0・芯の星
水先案内人が南辰の祝福を受け、北辰の織女星が極の宙で微笑む航海の女神となって久しい。
空に青い大気の層が厚くあり、大陸があったのは、もう大昔の話。それらの大陸はすべて海へと沈み、今はかつて天にそびえていたであろう山脈だったモノが、大海原に小さく散らばっているだけの、何も無い水の星。そのわずかに残るその大地でさえ、黒くすすけている。黒い土の流れ込む水はにごり、塵の舞う風はよどみ、群青に開けた空には光が満ちている。オゾン層に穴が開いているのだ。昼ともなれば、人体に有害な化学線が天から降り注ぐ……
オゾンの層は、かつて地球すべてを覆っていたらしいが、いつしかその穴は極地から広がっていき、今となっては、赤道付近に申し訳程度に残っているだけであった。
――死の星、地球。
いや、まだ、そうではなかった。それでも、今だにこの星を辛うじて死の星に至らしめていないのは、母なる海がまだ多くの生命を産み出しているからである。水や空気は汚染され多くの生物が住めない環境となってはいるが、毒に満ちた環境であろうと、適応する生命はいるもので、何の問題もなく生きているモノ達もいた。毒に満たされた星となっても、全く生き物の気配がしないわけではないのだ。
ただし、人類にとってそこは毒の大気。死をもたらす大地。人は、この星で生きていくために、自らの叡智をそそぎ、有害な物質を遮断し浄化するフィルターで覆い、手っ取り早く紫外線を避けるために都市を海中に沈めた。海面で光は反射するため、海中では地上ほど光が届かないのだ。その海中都市は、改良に改良を重ね、水に浮かぶ泡のように、何千年もの間、海にあった。
地球はすでに人のためにない。新たな道を歩みだしていた。このまま地球にとどまっても、いずれくる滅びを待つだけである。
そして、いつしか人は宙に目を向けた。
それならばと、わずかな望みをかけて、この地球を飛び出し、新たな星を探す長い旅をすることを夢見始めた。
しかし、忘れてはいけない。我々が今日まで生きてゆけるのは、何もその海中都市の存在だけではない。酸素の大気がまだ厚く存在し、そして何よりも、海が残っていたことが、人類にとっては幸運であった。海は、地球の急激な温度変化を防ぎ、そして、酸性の色を示すとはいえ恵みの雨をもたらしてくれるのだ。
――我々は、海に感謝しなくてはいけない。こんなにも傷つけてなお、無償の愛で微笑む母なる海に。
「……は、ウミ、に……しな、くてはい、けない。こんな、にも……つけてな、お……の、アイで……ワ、ラむ? ハハなるウミ、に……よ~ん?」
子供がそうするように、読める文字だけ声に出すモノが、その部屋にはいた。
「おいらには、むずかしくて、わからないよ~ん」
声の主は、読み進めることを断念した。自分の寝床から起き出してみれば、すでにその部屋に人の姿はなく。机の上に開かれたままになっていた本が目に入った時、それに興味を持ち、文字を読み上げてみたものの、いかんせん難しすぎた。声の主は、ひらがなは読めたが、漢字は数えるくらいしか解読できなかったのだ。しかし、解読できた文字だけで、勝手に物語を創造する知能は持ち合わせていた。
「ウミは、こんなにも、アイがいっぱいよ~ん。そして、わらっているおかあさんが、ウミにいるんだよ~ん。きっとそうだよ~ん。おいらは、ウミをおかあさんのように、アイしているよ~ん。おいらたちが、アイせば、ウミもおいらたちを、アイしてくれるよ~ん。アイは、すばらしいことを、おいらは、しっているよ~ん」
納得がいく解釈ができたので、その好奇心が旺盛なちいさな生き物は、満足の声を上げた。
その部屋には数多くの水槽があった。「第1号水槽」「第2号水槽」と書かれたプレートが、水槽の一つ一つに貼られている。その声の主は、「第4号水槽」と書かれた場所を住処としている。そう、いままで、しゃべっていたのは魚だったのだ。その魚は知能だけではなく、肺呼吸の能力も持っていた。そして乾燥に強い鱗も持っているのだ。炎天下や極端に乾燥した場所でなければ、水槽の外にいても平気なのだ。しかも、この場所は完全に管理された空調の中、2,3日水槽から抜け出して出歩いても、問題はなかったのだ。
しかし、その特質以外は魚と変わらない。階段は転がり落ちるように降りられるが、決して登れないし、高くに取っ手のある戸も開けられないので、実際に行くことができる場所は限られている。下の階に降りてしまったら、帰りは、誰かに、家である水槽まで連れて行ってもらうしかないのである。だが、人語を理解するので人気者である彼にとっては、その足となる者の確保には困ったことはなかった。
「おなかすいたよ~ん」
難しい本を読んで、体は糖分を求めていた。
「へやのドアが、あいているのよ~ん」
この水槽部屋のドアは、たいてい開いている。その魚が自由に行き来できるように。
「おいら、でかけてくるよ~ん」
その魚は、他の仲間たちに外出を告げ、部屋の外へ向かうのでした。
現在の地球の北極星は、こぐま座のポラリスにあります。
西暦13700年頃 には、夏の大三角で有名なこと座のベガ(ラテン語でリュラ 。日本では織姫星 )に移ります。
ちなみに現在、天の南極ははちぶんぎ座の中にあるけれど、付近に十分に明るい星がないから南極星にあたる星はなく、南を知るには、もっぱら、南十字星 が使われています。
そして、織姫星が北極星の時代になると、南極星はりゅうこつ座のカノープス(水先案内人という意味の星)あたりになります。
北の空の織姫星は航海の女神となって、南の空のカノープスは水先案内人となって輝き……
星の位置を測り方角を導く船乗りにとっては、女神と案内人が空に在り、航海を見守ってくれるとは……なんとも、すばらしい時代ではないか。