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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

《想器の星エスプレア》灰色の少女が銀色の希望を握るまで

作者: しなとべあ
掲載日:2026/01/30

(おなかが、へった)


 夕暮れの街角を、一人の少女がふらつきながら歩いていた。

 靴はなく裸足で傷だらけで、服はぼろ切れのよう。

 汚れた長い髪が肌に張り付き、同じ灰色に汚れた狐耳と尻尾が力なく揺れる。

 満足に食べられない日々が続き、身体はやせ細っていた。

 もう少し痩せれば、動くことさえ難しくなるだろう。


 街を歩く獣人たちから、蔑むような視線を投げられる。

 聞こえるように「狐が、いい気味だ」と吐き捨てる声すらあった。


 いつもの事だ。

 暴力を振るわれないだけ、今日はまだマシな日かもしれない。

 小さな少女にとっては、この街はとても生き辛い場所だ。


(……山が、越えられたら)


 街中からも見える、天を突くような山を見上げる。

 この国から逃れるには、あの険しい山を越えなければいけない。

 だが山越えは、強靭な獣人であっても自殺行為と言われるほど過酷だ。

 まして、やせ細り弱り切った少女一人では不可能だった。


 ――もっと早く決断していれば。

 雪山の民と呼ばれた雪狐族の自分なら可能性はあったのに。

 そんな後悔が、彼女の心をじわりと蝕んでいく。


 もう、どうしようもない。

 もう、どうでもいい。

 そんな想いが胸に溢れる。


 ふと、乾いた鼻が匂いを拾う。

 酒場だ。

 この辺りで、彼女でも食事にありつける唯一の場所。

 多少ぼったくられ、悪態をつかれても、金さえ払えば食べ物が出てくる。


 少女は懐のボロボロの革袋に手を入れる。

 指先に触れるのは、一枚の銅貨。

 全財産。

 とっておきの最後の一枚。

 握り締め、せめて最後ぐらいまともなものを口に入れたいと、酒場の入り口をくぐる。


 喧騒が体を包み込む。

 陽気に騒ぐ様々な獣人たち。

 鼠や栗鼠などの獣人が笑い、猫や犬の獣人は肩身が狭そうに目を逸らしている。

 そこへ襤褸切れの雪狐の子供が入ってきた途端、視線が一斉に刺さった。

 蔑み、憐れみ、そして“あれよりはマシだ”という安堵。


 給仕の羊獣人の女性が、露骨に嫌そうな顔で少女を酒場の隅へと連れていく。

 人目につきにくい、薄暗い席。見たくない意図が透けるが、視線が和らぐのは少女にとっても助かった。


 握り締めすぎて少し生暖かい銅貨を差し出す。


「……これで、食べれるものを」


 銅貨を見て、給仕の女性の表情がわずかに和らぐ。

 金を払うのであれば客、ということだろう。

 銅貨を受け取った女性は厨房に向かう。


 緊張で固まっていた身体から、少し力が抜けた。

 もし食事にすらありつけなければ、惨めにも程がある。

 テーブルに突っ伏したい誘惑にかられるが、汚れた体でそんなことをすれば叩き出される。

 叩き出されるにしても――せめて食べ終えてからだ。

 その想いが少女を踏みとどまらせた。


 しばらくして、食事が運ばれてきた。

 具の少ないスープと、硬くて噛み切れそうにない黒パン。

 乱雑に置かれると思ったが、女性は音を立てずに並べた。給仕としての矜持だろうか。


 酒場で一番安いメニューで、具も明らかに少ない。

 それでも、少女にとってはごちそうだった。隅の席で、噛み締めるように味わう。

 乾き切った喉と空っぽの体に、温かなスープが染みわたる。久しく忘れていた温もりに、目が滲んだ。


 黒パンをスープに浸し、かぶりつく。

 体力のない顎では噛みちぎれず、ふやけた表面を齧り取るだけだ。それでも広がる風味に、涙がこぼれた。


 これが最後。

 そう思いながら食べていると、誰かが入ってきた気配がした。

 それだけで、酒場の空気がざわめく。

 

(何が、来たの?)


 少女は身を乗り出し、入り口を覗き込む。


 ――大きい。


 一瞬、大柄で有名な熊獣人かと思う程の巨体。

 厳つい顔に、鍛え上げられた肉体を、色あせた革鎧が包んでいる。

 獣人ばかりのこの国で、滅多に見ない器人きじんの男だった。


 少女を嫌そうな目で見た給仕の女性でさえ、大男がまとう圧には表情を取り繕うしかなかった。

 せめてもの抵抗か、男は酒場の隅に案内される。

 柱の陰の席、少女のすぐ近くだ。


 自分とはあまりに違う体躯。

 種族の差さえ押しのける力強さ。

 骨の浮いた自分の手と見比べてしまい、惨めさが込み上げる。


(せめて、気付かれないよう)


 ほとんど残っていないスープだが、一滴も残したくない。

 黒パンで器を拭おうとした、そのとき。


「山越え、か」


 男の言葉に、少女の意識が奪われる。

 聞き間違いではない。

 気配を殺して男を伺う。


 男は、少女の頭ほど有りそうな巨大なジョッキを一息に飲み干し、空のジョッキを目の前で揺らした。

 揺れる杯を真剣な目で見つめる厳つい横顔が、少女の瞳に映り込む。


「せめて、道案内だけでも頼めれば何とかなるんだが」


 その呟きを、聞き逃さなかった。

 酒場のざわめきの中では小さな声だったはずなのに、不思議と耳に残る。

 空になった杯を揺らす音、重たい溜息。

 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 細い指先が、無意識にぼろ切れのような服を握り締める。

 腹は空いている。

 体は軽い、軽すぎる。

 だけど、このままここに残っても、先は知れている。


 ――生きるためには、動くしかない。


 どうせ諦めていたのだ。

 最後と決めた食事は終えた。

 なら、死んだと思って動くだけだ。


 獣人じゃない、器人の男なら。

 そんな一縷の望みをかけて、少女は立ち上がった。


「ボクが、案内できる」


 かすれた声だけど、声は紡がれた。

 男の視線が少女に向けられる。

 見るからに頼りない子供を、雇ってくれるはずがない。

 だから、これは賭けだ。


「報酬はいらない。……ただ、一つだけ」


 涙が滲みそうになる。

 でも、泣けば声は崩れて消えるだろう。

 だから、精一杯の虚勢を張る。


「お願い……ボクも、連れて行って」


 声にした途端、虚勢は剥がれ落ち、涙がこぼれる。

 そんな子供のわがままにしか聞こえない訴えを聞き、男は、僅かにその厳つい顔を歪める。

 その顔に、拒絶されたのだと思い、少女はうつむいた。


「いいだろう。だが、一つだけ俺も条件を付けさせてもらう」


 予想外の言葉に顔を上げる。

 受け入れてくれた驚きで、体は固まる。

 男のつける条件が何かわからず、心が強張った。


 男は懐に手を入れて、何かを取り出す。


「報酬は、受け取ってもらう。それが、俺が君に出す条件だ」


 掲げられたのは一枚の銀貨。


(わけが、わからない)


 いらないと言った報酬を出すという男も、目をそらさずに真っすぐ見つめるその瞳も。

 虐げられて生きてきた雪狐の少女にとって、そのどちらも理解できないものだった。


 男は少女の手を取り、銀貨を握らせる。

 その口元が、僅かに緩む。

 それが男の笑顔だと少女が知るのは、もう少し先の話だった。




 これは、

 どこにでもある悲劇が、ひとつの出会いで覆される。

 ありふれたどこかの――物語。

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