一年だけの契約結婚のはずが、旦那さまが毎月、契約書に一行ずつ書き足してきます
契約結婚と、毎月ふえていく一行のお話です。
契約書は、たった一枚だった。
一、婚姻の期間は一年とする。
二、寝室は別とする。
三、互いの生活に干渉しない。
四、一年後、侯爵家はミレイユの実家の借財をすべて肩代わりしたうえで、円満に離縁する。
署名欄には、ラウル・ヴェルナー侯爵の、まっすぐな字。その下に、わたし、ミレイユ・ノワールの、少しふるえた字。
「質問は」
侯爵さまは、それだけ言った。
「ありません」
わたしも、それだけ答えた。
実家の子爵家には、父がこしらえた借金がある。社交界で「いちばん無口で、いちばん怖い」と言われる侯爵さまが、なぜわたしなどに契約結婚を持ちかけたのかは分からない。分からないけれど、断る理由もなかった。
一年。干渉しない。それなら、なんとかなる。
*
ひと月目の終わり。
朝、わたしの部屋の机に、あの契約書が置いてあった。
四の下に、一行ふえていた。
五、朝食は、同じ卓でとる。
「……干渉、では」
食堂で聞くと、侯爵さまはパンをちぎりながら答えた。
「食事は生活ではない」
「生活だと思います」
「では、生活の例外とする」
それ以上は、何も言わなかった。
次の日から、朝食は同じ卓になった。会話はない。ただ、わたしがジャムを取ろうとすると、先に瓶がこちらへ寄せられている。三日目に気づいた。侯爵さまは、自分の分のジャムを一度も使っていない。
*
ふた月目の終わり。
六、雨の日の外出には、馬車を使うこと。
その月、わたしは雨の中を歩いて実家へ帰り、ずぶぬれで戻ってきたのだった。
「わたし、歩くのが好きなんです」
「知っている」
「では、なぜ」
「雨は、好きではないだろう」
……たしかに、好きではない。言ったおぼえはないけれど。
*
三月目。
七、互いを、名で呼ぶ。
これはさすがに、困った。
「侯爵さま、これは」
「ラウルだ」
「……ラウルさま」
「さま、は契約にない」
「書いてもいません」
「では書き足す」
本当に、次の朝には書き足してあった。七の横に、小さく。
(敬称はつけない)
わたしは、契約書を前にしばらく笑ってしまった。この人は、言葉で言えないことを、ぜんぶ紙に書くのだ。
*
四月目は、「庭の東側をミレイユの好きにしてよい」。
五月目は、「熱を出したときは、相手に知らせること」。これは、わたしが黙って寝こんでいたせい。
六月目は、「書斎の窓辺の椅子は、ミレイユのものとする」。わたしがいつもそこで本を読んでいたら、ある日、椅子に新しいクッションがのっていた。
七月目、八月目、九月目。
契約書は、一枚では足りなくなって、二枚目に入った。
干渉しない、という三は、まだ残っている。残っているのに、その下の行がぜんぶ、干渉だった。
*
十一月目の終わりに、わたしは自分から書斎をたずねた。
「ラウル。聞いてもいいですか」
「ああ」
「どうして、わたしだったんですか。契約結婚の相手」
ラウルは、ペンを置いた。長いこと黙っていた。わたしは、窓辺の自分の椅子に座って待った。この人の沈黙には、もう慣れていた。
「……五年前の、王宮の夜会で」
「はい」
「庭の噴水のそばで、泣いている子どもがいた。迷子だった。おまえは、自分のドレスが濡れるのもかまわずにしゃがんで、その子の靴ひもを結び直していた」
おぼえていない。たぶん、そういうことは何度もあったから。
「それで、わたしを?」
「それで、名前を調べた。調べたが、声をかける言葉がなかった。五年かかって、ようやく思いついたのが、あの契約書だった」
ラウルは、そこで目をそらした。
「我ながら、ひどい求婚だと思っている」
*
十二月目の朝。
契約書は、いつもの机の上にあった。
最後の行は、こうだった。
十六、第一条を、削除する。
一年とする、の上に、まっすぐな線が一本、引いてあった。
署名欄には、ラウルの字。その下の欄は、空いていた。
わたしは、ペンをとった。
署名をする前に、いちばん下に、一行だけ書き足した。
十七、三も、削除する。
干渉しない、の上に、わたしの、もうふるえていない字で、線を一本。
朝食の卓で、ラウルは契約書を見て、しばらく動かなかった。
それから、わたしのほうへ、ジャムの瓶を寄せた。
「……今日は、ラウルも使ってください」
「ああ」
その朝、ラウルははじめて、自分のパンにジャムをぬった。
干渉しない夫婦は、その日でおしまいになった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
一年だけの契約結婚のはずが、無口な旦那さまが、言葉のかわりに毎月一行ずつ契約書に書き足していくお話でした。ジャムの瓶は、最初から最後まで、ずっと同じ場所にありました。
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