそ、伊藤は過去の技術と経験を余さず発揮し、全身全霊をかけ彼女と向き合うつもりだ。
今後の段取りは、メグも赤い神から簡単に説明を受けてきた。
伊藤と共に、別世界で地球世界のことを学ぶ。それが終わったら、地球世界に戻る。その後は、向こうの世界で自由だ……と。
自由って何だろう、とメグは思う。
私はずっと自由に生きてきたつもりだ、このうえ更に自由になるってどういうことだろう、と彼女は疑問だったが……。
『さて、おさらいをしますか』
伊藤は指先を上下左右に振り、メグの前に青いモニタを浮かせる。
そこには、メグ、つまり現実世界における東 愛実の個人情報と立体映像が映されている。
伊藤にはプライバシーにかかわる情報には本来アクセス権限がないのだが、メグが現実世界に帰還した瞬間に、東 愛実にまつわる伊藤の記憶を削除するという厳しい条件で、特例的に個人情報の全ての閲覧が認められていた。
『この人に、見覚えは?』
「私……だと思います」
メグは自分の顔に両手を沿わせた。
メグの今の顔立ちは全くといって違うが、黒髪で黒瞳の、同じ年齢ほどの女性。顔のパーツは変わるが、容貌は本質的には変わらない。
今のメグより、少し研ぎ澄まされて賢そうな印象がある。
立体映像の顔には見覚えがあった。ぼんやりとしていた「愛実」のイメージが、立体映像を見ることで固まった。
『そしてこれが、今のあなた』
伊藤はどこからともなく鏡を差し出して、メグを映して見せた。
ぱっと見比べると、愛実とあまり似てはいない。
愛実のような凛々しさがなくて、甘い印象がある。
それでも人種は同じようだし、肌の色も同じ。髪の毛の色も同じと思えば、似ている気もする。
鏡の向こうから、伊藤がのぞきこむ。
『あなたが、メグさんであって同時に彼女、東 愛実さんであるということを、違和感なく受け入れられますか?』
「はい……何度も、彼女の夢を見ました。彼女の中に、私の心が重なってきています」
そう、彼女は夢の中でのリンクを介して、何度も何度も繰り返し東 愛実の人生を追体験してきたのだ。
そのリンクは、日に日に濃くなってきていて、今では彼女と同一人物なのだと理解できるレベルにまで達していた。
そして何より、メグは自分の顔をはっきりとは見たことがなかった。
水鏡やガラス、金属に映すのがせいぜいのところだったから。
『そうですか。今、受け入れられなくても、ゆっくりでいいですからね』
伊藤は、緊張からか俯いて両手を合わせたメグを見守る。
少しずつ、自分が他人になってゆくのは、どんな心境だろう。
そう思うと、現実の姿と齟齬のないように、患者の乗るアバターは患者に少しでも似せたほうがよいのではないか、と今後のアガルタの運営委員会に提言したい。
しかしあまりにも似せてしまうと、患者の個人情報に係わるので難しい問題だ。
『疲れたでしょう。今日のとこはこのくらいにしましょうか』
伊藤はメグに握手を求めた。
差し出された手をおずおずと握り返すと、伊藤の手は祝福に似た、ある種癒しの波動を感じた。
この世界でもメグに対しての伊藤からの祝福は必要だが、心を許していないうちは伊藤も無理にはしない。
『今夜は私とここで寝ますか? それとも、あなたの自宅で寝ますか?』
「家、あるんですか? 私の?」
『もちろんですよ。まず、実家に行きますか。その次に、アパートへ』
伊藤はぱちんと指を鳴らす。
するとメグを巻き込んで、ある一軒家の前に来ていた。メグは急にソファが消えたので、
『ここに、覚えがありますか』
「……分かります。私の家です」
ここは、東 愛実と東 沙織が数年前まで暮らしていた、東京の実家だ。
伊藤はメグの生家と、それから北海道の彼女のアパートの間取りは、忠実に再現していた。
家具や小物までは分からないので、それはメグが30管区に入った今の今、深部記憶を読み取って創り上げた。
だから、メグの見ている家はできたてほやほやで、彼女の記憶にあるそのままの現実世界の家だ。
こまごまとしたパーツは、メグの記憶が戻り次第、自動的に補完されてゆくだろう。
「家の中に……。家族もいるんですか?」
お姉ちゃんも? と彼女は伊藤の顔をまじまじと見つめながら、小刻みに首を振った。
伊藤はその何ともいえない思いつめたような表情に圧倒されて、ただちには返事ができなかった。
同様にメグの記憶から、A.I.で彼女の「家族」を造り出すことは創造神の中でも年季の入りまくった伊藤には造作ないことだ。
しかしそれは彼女の思いを踏み躙る気がしたし、彼女の会いたいものではないだろう。
「中にはいってもいいですか?」
『どうぞ、あなたの家です。これをつけて』
その前に、と伊藤はメグにメタリック素材の指輪を手渡す。
メグは指輪をつまんで、なんとなく中指にはめた。
『これはあなたが地球にいた頃使っていたモバイルです。使い方をお教えしましょう』
「は、はい」
指にはめて伊藤の真似をしてハンドジェスチャーを送ると、空中に立体映像が投影された。
伊藤にざっくりと使い方を習う。
自分に扱えるのだろうかと悩んだメグだったが、手に触れればなんとなく使い方を思い出した。
不思議なものだ、とメグは首をかしげる。
でも、記憶にはないけれど確かに覚えていたんだな、と彼女自身に驚く。
そしてメグは、赤い神の世界ではなく、地球世界を模したこの空間で過ごすことが、記憶の補完にとって大切なのだということの意味を、少しだけ理解できた気がした。
『家に入ってみましょう。これが鍵をあけるサインです』
メグは伊藤に習ったように指先を弾き、家のセキュリティーロックを開錠した。
『上出来です』
「お姉ちゃん!」
彼女はドアが開くなり、メグは無我夢中で駆け出した。
何かに駆り立てられるようにドアを次々と開け、扉の開け方に多少苦戦しながら、部屋の隅々、クローゼットの中も探し回った。
『お邪魔しますよ』
女神伊藤は玄関に靴を脱ぎそろえて中に入り、念操作で空調と照明をつける。
「いない……」
どこを探しても、彼女はいなかった。
そしてほんの少し再会を夢見た彼女の姉は、幻と消えた。メグは落胆の色を隠せない。
『残念ながら、あなたの家族はここにはいません。ここで再会を、と考えてもいたのですが、再会は地球に戻ってからのお楽しみとしましょう』
そうですね……。
とメグは力なく頷いた。伊藤のつてでは、メグの姉を探し出すことはできなかったが、彼女の叔母は何とか探し出した。
この叔母は現実世界での彼女の身元引受人となることを了承した。
以前の経験を踏まえて、バイオメトリクス鑑定で血縁関係のあることは実証済みである。
『さてと、夕飯は向こうの世界で食べてこられたのですよね。では食後のお茶でも淹れましょうか。あなたの家で恐縮ですけれど、おいしい日本茶を用意してあるんですよ』
「ニホンチャ……?」
メグは繰り返す。伊藤はそっとメグの背を後押しした。
『温まりますよ、きっと』
二人は東家のリビングに入った。築10年の一軒家のコピー。
ごく普通の間取りなのだが、メグにはその間取りが斬新に見えてしまう。
そこにある家具や家電の全ての構造が不思議で興味深くて、メグの五感を刺激する。
メグは目を見張った。そして、立ちすくんでしまった。
伊藤は固まったメグをフローティングチェアに座らせ、とっておきの深蒸し煎茶の茶葉で日本茶を淹れる。メグはその様子を興味津々といった様子で見学している。
水道からはきれいな水が出て、あっという間にお湯が沸く。まるで奇跡を見ているようだった。
この技術を赤い神の世界に持ち帰れたら、どんなにか皆が喜び、生活は便利になるだろう。
そう短絡的に考えて、それはいけないことなのだと気付く。
だから、もう向こうの世界には戻れないと言われたのだ。
この先の道は一方通行、赤い神の世界に戻ってくる道はないとロベリアに言われたはずだ。
メグが赤い神の世界のことを思い出して色々と頭を悩ませていると、
『どうぞ』
気がつけばメグの座るテーブルの手前に、日本茶が淹れられ、置かれていた。
春の桜の絵付けされた益子焼のピンク色の茶碗の中からは、香ばしい湯気がたっている。
メグは茶托から湯のみを両手で取り上げ、熱さを警戒してそろそろと口をつける。
熱い緑の液体はほんの少しだけほろ苦いが、メグは味わって喉を鳴らした。
「おいしぃ」
日本茶の渋みとうまみが、メグの胃袋にしみわたる。
お茶という飲み物は27管区にはなかったし、それどころかメグは基本渋い味のするものを飲んだことがない。
苦いもの、渋いものは毒だと誰もが思っていた。
それでも、どうしてこんなに美味しいと思うのだろう。
疑問に首を傾げ、彼女のアイデンティティが日本人そのものだからだと気付かされる。
メグの記憶にほどよい刺激となっていることを見越して、伊藤はもうひとつのとっておきを差し出す。
『それの次は、これです。さ、召し上がれ』
そこにすっと出されたのは、和菓子。
紅白の上用まんじゅうだ。
あえてのこのチョイスは、よくぞここまで快復し戻ってきたという、伊藤なりのメグに対しての祝いの気持ちである。
メグは食べ方の手本を見せる伊藤にならって、菓子切で一口ぶんを口に運んだ。
餡子の味も新鮮でありながら、ふわふわと優しくて、どこか懐かしい。一口食べれば食べるほど、紛れもなく自分は日本人なのだと、メグはそんな予感がしてきた。紅白の饅頭を、ぺろりと平らげた。
「おいしかったです……!」
メグは感動していた。
こんなに甘くて美味しいものが、この世にあっただなんて。と。
『ごちそうさまでした』
伊藤は両手を合わせて、なにやら唱えた。
メグも慌てて、手を合わせた。手を合わせるという習慣は、日本では大事なことだったような気がする。
「ごちそうさまでした」
メグも復唱する。手を合わせているうちに、彼女は思い出してきた。食事の前後の挨拶だ。
モンジャでも、他の国でもこういう習慣はない。
『テレビは……向こうの世界と同じ番組が見れますが、今日はやめておきましょうか』
初日の初日に、刺激が強すぎてはいけない。
そういう伊藤の配慮だった。
今日は遅くなる前に、ゆっくりと休むのがよいだろう。
『さて、お風呂に入ってもう今日は休みます?』
メグの社会復帰にあたっては、入浴の習慣も作法も、伊藤が教えなくてはいけなかった。
伊藤は赤井から、素民たちには感染症予防のため清潔の習慣を徹底させていたとは聞いていた。
具体的には、赤井はモンジャ集落のそば近くに温泉を掘って、公衆露天風呂を作って素民に開放していたようだ。
モンジャでは体や髪を洗う習慣などはもともとあるが、石鹸はなかった。
そこでボディソープやシャンプーなどの使い方を教えなければならない。
だが、これはさすがに、女神のアバターであっても一緒に入浴となるとセクハラになるのではないかと思いとどまった伊藤は、メグの入浴の付き添いをサポートA.I.に任せることにした。
伊藤がつっと視線を部屋の隅に向けると、ホログラフの女性型A.I.が現れた。
日本人女性のデザインで、スーツに似たタイトな制服を着て、エプロンをしている。
現実世界でも家庭用として使われているバージョンのA.I.だ。
伊藤はできるだけ、現実世界で普及しているものを調達した。
何なら、このA.I.を現実世界に持って帰れるように。
「こんばんは。はじめまして、この家のお手伝いをしているカンナです。よろしくね」
深く一礼をし、にっこりと微笑む優しげなホログラフを見たメグがまた固まった。
「わー……! カンナさん透けてる……!」
『お手伝いの、カンナさんです。私に聞けないことは、彼女に何でも尋ねるといいでしょう』
伊藤が補足する。
サポートA.I.カンナさんは一般家庭に人気のシリーズだ。
母親のような親しみやすさと、やわらかな物腰、きめ細かいサポートが人気の秘密だ。
『カンナさんはメグさんの入浴を手伝って。タオルと着替えは浴室に用意したから』
「はい。ではあなた、こっちにいらっしゃい」
「はーい。行って来ます伊藤さん」
『ごゆっくり』
伊藤がリビングで死後福祉局上層部に提出する運用報告書を作成しながら待っていると、湯上りにほかほかの湯気を纏い、シャンプーのよい香りをさせて、パジャマ姿のメグがバスルームから現れた。
入浴に一時間以上かかっていたが、これが現代式の入浴の初日だと考えると、あまり遅くはない時間だろう。
洗髪に時間を割いただろうし、ボタンをとめるのに時間がかかっただろうし、下着にも慣れなかっただろう。それでもなんとか、さまになっていた。
もう、誰がどう見ても、彼女を27管区の素民だとは思わない。
『どうでしたか、湯加減は』
伊藤は暫くの間、このリビングのソファで寝起きして彼女とひとつ屋根の下で暮らすつもりだ。
メグを家で孤独にしておきたくなかった。
無論、メグに追い出されれば従うが……メグは伊藤の顔を見ながら、もじもじとしている。
パジャマと下着の着心地に慣れないのだということは一目瞭然だった。
『服のサイズが合いませんでしたか?』
「え、いえ。とっても着心地がいいんです。柔らかくて、ふわっと包まれているようで、びっくりして。でも、着るのに大変でしたけど、カンナさんに教えてもらって」
それはブラジャーの付け心地のことだろう。
27管区では胸部に晒しのようなものを使ってとめていたはずだから。そう思ったが、伊藤は気付かない振りをした。
『それはよかった。服にはすぐ慣れますよ』
「はい……あっ」
メグは瞳を大きく見開いた。
伊藤が立ち上げているモバイルのホログラフに、メグの記憶の中に色濃く残る、とても親しい人物が映っていたからだ。伊藤は気づいて、首をかしげた。
『どうしました?』
「お姉ちゃん……?」
『え? あー……そうなんですか?』
そうだったのか。と、伊藤は驚きとともに静かに瞑目した。
そして伊藤の擬似脳の中で、多くの、断片的に起こっていた事態が繋がった。
メグが見たのは元 構築士補佐官で、今は自殺したとされる、西園 沙織なる人物の立体映像だった。
(くそ、やはりそうか。西園 沙織は東 沙織だったのか……)
伊藤は胸中で悪態をつく。
西園=東。
赤井の看破によってほぼ目星のついていたこととはいえ、確定的な証拠があがってくると伊藤もひるむ。
それに、この現代社会において、相手に気づかれず偽名を名乗ることは並大抵の難易度ではない。
個体内に記載されているパーソナルデータプリセットを、書き換えなければならないからだ。
その情報の登録と書き換えは、政府にしかできないとされている。
(そうとなれば)
すうっと閉じたまぶたの裏に、伊藤は意識を集中させる。
念操作で官公庁職員データベースにアクセス。東 沙織をソート。
ほどなく、東 沙織はヒットした。
そしてその個人情報には、アクセス不可。
パスコードを解除しても閲覧できる情報は限られていた。
冴島にも西園の正体を洗わせていたが、このパターンの表示がでる職員を、伊藤は知らなかった。
(もしかして、内調か?)
もしそうだとすると、沙織は死亡したのではない。
伊藤も内調の流儀は知っている。
ただのクローンの乗り換え、必要のなくなったそれを処分しただけだ。
内調の人間は、実体を持たないファントムだ。
構築士がアバターを乗り換えるように。
それを現実世界でやるから、心底タチが悪い。
メグの姉も、例外ではなかったわけだ。
(東 沙織は危険な案件に首をつっこんでいたのか? まさかメグはそれに巻き込まれて……アガルタ送りに……)
伊藤は文字通り頭を抱えた。
そんな伊藤の気も知らず、メグは上機嫌だ。
伊藤がそんな画像を見ているということは、いよいよ姉に会える日も近づいているのだと思ったからだ。
そして、伊藤からみて対面のソファでごろごろとしていた。
「あーこの椅子、どうしてこんなに気持ちがいいんでしょう」
メグはソファのすわり心地が気に入ったようだ。
背中が溶けると言ってはしゃいでいた。一方の伊藤は先ほどの件に頭を悩ませながら、インフォメーションボードを何窓にもして30管区の運営も同時にこなしている。
時計は23時をまわっていた。
メグは日本茶を気に入って、何杯か嗜んでいた。
伊藤に教わって、自分で淹れられるようにもなった。
カンナさんに手伝ってもらって、歯磨きも終えた。
そして、日本を訪れた外国人よろしく、トイレの使い勝手のよさに感動していた。
「伊藤さん、眠たくなってきました」
『はい? そろそろ寝ますか?』
伊藤はデジタル書類から目をあげる。
「はい、もう寝ます。そういえばこの世界の時間の流れと、赤い神様のいた世界の時間の流れの速さ、同じです?」
『今は赤い神様の世界に時間を合わせていますが、こちらは、だんだんと地球の時間に合わせてゆきます。同期といいますけれどね。赤井さん……いえ、赤い神様の世界は、徐々に加速されていきます』
管区間ゲートを開くには、管区再生速度の時間同期の問題が常につきまとう。
うまく同期をしないと、その時そのポイントであえない。
すれ違うという事態が発生する。
いま、伊藤はまだ27管区時間との同期を解いていない。というのも、メグに不調が起こり、27管区に戻さなければいけない事態が発生するかもしれないからだ。
彼女の経過が順調であれば、徐々に減速して27管区との同期を解き、現実世界時間との同期体制に入る。今は、様子見だ。
「じゃあ、向こうではまだ、私が去った直後ってことですね」
『そういうことです』
「どうしているかなぁ……皆。もう会えないだなんて……」
小声で呟いたその一言を、伊藤は聞き逃さなかった。
『ああそれと、どうしても心細くなったら』
伊藤は人差し指を立ててくすりと微笑んだ。
『あなたから通信する場合に限り、赤い神様と話してもいいです。そのモバイルに、連絡先は入っています』
「えっ!?」
メグは耳を疑った。立体投影して、連絡先を確認する。
あった。
27管区主神・赤井とあった。
よく見ると28管区主神・白椋、29管区主神・蒼雲の連絡先まである。
『あなたが辛くなったら、元も子もないですからね。気分転換に、どうぞ』
リラックスして、現実世界のことを思い出してもらう、あなたのためのプライベート空間です、そのために造りました。
伊藤はそう言ってメグを安心させる。
敏腕構築士であった彼は実質、加速構築を使いながらたった一人、メグのために数百億年をかけて30管区世界を創造したのだ。
その、想像を絶する苦労と経緯は彼女には一切説明をしない。
この管区が誕生したのは、まさに伊藤の勤勉さとド根性精神のたまものである。
『もっとも、私を頼りにしてくださるなら私も張り切りますが、過去の絆もあるでしょうから』
そう言われてメグはすぐに連絡を取りたい、声を聞きたいと思ったが、今日はやめよう、と首を振った。この世界に来てまだ一日も経っていないのに会いたいなどと言うと、何があったのかと心配されるか、笑われてしまう。
「もしかして、向こうの世界に戻っても、赤い神様と連絡がとれますか?」
『ええ……そうですね。その場合は、日本国民に対する公務員の行政サービスとなるだけですが。最大限善処はします』
「赤い神様に、私の家族や皆がどうなったのかを教えてもらうこともできますか?」
『赤い神様次第ですね』
そのあたりを断定できないのは死後福祉局が、どう考えるかということにかかっている。
だが、完全にダメだとは言えないだろうし、伊藤も上層部には働きかける。
彼の妻である冴島 彩奈アガルタ戦略的構築室 室長の局長への進言も影響するだろう。
大事な患者の希望を無視することはできまい。
伊藤はしかし、それから先のことは言い出せなかった。
メグが現実世界に戻る頃に、メグの27管区の家族は生きているだろうか。
管区再生時間の加速度にもよるが……いつかは必ず、別れが来る。
死別という別れが。
それはむしろ、その別れが曖昧ではなくなるという意味において、より残酷なことなのかもしれなかった。
「……」
しかしそんなこととは知らないメグは嬉しかった。
嬉しくてたまらなくて、こらえていた寂しさや苦しさが一気に解き放たれて、ぼろぼろと零れる涙でぐちゃぐちゃになる顔を隠しながら、逃げるように廊下に出た。
リビングのドアに背中を預けて、赤い神がこのことを知っていて、メグを心置きなく……ではないかもしれないが、送り出したのだという事実を噛み締めた。
カンナさんが、メグを慰めるべきか迷って遠巻きに見ていた。
(世界はこれからも繋がっているんだ……断絶されたわけではなくて)
メグはそう思うと、少しだけ、前向きになれた気がした。
明日も頑張ろう、そう思った。




