山に近づく影
静けさの中で、影だけが増えていく。
深夜の果樹園に、異様な気配が忍び寄っていた。
俺は武道場を営みながら、小さな果樹園を守っていた。静かな生活だった。木々の葉が風に揺れる音だけが、夜の帳を優しく満たすような日々。
だが、その平和は、ある深夜、音もなく崩れ去った。果樹園の奥から、微かな足音が聞こえた。
窺うように動く影が三つ。手にした長物が、月明かりに鈍く光る。侵入者は三人。俺は無意識に、壁に立てかけた櫂型の木刀を握りしめた。
素振りで幾度も振り下ろしてきた、あの馴染みの重み。そっと外へ出る。冷たい夜気が肌を刺した。
「何をしているんだ」
低く、威圧的に声を放つ。男たちの手が止まった。持っていたのは、鉈だった。刃が闇に冷たく輝く。距離を詰めてくる一人に、俺は反射的に動いた。
得意技の片手半面打ちが、無意識に繰り出される。木刀が男の側頭部を捉え、鈍い音を立てて男はその場に崩れ落ちた。
残る二人も、同じように長物を構える。一人が斬りつけてくるのを、俺は木刀で軽く払いのけ、そのまま真横へ。頭部に叩き込む。
続けざまに、もう一人の脳天を割り砕いた。数秒後、俺はわれに返った。たぎっていた血が、一瞬で冷めていく感覚。冷静に、それを感じていた。
三人の体が、静かに横たわっている。警察に通報し、間もなくパトカーが到着した。俺は連行された。――法廷で、判決が言い渡された。
「被告人の行為は、深夜に鉈を所持した複数名の侵入者に対する防衛行為であり、防衛の必要性は極めて高かった。
しかし、結果として三名を死亡させた点は重大であり、防衛行為としては行き過ぎが認められる。
よって、過剰防衛として傷害致死罪の成立を認め、被告人を懲役三年に処する。ただし、被告人は自ら通報し、隠蔽の意思はなく、
深い反省を示しており、社会的基盤も安定していることから、刑の執行を五年間猶予する」
こうして、俺は住処を山へ移した。武道は山でもできる。山であれば、獣に多少食われようとも、人間のように果実を根こそぎ奪う者はいない。
そう信じて、山での生活が三年ほど過ぎた頃だった。台風の気配が空を覆う午後、俺は一人の男を見つけた。血だらけで、泥にまみれて倒れている。
猪にでも襲われたのかと思い、俺は男を家へ運んで横たえた。男は目を覚ました。山から滑落したという。
だが、この辺りにそんな急な場所があっただろうか。考えを巡らせていると、男が弱々しく口を開いた。
「リュックの中身を…妹に届けてくれ。俺はもう、助からない」
外は台風が近づいていた。山の天気は不安定で、いつ降りられるかもわからない。小屋の中で、ぽつり、ぽつりと男が語り始めた。
「俺は、闇バイトに関わったんだ。仲間は五人。指示役の男とも何度も仕事をしてきて、信用されて…大きな仕事をすることになった。
一人暮らしの老人の家に、十億相当のゴールドがある。そう聞かされて、興奮したね。俺の取り分は一億だっていうからさ。
家に押し入って、老人を…殺した。ゴールドのありかを口にしないもんだから、軽く痛めつけたら、死んじまった。そこからが大変だった。
必死に探して、やっと見つけた。どこにあったと思う?トイレの貯水槽の中だよ。仲間に水道屋がいて、水量の少なさを疑って中をあけたら、
そこにあったのさ。俺たちは本当についてると思った。この山に着くまで、本当にそう思ってた」
男の声は、次第に掠れていく。
「山に着いた俺たちを待っていたのは、深く掘られた穴だよ。待ち構えていたやつらに、一人一人落とされていく。刃物を突き立てられてな。
どうせ死ぬなら…俺は覚悟を決めて殴りかかった。こう見えても、自衛隊にいた時期があったんだ。奪い取ったスコップで皆殺しにしてやった。
無傷とはいかなかった。何ヶ所か刺されてよ。それが、あんたが間違えた猪に襲われたという傷だ。だから、もう助からない。俺が一番知ってる」
男は俺の目を見た。
「なぁ、頼むから。あのリュックのゴールドの半分を妹に持ってってくれ。そして、その半分をあんたにくれてやる。
そのうちいくらでもいいから、どこかに寄付してくれ」
俺は頷いた。
「わかった。とにかく、今はゴールドはここに置いて、あんたを下山させる」
男が乾いた笑い声を上げた。
「あはは、無理さ。あぁ、馬鹿な人生だった。もっと全うに生きればよかった」
「全うに生きても、いいことばかりじゃないさ。俺も人殺しだ」
「はは、何だかあんたには似た臭いがすると思ってたんだが、人殺しの匂いだったとは、お笑いだ」
「まぁな。とにかく山を下りるぞ」
「あんたとだったら、うまくやっていけそうだってのに、こんな死に際に会うとはついてねぇや」
ぬかるんだ悪路を、俺は男を背負って必死に駆け下りた。雨が顔を叩き、足元が滑る。
六時間ほど過ぎたとき、雨は止み、山の下に町の灯りが見え始めた。
「おい。町が見えたぞ」
「本当だ。あんた、まさか一人で俺をここまで…?」
「俺たちは相棒なんだろ。もう少しだ、相棒」
「なんてこった。俺としたことが、相棒に全部話しちまったな」
「気にするなって」
「いや、俺が気にするんだ」
「うん?」
次の瞬間、男の腕が俺の喉に食い込んだ。怪我人とは思えない力だ。
「ごめんよ。知られたからには、死んで貰う。すぐに楽にしてやるからな」
俺は横に立つ木を目指して、背中の男を押しつけた。
ぎゃぁ、と短い悲鳴が聞こえた。男の口から、どっと血があふれる。見れば、怪我人の男の胸に、鋭い枝が突き抜けていた。
「おい――」
呼びかけに、返事はなかった。男は静かに、闇に沈んでいった。
雨上がりの山道に、血の匂いだけが残った。町の灯りが、遠くで揺れている。山は、静かに俺を見守っていた。
人間のように、果実を根こそぎ奪う者はいない、と信じていた場所が。
だが、今夜もまた、何かが、静かに近づいてくる気配がした――
読んで頂き有り難う御座います。




