シーン2:空気の醸成
夜会の数日前から、王城の廊下はよく響いた。
石造りの壁は、声を吸い込むようでいて、
実のところ、よく通す。
はっきりした非難はなかった。
ただ、ささやきがあった。
「……レティシア様、聖女様に少し冷たいそうよ」
声の主は侍女。
聞き手は別の侍女。
話題はすぐに別のものへ移る。
冷たい、というのがどういう意味か、
誰も具体的には言わない。
挨拶が短いとか。
視線が淡白だとか。
祈りの場に長くいないとか。
どれも、事実といえば事実。
けれど、そこに悪意は見えない。
ただ、温度が少し低いだけだ。
それが“違和感”として残る。
別の場所では、貴族たちがグラスを傾けながら言う。
「公爵家は財務権を握りすぎている」
「来季予算の調整も、ほとんどあの令嬢の案だとか」
「王家の決裁は、形式だけだ」
声は低い。
怒りではない。
不満とも言い切れない。
ただ、面白くない。
誰かが力を持ちすぎると、
湿った国ではそれだけで警戒になる。
事実かどうかは、あまり重要ではない。
“そう見える”ことのほうが強い。
さらに別の場では、若い貴族が囁く。
「最近、王太子殿下は発言が少ないな」
「公爵令嬢に任せきりだそうだ」
「軽んじられているのでは?」
軽んじられている。
その言葉は、少しだけ刺激があった。
忠誠心をくすぐる。
王家を思う気持ちを、ほんの少しだけ熱くする。
しかしその熱も、すぐに冷える。
誰も声を荒らげない。
誰も告発しない。
ただ、頷きが増える。
証拠はない。
決定的な事件もない。
だが違和感だけが、積み重なる。
まるで湿気のように。
一滴では何も変わらない。
だが、乾かない。
書類の角がわずかに波打つように、
人々の認識も、わずかに歪む。
レティシアは相変わらず淡々としていた。
聖女に無礼はしない。
王太子の顔を立てる。
予算案は整然とまとめる。
それでも。
「少し、冷たい」
その評価だけが残る。
湿った国では、
明確な悪意よりも“空気”が強い。
誰が始めたわけでもない。
誰が望んだわけでもない。
ただ、少しずつ。
まるで雨上がりの霧のように。
見えないまま、広がっていった。




