シーン2:積み重なる微差(断罪から一か月後)
崩壊は、音を立てない。
それは、帳簿の端から始まる。
● 穀物備蓄の誤計算
王都西側、中央備蓄倉庫。
石造りの倉庫に積まれた麻袋。
穀物の匂いが、湿った空気に混じる。
帳簿係が眉をひそめる。
「……合わない」
帳簿上の総量と、実数。
不足ではない。
むしろ、わずかに多い。
だが問題はそこではない。
余剰分をどこへ回すのか。
不足地域へどの順で補填するのか。
その判断基準が、ない。
「再配分案はどこだ?」
倉庫長が問う。
沈黙。
若い書記が資料棚を探す。
年度別報告書。
公式調整書。
緊急時指針。
どこにもない。
「……例年の調整表は?」
さらに沈黙。
やがて誰かが思い出す。
「あれは……正式な書式ではなかったはずです」
薄い紙束。
端に小さく、数字だけが並んだ一覧。
倉庫間の移動量。
輸送日数の補正。
気候変動の係数。
余白に細かい注釈。
署名も押印もない。
あれは、公式文書ではなかった。
彼女の内部メモだった。
誰も命じていない。
誰も依頼していない。
だが毎年、それに従えば、過不足は出なかった。
今年、その紙は存在しない。
倉庫長は決断する。
「とりあえず、昨年と同じ比率で」
“とりあえず”。
その一言が、制度の質を変える。
● 魔力供給の偏り
同時期。
地方の魔導塔から報告が上がる。
「供給量が不安定です」
王都優先。
それが基本方針。
だが、記録を精査すると奇妙なことに気づく。
一部の貴族領に、想定以上の魔力が流れている。
過剰、と言っていい。
その分、他地域が微妙に圧迫される。
危機ではない。
だが均一ではない。
「調整ログを確認しろ」
中央塔の管理官が命じる。
魔力の流れは必ず記録される。
増減があれば、その理由も。
だが。
ログは“正常”。
数値は正しい。
命令も出ていない。
調整記録もない。
正確には――
調整の痕跡が見えない。
以前は、あった。
細かい増減。
前日との差分。
季節係数。
祭礼による消費増加。
自然に均されていた。
誰かが、どこかで、
見えない微修正をかけていた。
今は、ない。
流れは命令通り。
だからこそ偏る。
管理官は報告書に記す。
「原因不明の軽微な偏在」
軽微。
その言葉が並ぶ。
だが現場の感覚は違う。
以前は、水が流れるようだった。
今は、水路の角に泥が溜まる。
まだ詰まらない。
だが、澱み始めている。
王都はまだ平穏だ。
市場は開き、
舞踏会は続き、
王太子は公務をこなす。
だが。
制度の“滑らかさ”が失われていく。
誰も叫ばない。
誰も断罪しない。
ただ微差が積み重なる。
彼女の名は、議事録にない。
だが不在は、
確実に数字の中へ染み込んでいた。




