シーン9:小さな伏線
扉が閉じてから、十数拍。
音楽は再び流れ、
人々の視線は舞踏へ戻りつつあった。
その隙間を縫うように、
ひとりの男が宰相へ近づく。
書記官長バルク。
几帳面に整えられた髭。
常に書類の重みを背負っている男。
彼は礼もそこそこに、
フェルナーの耳元へ身を寄せる。
「……宰相閣下」
声は低い。
「来季予算の最終承認印ですが……」
一瞬、音楽が遠のいたように感じる。
「……あの方しか、管理しておりません」
言外の名は、言わない。
言う必要がない。
フェルナーの瞳が、わずかに細くなる。
最終承認印。
それは形式ではない。
それが押されなければ、
辺境支援も、
結界更新も、
備蓄再配分も、
債権整理も――
動かない。
動けない。
すべては整っている。
だが最後の一点だけが、空白。
その空白を、今しがた自ら追い出した。
宰相は何も言わない。
顔色も変えない。
だが脳裏に、冷たい計算が走る。
再発行には時間がかかる。
手続きが必要だ。
誰が代理権を持つのか。
そもそも、なぜあの令嬢が管理していたのか。
問いは多い。
答えは、今この場にはない。
バルクはそれ以上言わず、
一歩下がる。
役目は果たした。
王太子は、遠くで笑っている。
新たな相手に何かを語り、
軽やかにグラスを掲げる。
耳打ちの存在を、知らない。
知らないまま、夜は進む。
宰相はゆっくりと視線を巡らせる。
さきほどまで、広間を横切っていた後ろ姿。
もう、ない。
小さな綻び。
まだ誰も気づかない。
だが制度は、完璧に作動したはずだった。
はず、だった。
音楽は優雅に続く。
だがフェルナーの耳には、
今や別の音が重なっていた。
印が押されぬ紙束が、
静かに積み上がる音。
それは、まだ誰にも聞こえない。




