《想器の星エスプレア》灰色の少女が銀色の希望を握るまで
(おなかが、へった)
夕暮れの街角を、一人の少女がふらつきながら歩いていた。
靴はなく裸足で傷だらけで、服はぼろ切れのよう。
汚れた長い髪が肌に張り付き、同じ灰色に汚れた狐耳と尻尾が力なく揺れる。
満足に食べられない日々が続き、身体はやせ細っていた。
もう少し痩せれば、動くことさえ難しくなるだろう。
街を歩く獣人たちから、蔑むような視線を投げられる。
聞こえるように「狐が、いい気味だ」と吐き捨てる声すらあった。
いつもの事だ。
暴力を振るわれないだけ、今日はまだマシな日かもしれない。
小さな少女にとっては、この街はとても生き辛い場所だ。
(……山が、越えられたら)
街中からも見える、天を突くような山を見上げる。
この国から逃れるには、あの険しい山を越えなければいけない。
だが山越えは、強靭な獣人であっても自殺行為と言われるほど過酷だ。
まして、やせ細り弱り切った少女一人では不可能だった。
――もっと早く決断していれば。
雪山の民と呼ばれた雪狐族の自分なら可能性はあったのに。
そんな後悔が、彼女の心をじわりと蝕んでいく。
もう、どうしようもない。
もう、どうでもいい。
そんな想いが胸に溢れる。
ふと、乾いた鼻が匂いを拾う。
酒場だ。
この辺りで、彼女でも食事にありつける唯一の場所。
多少ぼったくられ、悪態をつかれても、金さえ払えば食べ物が出てくる。
少女は懐のボロボロの革袋に手を入れる。
指先に触れるのは、一枚の銅貨。
全財産。
とっておきの最後の一枚。
握り締め、せめて最後ぐらいまともなものを口に入れたいと、酒場の入り口をくぐる。
喧騒が体を包み込む。
陽気に騒ぐ様々な獣人たち。
鼠や栗鼠などの獣人が笑い、猫や犬の獣人は肩身が狭そうに目を逸らしている。
そこへ襤褸切れの雪狐の子供が入ってきた途端、視線が一斉に刺さった。
蔑み、憐れみ、そして“あれよりはマシだ”という安堵。
給仕の羊獣人の女性が、露骨に嫌そうな顔で少女を酒場の隅へと連れていく。
人目につきにくい、薄暗い席。見たくない意図が透けるが、視線が和らぐのは少女にとっても助かった。
握り締めすぎて少し生暖かい銅貨を差し出す。
「……これで、食べれるものを」
銅貨を見て、給仕の女性の表情がわずかに和らぐ。
金を払うのであれば客、ということだろう。
銅貨を受け取った女性は厨房に向かう。
緊張で固まっていた身体から、少し力が抜けた。
もし食事にすらありつけなければ、惨めにも程がある。
テーブルに突っ伏したい誘惑にかられるが、汚れた体でそんなことをすれば叩き出される。
叩き出されるにしても――せめて食べ終えてからだ。
その想いが少女を踏みとどまらせた。
しばらくして、食事が運ばれてきた。
具の少ないスープと、硬くて噛み切れそうにない黒パン。
乱雑に置かれると思ったが、女性は音を立てずに並べた。給仕としての矜持だろうか。
酒場で一番安いメニューで、具も明らかに少ない。
それでも、少女にとってはごちそうだった。隅の席で、噛み締めるように味わう。
乾き切った喉と空っぽの体に、温かなスープが染みわたる。久しく忘れていた温もりに、目が滲んだ。
黒パンをスープに浸し、かぶりつく。
体力のない顎では噛みちぎれず、ふやけた表面を齧り取るだけだ。それでも広がる風味に、涙がこぼれた。
これが最後。
そう思いながら食べていると、誰かが入ってきた気配がした。
それだけで、酒場の空気がざわめく。
(何が、来たの?)
少女は身を乗り出し、入り口を覗き込む。
――大きい。
一瞬、大柄で有名な熊獣人かと思う程の巨体。
厳つい顔に、鍛え上げられた肉体を、色あせた革鎧が包んでいる。
獣人ばかりのこの国で、滅多に見ない器人の男だった。
少女を嫌そうな目で見た給仕の女性でさえ、大男がまとう圧には表情を取り繕うしかなかった。
せめてもの抵抗か、男は酒場の隅に案内される。
柱の陰の席、少女のすぐ近くだ。
自分とはあまりに違う体躯。
種族の差さえ押しのける力強さ。
骨の浮いた自分の手と見比べてしまい、惨めさが込み上げる。
(せめて、気付かれないよう)
ほとんど残っていないスープだが、一滴も残したくない。
黒パンで器を拭おうとした、そのとき。
「山越え、か」
男の言葉に、少女の意識が奪われる。
聞き間違いではない。
気配を殺して男を伺う。
男は、少女の頭ほど有りそうな巨大なジョッキを一息に飲み干し、空のジョッキを目の前で揺らした。
揺れる杯を真剣な目で見つめる厳つい横顔が、少女の瞳に映り込む。
「せめて、道案内だけでも頼めれば何とかなるんだが」
その呟きを、聞き逃さなかった。
酒場のざわめきの中では小さな声だったはずなのに、不思議と耳に残る。
空になった杯を揺らす音、重たい溜息。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
細い指先が、無意識にぼろ切れのような服を握り締める。
腹は空いている。
体は軽い、軽すぎる。
だけど、このままここに残っても、先は知れている。
――生きるためには、動くしかない。
どうせ諦めていたのだ。
最後と決めた食事は終えた。
なら、死んだと思って動くだけだ。
獣人じゃない、器人の男なら。
そんな一縷の望みをかけて、少女は立ち上がった。
「ボクが、案内できる」
かすれた声だけど、声は紡がれた。
男の視線が少女に向けられる。
見るからに頼りない子供を、雇ってくれるはずがない。
だから、これは賭けだ。
「報酬はいらない。……ただ、一つだけ」
涙が滲みそうになる。
でも、泣けば声は崩れて消えるだろう。
だから、精一杯の虚勢を張る。
「お願い……ボクも、連れて行って」
声にした途端、虚勢は剥がれ落ち、涙がこぼれる。
そんな子供のわがままにしか聞こえない訴えを聞き、男は、僅かにその厳つい顔を歪める。
その顔に、拒絶されたのだと思い、少女はうつむいた。
「いいだろう。だが、一つだけ俺も条件を付けさせてもらう」
予想外の言葉に顔を上げる。
受け入れてくれた驚きで、体は固まる。
男のつける条件が何かわからず、心が強張った。
男は懐に手を入れて、何かを取り出す。
「報酬は、受け取ってもらう。それが、俺が君に出す条件だ」
掲げられたのは一枚の銀貨。
(わけが、わからない)
いらないと言った報酬を出すという男も、目をそらさずに真っすぐ見つめるその瞳も。
虐げられて生きてきた雪狐の少女にとって、そのどちらも理解できないものだった。
男は少女の手を取り、銀貨を握らせる。
その口元が、僅かに緩む。
それが男の笑顔だと少女が知るのは、もう少し先の話だった。
これは、
どこにでもある悲劇が、ひとつの出会いで覆される。
ありふれたどこかの――物語。




