シーン5:雨量計算の外側
その日は、霧ではなかった。
空は朝から重く、低く垂れ込めていた。
昼前。
雨脚が変わる。
細い糸のような霧雨ではない。
叩きつける水。
屋根を打ち、石畳を洗い、視界を奪う。
「川が上がっている!」
誰かが叫ぶ。
辺境の川は普段おとなしい。
だが連日の降雨で地面は飽和していた。
濁流が土手を削る。
倉庫街が近い。
人々はざわめく。
不安が広がる。
だが――混乱は起きない。
排水溝が機能する。
水は道を知っている。
数か月前に掘り直された溝。
わずかに角度を変えられた流路。
水は溜まらず、逃げる。
倉庫の荷は高い棚へ。
配置は事前に整理されている。
通路は確保済み。
運搬経路は重ならない。
誰がどこへ動くか、暗黙に決まっている。
ガルドが詰所前で声を出す。
「第一倉庫、北側を固めろ」
声は大きくない。
だが通る。
人員は散らばらない。
最小の動きで、最大の防御。
パン屋の窓から、レティシアは川を見る。
水位。
流速。
風向き。
計算はすでに終わっている。
雨量と地形。
土壌の保水限界。
簡易排水の流量。
余剰は、許容範囲内。
やがて。
水は土手すれすれで止まる。
一部の畑は浸かる。
だが家屋は無事。
倉庫も守られる。
夜。
雨は弱まる。
被害は最小限。
怪我人はゼロ。
翌朝。
町は静かに片付けを始める。
泥を流し、板を乾かし、薪を組み直す。
ガルドが店の前に立つ。
濡れた鎧から水が落ちる。
「……準備していたのか」
短い問い。
責める声ではない。
ただ、確認。
レティシアは扉を開ける。
店内には、いつも通りの香り。
「ただ、無駄を減らしただけです」
彼女は淡々と言う。
特別な防災計画はない。
奇跡の魔術もない。
水が滞らぬよう、道を整えただけ。
物が混乱せぬよう、配置を整えただけ。
人が迷わぬよう、役割を整えただけ。
無駄がなければ、余裕が生まれる。
余裕があれば、災害は暴れない。
ガルドはしばらく彼女を見る。
やがて、視線を川へ戻す。
「……そうか」
それだけ。
煙突から、まっすぐ煙が上がる。
雨上がりの空へ。
霧雨の町は、壊れなかった。
守ったのは力ではない。
整え続けた日常。
吸って。
吐いて。
滞らない呼吸。
それが、この町の強さだった。




