シーン5:返答
王太子の宣言が終わる。
音楽は止まったままだ。
沈黙が広間を満たしている。
重いが、破裂はしない。
ただ、次の動作を待っている沈黙。
レティシアはゆっくりと一歩進み出た。
ドレスの裾が石床を擦る音が、やけに小さく響く。
視線が集まる。
好奇、安堵、警戒、無関心。
さまざまな温度が、彼女の上を通り過ぎる。
彼女は王太子の前で止まり、
完璧な角度で一礼した。
動きに乱れはない。
声も揺れない。
「承知いたしました。」
短い言葉。
抗弁はしない。
弁明もしない。
涙もない。
それが、かえって空気を薄くする。
そして続ける。
「では来季予算案は、宰相閣下へお渡しいたします」
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
時間が止まった。
王太子アルドリックの呼吸が、わずかに詰まる。
「……予算案?」
問いは声にならない。
彼は理解が追いつかず、
ほんの一拍、目を瞬かせる。
宰相フェルナーの顔色が変わる。
血の気が引いたわけではない。
計算が走ったのだ。
来季予算案。
最終調整済みの統合版は、まだ王家に正式提出されていない。
貴族間債権整理表。
結界更新費用の再配分案。
辺境補助金の削減回避案。
すべて、彼女の手元にある。
書記官長が小さく息を呑む。
数名の上級貴族が、無意識に目を逸らす。
それが何を意味するのか、
正確に理解したわけではない。
だが本能が告げる。
――何かを手放したのではないか。
広間のあちこちで、囁きが生まれかけて、消える。
「予算案……?」
「まだ承認前では……」
「最終案は、公爵令嬢が……」
拍手は起きない。
歓声もない。
断罪の余韻は、わずかに形を変える。
“処理”だったはずの儀式に、
現実の重さが差し込む。
王太子は姿勢を崩さない。
だが、その視線の奥に、初めて迷いが走る。
彼は今、婚約を破棄した。
それは間違いない。
だが同時に何を失ったのか――
まだ、正確には理解していない。
レティシアは視線を宰相へ向ける。
「明朝、正式書式でお届けいたします」
淡々とした確認。
まるで、通常業務の連絡のように。
その自然さが、余計に重い。
観衆はこの瞬間、かすかに気づきかける。
これは恋の破綻ではない。
政略の終焉でもない。
もっと具体的で、もっと現実的な――
国の機能の話だ。
誰も声に出さない。
だが、空気がわずかに変わった。
断罪は終わったはずだった。
けれどこの一言で、
物語は静かに別の方向へ傾き始めた。




