シーン8:儀式の終了
レティシアは、もう一度だけ一礼した。
深すぎず、浅すぎず。
完璧に整えられた角度。
それが、この夜の最後の仕事のようだった。
顔を上げると、視線が一瞬だけ交差する。
王太子はまっすぐ立っている。
聖女は祈るように目を伏せている。
宰相は無表情を保っている。
誰も、呼び止めない。
彼女は背を向ける。
ドレスの裾が、石床の上を静かに揺れた。
引きずる音はほとんどしない。
それでも、やけに耳に残る。
長い広間を歩く。
左右に並ぶ貴族たちの間を。
道は自然に開く。
誰かが避け、誰かが視線を落とす。
悪意はない。
慰めもない。
ただ、通路ができる。
それは、処理が終わった証。
扉が開かれる。
外の空気が流れ込む。
少し冷たい。
湿り気を含んだ夜気。
彼女の姿が、闇のほうへと溶けていく。
扉が閉じる。
その瞬間、ほんのわずかな間があった。
誰かが何かを言うべきだったような。
何かを考えるべきだったような。
だが、その間は長く続かない。
指揮者が小さく合図を送る。
音楽が再開する。
弦が鳴り、管が重なり、
夜会は何事もなかったかのように動き出す。
グラスが触れ合う。
笑い声が戻る。
「では、来季の収穫量ですが――」
「辺境の治安はどうなりますかな」
会話はすぐに実務へ戻る。
王太子は新たな相手と踊り始める。
聖女は穏やかに微笑む。
宰相はすでに別の貴族と低く話している。
儀式は終わった。
秩序は保たれた。
湿った国は、波風を嫌う。
衝突よりも、静かな整理を選ぶ。
だからこの夜も、乱れは起きない。
ただ一つ、目に見えないものが抜け落ちた。
それを確認する者はいない。
帳簿も、議事録も、
この瞬間を“成功”と記すだろう。
王国は今日も、穏やかだ。
そしてその穏やかさの中で、
ひとつの均衡が、音もなく外れた。




