シーン6:静かな違和感
夜会が再開されても、音楽はどこか遠かった。
弦は正確に鳴っている。
だが、人々の耳は別のところにある。
レティシアが手放すものは、婚約だけではない。
辺境支援予算調整表。
それは一枚の紙ではない。
干ばつ傾向の村を三つ救うために、
中央騎士団の装備更新費を半年遅らせる判断。
誰にも気づかれない“入れ替え”。
魔力結界更新計画。
王都を囲む結界は、
老朽化している。
全面改修は高すぎる。
だから彼女は、劣化の早い区画だけを
段階的に補強する案をまとめた。
魔導士たちは、ただ「効率がいい」と思っていた。
穀物備蓄再配分案。
北部の余剰を南部へ。
輸送費は増える。
だが、飢えは出ない。
帳簿上は小さな調整。
実際は、冬を越す命の数。
貴族間債権整理案。
旧来派と改革派。
互いに貸し借りを抱えたまま、
表面上は笑っている。
彼女はそれを一本の表にまとめ、
誰が誰にどれだけ譲れば
衝突が起きないかを割り出していた。
誰もそれを“政治”とは呼ばない。
ただ「うまく回っている」と思っていた。
全部、彼女が裏で回していた。
けれど公式な肩書きは、
王太子妃候補。
役職ではない。
権限も曖昧。
決裁権も持たない。
だから記録にも残らない。
功績は存在しない。
帳簿に署名はない。
調整の痕跡も、形式上は宰相名義。
彼女はただ“助言”しただけ。
その助言がなければ
数字は揃わなかったとしても。
広間の隅で、書記官長バルクが小さく呟く。
「辺境補助金の再配分……」
隣の役人が首を傾げる。
「何か問題が?」
「……いえ」
問題は、まだ起きていない。
だから誰も困らない。
ただ、違和感だけが残る。
宰相フェルナーはグラスを持つ手を止めている。
来季予算案は、まだ承認前。
最終調整済みの統合版は、彼女の手元にある。
理論上は引き継げる。
だが――
細部の意図まで再現できるか。
なぜこの数字なのか。
なぜこの順番なのか。
なぜここを削らなかったのか。
それを説明できる人間は、もういない。
音楽は続く。
会話も戻る。
笑い声も、形だけは戻る。
だが空気の底に、わずかな空洞が生まれている。
王太子はまだそれを知らない。
聖女も知らない。
多くの貴族も知らない。
ただ、何人かが気づき始めている。
断罪は成功した。
儀式は滞りなく終わった。
それでも。
何かを、正確に数え忘れた気がする。
そしてその“何か”は、
数字にならないまま、
静かに王国から抜け落ちていった。




