魔女の気まぐれ亭
凍えるような冬の昼下がり、冷たい風が吹き荒れる喧騒の街並みを、黒髪短髪の男がスーツ姿で歩いていた。
彼の視線は地面に縫い付けられ、その背中からは休日出勤という名の重荷が、気力までも吸い取っているようだった。
(あの上司のせいで、せっかくの休みが台無しだ。
午前中だけとはいえ、本当に勘弁してくれよ……!)
どうやら、彼にとってそれは、まさに予期せぬ「罰」のような出勤だったらしい。
信号で止まり、男はポケットからスマホを取り出す。
乾いたアスファルトに、チャリン、と軽い金属音が響く。
「あ……はぁ」
ポケットから滑り落ちた小銭は、見る見るうちに彼の足元から遠ざかっていく。
まるで意志を持ったかのように転がっていった。
(そうだった……小銭、ポッケに入れてた)
男は天を仰ぐような深いため息を吐き、重い足取りで小銭の後を追った。
チャリン、チャリン、と恨めしげな音を立てて転がった小銭は、ようやく路地裏の入り口で動きを止めた。
(なんでそんなとこに……ん?)
小銭を拾った際、いつもは気にしない路地裏に目がいく。
(なんか、光ってないか?)
小銭を拾った際、彼の視線は、普段なら視界にも入れないような薄暗い路地裏の奥に引き寄せられた。
(……あれ?なんか、光ってる?)
普段なら、見慣れない光にすら無関心な彼だが、その時ばかりは、まるで抗えない引力に吸い込まれるかのように、路地裏へと足を踏み出した。そして、その奥にひっそりと佇む白い扉の前に、彼は呆然と立ち尽くした。
そこだけが、まるで別世界のように、柔らかな光を放っていた。
(……なんか、違和感が凄い)
普段、外食どころか衝動的な寄り道などめったにしない彼にとって、自分の行動は理解の範疇を超えていた。
(なんか、変な感じだ)
木の温もりを感じさせる白い扉は、おしゃれというよりは、どこか古めかしく、それでいて厳かな雰囲気をまとっていた。その前には、店名はおろか、看板さえ見当たらない。
いつもなら、即座にスマホを取り出し、住所を調べて店を特定するはずだが、なぜかそんな気すら起きない。通常であれば、迷わず引き返しているだろう。しかし、この扉からは、微かに、しかし確かな温もりが伝わってくるようだった。
(……入ってみるか)
理屈ではない何かに背中を押されるように、男は意を決して扉に手をかけた。
ガチャリ、と重く、そして軋むようなギイィィィという音が、静かな路地裏に響き渡った。
「おお……」
男の視界に飛び込んできた空間は、白い扉から想像していたものとはまるで違った。
息をのむほどシックという言葉が、これほど似合う場所があるだろうか。焦げたような色合いの木材が使われた壁と床。その中に、夜空に浮かぶ雲のように真っ白なカウンターやソファが、柔らかな光を反射して配されている。
店内には、上質な木の香りと、芳醇な紅茶の香りが混じり合い、さらに、嗅いだことのないような、それでいてどこか心を落ち着かせる不思議な匂いが漂っていた。
(ショップか?ついでにカフェもやってる、みたいな?)
どうせ女性客ばかりだろうと、男は思わずため息をつく。
棚に並ぶ小道具は、精巧な装飾が施された香水瓶や、色とりどりの輝石、細やかな刺繍の施された布製品など、確かに女性が好みそうな品々ばかりだったからだ。
(場違いだし、帰ろうかな)
振り返り、扉に手をかけた、その直前。
「おや、いらっしゃい」
背後からかけられた声に、男は思わず体が固まり、思考が停止した。
息をのむほど美しい女性が、そこに立っていたからだ。
漆黒のストレートの髪、そして日本人離れした彫りの深い顔立ち。それなのに、驚くほど流暢な日本語を話す。
ただ、その言葉は男の耳にはほとんど届いていないようだった。
彼は、あまりの美しさに、脳が完全にフリーズし、ただただ立ち尽くすばかりだった。
「どうした?」
「あ、いえ。な、なんでもありません」
(え、日本語うますぎる。ハーフ?いや、生粋の西洋人って感じだけど……)
ようやくそのことに考えが及ぶほどに、男の頭は回り始めていた。
「そうかい」
再び声をかけられ、ようやく我に返った男だが、親しげな様子で話しかけてくる店員に、またしても少しだけたじろぐ。
現代では珍しい、妙にフランクな接客態度。
個人店だからだろうか。女性は柔らかく微笑み、男を心から歓迎しているようだった。
「まぁ、そこに座ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
まるで自宅に招き入れるかのように言う女性に、男は思わず呆けてしまう。
「これメニューね。決まったら、欲しいものをタップしてくれ」
「は、はぁ」
男は、まるで初めて触れる異国の品のようにぎこちない手つきでメニューを受け取った。
(いや、さすがに紙をタップするはずないし……)
これからタブレットが来るのだろうと思いながらも、ひとまず男はメニューを眺める。
席数は少なく、店内にいる客は自分一人。
男は「これはやってしまったな」とでも言うように、深々とため息を吐いた。
こんなお洒落で、しかも個人経営のカフェ。
さぞかし値段も張るに違いない、と彼は絶望的な気分になっていた。
(あれ……全く高くない。むしろ安いぞ。サラダ200円、飲み物100円、食事500円。
お任せなのか、大雑把なメニューだけど。それでも安い。……全部頼もうかな)
メニューから顔を上げると、美人店員の姿は見当たらない。
カウンターの奥に従業員用の部屋と思われる扉があるので、出るの待つか、声をかけるしかないのだが。
(奥かな?声を掛けるのは……あんまり得意じゃないんだよな……ん?)
ふと視線を落とすと、手にしたメニューがかすかに光っていることに気づいた。
(なんだ、この光……)
男は自分が気になっていたメニューに、と言っても、サラダと書いてあるだけの文字に、吸い寄せられるようにそっと指を触れた。
すると、次の瞬間、目の前のカウンターが、まるで水面に波紋が広がるようにゆらめき、その中央から突然、タップしたサラダが、音もなく現れたのだ。
色とりどりの野菜が宝石のようにきらめき、お洒落な木皿にはこれでもかというほどふんだんに盛られていた。
「え?」
男は、メニューと食事を何度も交互に見比べた。
「え?」
今度は食事と飲み物をタップする。
重厚な木のカウンターから、突然、魔法陣のようなものが浮かび上がる。
そして、そこから飲み物やメインの食事が、まるで実体を持つかのように現れたのだ。
「……どういうトリックだ?」
そんなことを呟いた後、男はカウンターの下や奥を覗き込んでしまうほど、信じられない光景だった。
「……本当に、食べられるのか?」
ゴクリ。男は唾を飲み込み、食事を凝視する。
目の前に出された料理の全てが、ほのかに光っているように、男には感じられた。
(めちゃうまそう……)
一緒に出てきたカトラリーからフォークを取り、男は恐る恐るサラダを口にした。
「うま!」
男は、サラダを口にした途端、思わず大きな声を出した。
まるで、今しがた畑から摘んできたばかりのような瑞々しさ。野菜そのものの旨味が凝縮され、さらに素材の味を何倍にも引き立てる、絶妙な酸味と甘みが溶け合うさっぱりとしたドレッシング。
何もかもが計算され尽くした完璧な味だと、男は飢えた草食動物のように夢中でサラダを頬張った。
「こっちは!?」
男は、いまだ湯気の立つハンバーグに手を伸ばした。
フォークを差し込むと、抵抗なくスッと切れ、そこから透明に輝く肉汁が止めどなくじゅわりと溢れ出す。
ゴクリ。
男は、期待と興奮で高鳴る心臓を抑えながら、デミグラスソースがたっぷりかかったハンバーグを恐る恐る口にする。
「ん~~っ!」
口に入れた瞬間もなお、口いっぱいに溢れ出る肉汁。濃厚なデミグラスソースと肉の旨みが混ざり合い、未体験の深い味わいを生み出す。噛む必要などないくらい、舌の上で淡雪のようにとろけるように柔らかい。
(不思議だ。フォークで刺したときは、間違いなく食感があったのに……)
テレビの食レポで見るような大げさな表現が、これほど的確だとは。
あれを信じたくなるほど、とてつもなく柔らかいのだと、彼は感嘆した。
(これは……米だ!)
目の前で一粒一粒が輝く、ふっくらと立ったお米を見た瞬間。
男はたまらずハンバーグを口に放り込み、至福の表情で口いっぱいにご飯をかきこんだ。
「さいっこう……」
男の顔には、もはや場違いだと困っていた表情も、突然の料理に驚く表情もない。
そこからは、まさに料理に魅入られたかのように、彼はただひたすらに美味い品々を、食べることに夢中になった。あっという間に空になった皿を見て、男は心底から満足げに腹を撫でた。
そして、食事と一緒に出てきていたにも関わらず、すっかり存在を忘れかけていたオレンジジュースに手を伸ばした。
「はは、なにこれ」
男は気づけば笑みがこぼれていた。
それは間違いなくオレンジジュースなのだが、彼の知っている果汁100%のジュースよりも、さらに果実そのものを強く感じた。
喉を通してもきつすぎない上品な爽やかな酸味と、鼻腔に残っていた肉の香りを一瞬にしてかき消すほどの華やかな香り。そして何より、口の中に広がる絶妙な甘さに、彼はすっかり魅了されていた。
「気に入ってもらえたかい?」
食事が終わった頃を見計らったように、美人店員が顔を出す。
入ってきたときとは比べ物にならないほどの、純粋な笑顔で男は答える。
「はい、めちゃくちゃ美味しかったです!」
その姿はまるで、子供のように無邪気な笑みだった。
「それはよかった」
美人店員はにこりと笑うと、男に向かって手を差し出した。
男は、思わず首を傾げる。
「私は、ここ、『魔女の気まぐれ亭』の店主をしているオフィーリアという。
君の名前を教えてもらえるか?」
「あ、他助です」
「そっちじゃない。下の名前」
「えっと、優です」
「優ね、いい名前だ。優は普段何をしているんだ?」
優は少し戸惑いながらも、普段の仕事について話し始めた。
彼はごく普通の会社員で、特に秀でた特技もなく、毎日同じことの繰り返しで、漠然とした物足りなさを感じていた。
最近のことを話すにつれて、会社での鬱屈とした日々、特に上司からの嫌味や、同僚とのぎくしゃくした関係にうんざりしていることなどを、彼はぽつりぽつりと愚痴のようにこぼした。
オフィーリアはただ静かに耳を傾け、彼の話に一切口を挟むことなく、ただ時折優しく微笑むだけだった。
「なるほど。それは少々厄介だね」
オフィーリアは優の言葉に静かに頷くと、カウンターから音もなく出て、小物が並べられた棚から、まるで選び抜かれたかのように、ある小瓶を取り出した。
「どうだろうか、優。騙されたと思って、この香水を試してみないかい?
何の香りもしないけれど、厄介事を遠ざける効果があるんだよ」
オフィーリアが差し出した小瓶は、シンプルなデザインで、男が手に取って蓋を開けても、確かに何の香りもしなかった。
(怪しい商売か?いや、でもこんな美味い料理を出す人が……。ああ、そうか。きっとこの商品で、食事代を賄っているんだな。多少高くても、これだけの料理の対価なら、むしろ買わない方が申し訳ない)
優はそう納得しかけたものの、やはり半信半疑ながらも、この美味の対価として、それを受け取った。
オフィーリアは、優が香水を受け取ったことで、満足げに、そしてどこか愉快そうに笑った。
優は思わず、頬が熱くなるのを感じて、視線を逸らした。
その美人の笑顔は、今の優にはまぶしいほどに刺激が強かったようだ。
「まだ開店したばかりだが、そろそろ他の客も来る時間だ。
よければ、そこのソファ席でゆっくりしていってくれ」
「あ、はい」
オフィーリアに促され、優はオレンジジュースを手に持って、窓辺のソファ席へ移動する。
ガチャリ、と扉が開く音が聞こえた。
まるで予知したかのようなタイミングで、一人の可愛らしい女性客が入ってきた。
「オフィーリアさん、こんにちは。久しぶり」
「やあ、美月。こんにちは、久しぶりだね」
「あら、お客さんがいたのね。こんにちは」
「あ、どうも」
美月は優に気づくと柔らかな笑顔を見せてから、慣れた手つきでカウンターへと座り、注文を取った。
彼女はどこか不思議な雰囲気を持っているが、オフィーリアとはまるで古くからの知り合いのように親しげに会話を交わしている。美月の顔には、まだ食事もとっていないのに、すでに心から穏やかで満たされた表情が浮かんでいた。
彼女、美月の顔には、食事もとっていないのに、穏やかで満たされた表情が浮かんでいた。
(おっと、見すぎは失礼だな)
優は、そっと視線を外し、ソファにもたれかかり、何気なく窓の外に目をやった。
(え……?)
そこには、先ほどまで見ていたはずの都心のビル群も、忙しく行き交う車の音もない。
窓の外に広がっていたのは、どこまでも続く緑豊かな森と、遠くに見える壮大な山々だった。
鳥のさえずりが微かに聞こえ、清々しい風が吹いているような気がした。
優は、その息をのむような絶景に魅入られ、呆然と外の景色を眺めたまま、オレンジジュースをゆっくりと飲み始めた。
どれくらい時間が経っただろうか。スマホを見ることも忘れ、ただひたすらこの幻想的な景色だけを眺めている自分に、思わず穏やかな笑みがこぼれる。
カラン、と氷がグラスの底を打つ音がした。ちょうどオレンジジュースを飲み干したようだ。
これほどの時間が経っているというのに、コップの中の氷は溶けておらず、オレンジジュースの味も薄まっていないことに、優はまたしても驚きと感動で笑った。
(そろそろ出るか)
まるで空気を読むかのように、美月とオフィーリアの会話が途切れたタイミングで、優は店を出ることにした。
「おや、もう行くのかい?」
「はい。今日はありがとうございました。本当に美味しかったです」
「それはよかった。お会計は、えっと1000円ちょうどで」
「え?」
優から思わず困惑と驚きの声が漏れた。
確かに食事だけなら合計しても1000円には届かない。だが、あの香水も買ったはずだ。とても1000円に収まる金額ではない。
(え、俺、何か勘違いしてるのか……? 一万円の言い間違い?)
「どうした?」
だというのに、オフィーリアはまったく気にした様子がない。
隣で美月と呼ばれた女性が、優しげに、しかしどこか楽しそうにくすくすと笑う。
「ほら、言ったでしょ?
ここ、安すぎるのよ。その価値に見合った金額を取らないと、誰だってそうなるわ」
「そうかい。まあでも、お釣りを出すのも面倒だからいいのよ」
「あ、じゃあ、えっと、これ」
優は恐縮しながら千円札を差し出した。
「はい、確かに」
オフィーリアは微笑みながらお金を受け取ると、カウンターから出て扉の近くに立つ。
どうやら、お見送りまでしてくれるようだと、優は目を何度か瞬かせた。
「今日はありがとう。また会えたらいいね」
「はい、また来ます!」
こうして、優は名残惜しそうに白い扉を後にした。
扉から一歩出ると、彼は元の路地裏に立っていた。
「あれ?」
優が振り返ると、そこには白い扉などどこにもなく、ただの冷たいコンクリートの壁が、無言でそびえ立っているだけだった。
「ゆ、ゆめ?」
しかし、彼の腹は満たされて膨れているし、何より手には、オフィーリアから受け取った香水が入った紙袋が、確かな存在感を持って握られている。
「まじかよ……何だったんだ、一体……?」
何がなんだか分からないまま、優はその場を後にするしかなかった。
翌日。
(嫌な上司が今日もまた、自分に嫌味を言うのだろうな……)
ため息を吐かないように、パソコンに顔を向ける。
カタカタ、と乾いたタッチ音が、静まり返ったオフィスに響いていた。
時刻は朝の8時。
出勤の時間まで、1時間もある。
しかし、社内にはほとんどの人間が揃っていた。
前にある、一人の席を除いて。
1時間後。
ガチャリ、ピ。
『出勤しました』
(きた……)
上司は9時ちょうどに出社する。
そして、そこらにいる社員に偉そうに小言をいいながら、自分の席に向かうのだ。
優も、上司から小言を言われるうちの一人だった。
(ん?)
しかし、優は異変に気付く。
上司は特に何も言わない。それどころか、なぜか上司は優から距離を置き、全く嫌味を言ってこない。
(今日はそういう日か)
たまにあるんだよな、機嫌のいい日。
優はそう思いながら、目の前の仕事に専念していく。
翌日、さらにその翌日。
おかしなことに、日を追うごとに、上司は人目を憚るように静かに萎縮していることさえ感じられた。
(なんなんだ?
まあ、平和なのは良い事か)
面倒な人間が静かなのはいいことだ。
ここ最近、優は定時で上がっている。何も言わない上司を試すように、定時上がりをチャレンジしていくうちに、それが日常になっていった。
(ああ、こんな日が毎日続けばいいのになぁ)
優はそう思わずにはいられなかった。
そんな平穏な日々が続いたある日、優だけでなく、社員全員から煙たがられていた嫌な上司が突然、会社を退職したと聞かされた。
「みんな、これからよろしくな」
後任には、以前から信頼していた先輩が上司となり、優は晴れやかな気持ちで真面目に仕事に打ち込むようになった。優の先輩は、人当たりがよく面倒見もいい、誰もが「上司にしたい」と願うような人物だ。
前の上司とは真反対の性格の人が上司となったことで、社内の雰囲気は見違えるように良くなり、業績も上がり、定時で退社できる自由な時間も増えた。
(最近、良い事ばかりだ!)
前の嫌な上司のせいで、同僚とギクシャクしていた関係も改善し、優の現在の職場環境は、これまでの人生で最高のものとなっていた。
(やっぱり、あれは夢じゃなかった?)
そこで優は、ふと思い出す。
『魔女の気まぐれ亭』で買った香水のことを。何の匂いもしないが、毎日欠かさずお祈りするように振りかけていた。
(厄介ごとというより……疫病神が消えた。あれは本当のことだったのか?)
優は、あの不思議なカフェの出来事が、夢ではなかったのかもしれないと感じ始めた。
もう一度、あの場所に行きたいと願い、日々を過ごしていると、ある日。
いつもの帰り道、ふと視界に気になるものを見つける。
前とは違う場所に、白い扉がたたずんでいた。優はその扉を見つけると、今度は迷いなくその扉を開けた。
ガチャリ。
「いらっしゃい……おや」
「こんばんは、オフィーリアさん」
「ふふ、こんばんは。
また会えてうれしいよ、優」
「僕もです」
「さ、そこに座って遅れ」
「はい」
優はメニューを受け取り、サラダ、メイン、飲み物をタップする。
今度はかつ丼と、玉ねぎ盛りだくさんの和風サラダ。飲み物は、夜だからだろうか、優の好きな酒が出された。
優は食事をしながら、オフィーリアと談笑した。
前とは違い、オフィーリアは優が食事をする間も、カウンターの向こうに立ち、穏やかな眼差しで彼を見守っていた。
「最近の人生はどうだい?」
オフィーリアが、以前と変わらない優しい言葉で聞いてくる。
優は、熱々のかつ丼を一口食べ終えると、箸を器に乗せ、オフィーリアを見ながら満面の笑顔を見せた。
「楽しいです、とても」
優は、心からの笑顔で答えた。
「そうかい。悪かったね、食事を続けておくれ。
食べながらでも、食べ終わってからでもいいから、話を聞かせておくれ」
「はい」
優は食事をしながら、オフィーリアに最近のことを伝えた。
オフィーリアは、優が幸せそうに話すその姿を見て、満足気だ。
食事も終わり、優は満足げにソファでくつろいだ。窓の外には、日本ではありえないほど巨大な満月と、その傍らに寄り添う小さな月が並んでおり、息をのむほど幻想的な景色だった。
「これ、紅茶ね」
「ああ、ありがとうございます」
優は、温かい紅茶を一口飲むと、その香りに心がほぐれるのを感じた。
紅茶の感想を伝えた後、彼は意を決して質問した。
「あの、このお店って、いつもいつ開いてるんですか?
……数ヶ月ぶりだし、前とは違うところに扉があったし……って、すみません、何を言ってるか分からないですよね」
自分でも何を言っているか分からないのにと、優は自嘲気味に笑った。
車販売ならまだしも、ここには確かに店内の空間があるのだから。
「優、この店はね、『魔女の気まぐれ』で開いているのさ」
その言葉が、彼の胸にじんわりと染み渡る。
このカフェが、そしてオフィーリアという存在が、なぜか彼の人生に現れ、そして変化をもたらした。
それは、まさに予測不能で、気まぐれな魔法のようだった。
いつもなら、「冗談はいいですから」と言うところだが、そういうのもありかと優は笑う。
「それなら、偶然出会った時には、必ずここに寄ります」
「ぜひ、そうしておくれ」
「はい」
穏やかな時間が流れる。
優は満たされた心で席を立ち、オフィーリアに感謝を伝えてから、白い扉へと向かった。
優が扉に手をかけ、外の世界へ一歩踏み出そうとした、その時だった。
「あのー……ここって……」
ーーーーーーーーー
「お店……だよね?」
白い扉の前で、一人の若い女性が立ち尽くしていた。
足元からは、アスファルトの冷たさがじんわりと伝わってくる。
彼女はいつかの『彼』と同じように、日々の喧騒に少し疲れたような顔をしている。
彼女もまた、普段ならこんな薄暗い路地裏など決して通らない。
なぜか今日は、見覚えのない白い扉に視線が吸い寄せられたのだ。
看板もない。それなのに、直感的にそこがただの壁ではない、特別な場所だと彼女は理解する。
扉から漏れる温かい光と、微かに漂う不思議な香りが、彼女の心の奥底を揺らし、掴んで離さない。
「隠れ家的な……流行ってるもんね、そういうの。
会員制のバーとかだったら、大人しく帰ればいいし」
不安と期待がない交ぜになった独り言が、乾いた喉から漏れた。
まるで磁石に引かれるように、女性は扉に手をかけた。
ガチャリ。ギイィィ。
重厚な木の扉がゆっくりと開き、店の内観が、彼女の視界に鮮やかに移る。
「あのー……ここって……」
彼女がそう言葉を発した時、一人の黒色短髪のスーツを着た、どこか幸せそうな男と目が合う。
「こんばんは」
柔らかな雰囲気を放つ彼は、入ってきたばかりの女性に、まるで旧知の友を迎えるかのようににこりと微笑んだ。
「あ……はい」
女性は少し驚いたように、しかしその微笑みに導かれるように、小さく頭を下げた。
「じゃあ、オフィーリアさん。また、いつか」
「ああ、またね」
男が扉を完全に開け、外の世界へ消えていく。
女性は、その背中をちらりと見送ると、店内の温かい光に誘われるように足を踏み入れた。
(ここは、きっと、私を待っていた場所だ)
店主のオフィーリアは、優しい笑顔のまま、新たな客を迎える。
「ようこそ、『魔女の気まぐれ亭』へ」
魔女オフィーリアは、風の向くまま気の向くまま。
彼女の生み出した小さな世界で、疲れた人々を癒すのであった。
魔女の気まぐれ亭 fin
久しぶりの短編。短編は書いてて楽しいね。
最後まで読んでくれて、ありがとうございました。
★、いいね、感想などなど、お待ちしてます~。
……違う小説になるけど、そろそろ中編~長編の小説があがるかも?
ローファンタジー、ダンジョン!!
では、しーゆーあげいん