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王宮追放された没落令嬢は、竜神に聖女へ勝手にジョブチェンジさせられました~なぜか再就職先の辺境で、王太子が溺愛してくるんですが!?~

作者: 結田 龍

「小娘を、ひっ捕らえよ!」



 肌寒さを感じる夕刻。

 ドン、と殴られたような痛みを背中に感じ、両腕を後ろに引っ張られた。

 両手首に縄の感触がしたかと思えば、ギギギッと肌が引き攣る。

 肩をぐっと押されて、毛足の長い絨毯に膝が埋まった。



「え……!?」



 左右に首を動かせば、私を抑えつけていたのは屈強な衛兵で、喉がひゅっと鳴る。

 な、何? この状況……。

 唐突過ぎて状況が飲み込めない。

 足を踏み入れたことのない、王宮の執務室に入ったとたんの出来事だ。

 豪華な調度品が並ぶ執務室。高い天井にあるシャンデリアにはすでに灯がともり、そのきらめきを受けているのは、執務机にいるこの国の宰相だ。



「イシュカ・セレーネ。王宮術師団に所属する水術師だな」


「は、はい」



 腹の底を這うような低い声に、肩がびくりと震える。

 そろりと視線を上げると、ギロリと射抜くように見られていたから、ドッと汗が噴き出した。

 私に厳しい目を向けているのは、ランドリック王国・宰相ジェイコブ・オズウェン公爵。病弱な国王陛下に代わり実権を握っている壮年の男性だ。

 私をこの部屋に呼び出した張本人だけど、雲の上の人過ぎて、全く面識がない人物。



「わしの娘、王太子の婚約者筆頭候補でもあるシャーロットの誘拐罪で処罰する。王宮追放だ」



「……………………は?」



 一瞬何を言われたのか、わからなかった。

 なに、一体どういうこと……?

 だって、全く身に覚えのない罪状を告げられたのだから。



「連れていけ」



 否定する機会も得られないまま、非情にも宰相閣下は命令を出した。

 体の温度がすっと冷えて、私は青ざめた。



「ちょ、ちょっと!?」


「お待ちください、閣下!」



 パニックに陥りかけた私に代わって、執務室にドタドタと駆けこみ、声を上げた人物がいた。

 噴き出る汗をぬぐいながら、荒い呼吸を整えている、水術師長ホーマー・シードルフ。

 私と同じ水術師の証ともいえる水色のローブを身にまとった、王宮術師団の水術師のトップで、お父様と同じくらいの歳の私の上司だ。

 私が会ったこともない宰相閣下に呼びだされたから、とても心配してくれていたのだ。

 私のことをよく知る人を目にして、体の温度がほんの少し戻ってきた。



「イシュカ、大丈夫か!?」


「ホ、ホーマー様……」



 ホーマー様は、伸ばした白髪まじりのあご鬚をせわしなく触りながら、宰相閣下の前に進み出た。



「閣下、発言をお許しください。イシュカが罪を犯したとのことですが、それは本当なのでしょうか? 何かの間違いでは……?」


「わしが間違っているというとでも?」


「め、滅相もございません。ただ、イシュカは私が指示した、王都の水の成分の鑑定に行っておりましたから、犯行を起こすのは難しいかと……」



 そうなのだ。私は今日、任務のために王都の商業エリアへと足を運んでいた。

 私には水術師としてのスキルの一つ、水質鑑定があるから、定期的に王都で使われる水の成分を鑑定して、水の安全を守っている。

 今日も無事に任務を遂行し、ほっと安心した気持ちで家へ帰る予定だったのに。

 どうしてこうなってしまったんだろう。



「ホーマー様、イシュカをかばいだてしても無駄ですわ」


 ハッと聞き覚えのある声に反応すれば、同期の水術師であるヘンリエッタ・バントンが執務室の奥にいた。

 私を見て、ニタリと口元を歪めて笑った。



「ヘンリエッタ、どうしてあなたがここに……?」


「イシュカ、同じ水術師として恥ずかしいわ。証拠は上がっているのよ」


「どういう……」


「シャーロット様、この者で間違いないですよね?」



 ヘンリエッタが声をかけた先にいたのは、煌びやかなドレスが良く似合う可憐な美少女。彼女がしずしず歩く度、花のような香りが舞う。

 宰相閣下の一人娘、公爵令嬢シャーロット様だ。

 シャーロット様は宰相閣下の隣に寄り添い、小首を傾げて、大きな瞳を潤ませた。



「そうよ、ヘンリエッタ。この者だったわ。わたしくしはこの者に誘拐されたの」


「……ゆ、誘拐!?」



 ど、ど、ど、どういうこと!?

 あまりにも物騒なシャーロット様が放たれた言葉に、体が硬直する。

 美少女からほろりと流れた一滴の涙に、衛兵が見惚れたようにほうと息を吐き、私をギロリと睨んだ。

 その視線に首を竦ませることしかできない。



「イシュカ。あなた、今日シャーロット様にお会いになったわよね?」


「ええ、確かにお会いしたけれど……」


「確かにと言ったわね」


「イシュカ、それは本当か!?」



 言質を取ったといわんばかりのヘンリエッタと、慌てふためくホーマー様が一様に私を見た。



「小娘、私の娘と会ったと認めるんだな?」


「宰相閣下、確かにお会いしましたが、王宮の近くでシャーロット様が供もお連れにならずおひとりでいらっしゃったので、危険だと思い王宮へお送りさせていただきました」


「下手な言い訳ね、イシュカ。シャーロット様はあなたに誘拐されたのよ。王太子殿下の婚約者筆頭候補として、特別に許された妃教育のために王宮にいらっしゃったのに、怖い目に遭われてなんてかわいそうなのかしら!」


「ちょっと待って、私はやってないわ! 閣下、私は誘拐などしておりません!」



 急に何を言い出すのよ、ヘンリエッタは!

 犯してもいない罪に問われ、さすがの私も反論した。

 ヘンリエッタは優秀な水術師だけど、なぜか私を目の敵にする。

 ありもしないことを大げさに訴えて、いつも私をおとしめようとするのだ。

 ヘンリエッタに心を乱されてはいけない。

 一度息を吸って呼吸を整え、冷静であろうと努める。



「閣下、私は本日初めてシャーロット様とお会いしました。王都の任務の帰りに、おひとりでいるご令嬢をお見かけし声をかけたのです。それがシャーロット様でした。先にも述べましたが、王宮までお送りいたしました。そもそも私はシャーロット様と接点を持っていません。私は子爵家の娘ですから」


「そうね、イシュカは没落した貴族の娘だものね」


「没落した貴族の娘……?」



 ヘンリエッタの言葉に、ぴくりと宰相閣下が反応した。



「ああ、そうか。セレーネとはどこかで聞いた名だと思ったが、お前はセレーネ元侯爵家の血筋か。お前の祖父が問題を起こしたばかりに降格させられたのだったな。今は子爵だったか。なるほど、侯爵のままであれば、王太子の婚約者候補に入れただろうに」



 小ばかにするような宰相閣下の言葉に、下唇を噛んだ。

 すでにお祖父様は亡くなっているが、過去、私の家の爵位は侯爵だった。

 お父様の話によると、私が幼い時に当主だったお祖父様は、政治の要職に就いていたが、政敵に汚職の濡れ衣を着せられて没落してしまったそうだ。

 高位貴族のままなら豊かな暮らしをさせてあげられたのにすまない、とお父様から言われたことがある。

 王妃の地位も夢じゃなかったのにとも。

 でも現実は資産もなく細々と暮らし、私も家族を支えるために水術師として王宮で働いている。



「爵位も力も失った家だと言うのに、我が公爵家に逆恨みでもして誘拐を企てたのか」


「いいえ、ありえません。逆恨みだなんて。ましてや誘拐するなど露ほどにもございません」


「シャーロットがウソをついているというとでも?」


「私は無実でございます」



 私は無実の罪を晴らそうと宰相に真剣に訴える。

 そんな私をあざ笑うかのように、シャーロット様が無邪気な表情で言い放った。



「わたくし怖かったわ! 誘拐されたとき、口元を押さえられて手足の自由などなかったのよ。隙をついてヘンリエッタが助けてくれたの」



 シャーロット様は、何を言っているの?

 驚き過ぎて言葉が出なった。

 目を丸くしたまま固まった私を見て、ヘンリエッタが口の端を上げてせせら笑った。



 ……そうだわ、シャーロット様には悪いうわさがあった。



 シャーロット様は特別に許された妃教育のために王宮に通っているようだけど、退屈だと言ってはばからないらしい。その退屈しのぎのために、取り巻きたちとともにターゲットを見つけては、陰湿な嫌がらせをしていると聞く。

 その陰湿な嫌がらせのせいで、王宮を去る人たちが何人もいたとか。

 ヘンリエッタはオズウェン公爵家と縁のある伯爵家の娘だったはず。彼女は取り巻きのひとりだったということか。

 ということは、ターゲットは私。

 ドクン、と心臓から嫌な音が鳴った。

 ごくりとつばを飲み、閣下に踏み込む質問をした。



「……お言葉ですが、シャーロット様がご自分から王宮の外へ出たとはお考えにならないのですか?」


「何?」


「まぁ。わたくしはわが屋敷と王宮しか知らず、外へひとりで行くなんて怖くてできませんわ」



 おっとりとした可憐な声で、シャーロット様は平気で私を突き落とす。

 彼女にとって、きっと本当に退屈しのぎなのだ。



「高位貴族のご令嬢なら当たり前のことよ。公爵令嬢のシャーロット様なら尚更。でも、イシュカに分かるはずもないわよね」


「でも!」


「お父様、わたくし怖かったですわ!」


「シャーロット、なんてかわいそうなんだ。怖い思いをしたな」


「はい、お父様」


「私はそんなことしておりません!!」



 否定の言葉を張り上げるも、娘の言葉を鵜吞みにする閣下は眉一つ動かさず、私を見下すだけだった。



「口の減らない娘だ。さっさと王宮から追放せよ」



 宰相閣下から発した断罪する言葉に愕然とした。

 足元から崩れ落ちそうだったが、命令を遂行するために傍にいた衛兵たちが、私の両腕を引っ張り無理矢理立たせた。



「こ、このことは、王太子ローク殿下はご存じなのですか!? 水術師として優秀なイシュカを追放するなんて国にとって損失が……!」



 連れていかれる私を見たホーマー様が、声を振り絞って訴えてくれた。



「王族など取るに足らん。この国はわしが動かしているのだ。政治の表舞台に立てない剣しか能のない王太子に、なぜいちいち報告せねばならんのだ」


「ローク様はわたくしの家の後ろ盾がないと何もできないのよ。わたくしが王太子妃になるのも時間の問題ですわ」


「それに水術師ひとり欠けたところでどうなることでもない」



 栄華を極める親子を前に、これ以上できることは何もなかった。

 何も言えない私を高慢な態度で見下すヘンリエッタと目が合うと、彼女は無音声で口だけを動かした。



『か・わ・い・そ・う』



 私は奥歯をぐっと噛み締めることしかできなかった。

 衛兵に捕らえられたまま、私は王宮の地下牢へ連れていかれた。




 ◆ ◆ ◆




 石造りの冷たい地下牢は、黴臭く、薄ら寒い空気が漂っていた。

 まさか、牢屋に入れられる日が来るなんて……。

 私は牢屋に押し込められて、ガチャンと錠前が大きな音を立てる。震える体を抱きしめるように、膝を抱えて座った。

 衛兵が言うには、日付が変わった夜明け前に辺境の修道院に向かうらしい。

 やってもいない罪を被せられ、王宮を追放される。悔しくて仕方がなかった。



「ふふ。牢屋がお似合いね。誘拐犯さん」



「ヘンリエッタ……」



 カツン、カツンと足音が近づいてきたと思ったら、やってきたのはヘンリエッタだった。

 私がぎっと睨むも、彼女の嘲るような笑い声が鼓膜を震わす。



「なぁに、その表情。罪人のくせに生意気ね。少し反省したらどうかしら?」


「私は誘拐なんてやってないわ! あなたが何か糸を引いているんじゃないの!?」


「そんなことはどうでもいいのよ。たかが子爵家の娘のくせに本当に目障りだったわ。いなくなってせいせいする!」


「……どういうことなの」


「同期の私たちは何かと比べられていたわ。私の方が身分も上で入団テストもトップで通った。あなたなんて取るに足らない存在だった。それなのに、優秀だと褒められるのはあなた。重要な仕事を任されるのもあなた。何度煮え湯を飲まされたことか! 私がほしかったものをあなたがすべて奪っていった。だから取り返したまでよ」



 同期のヘンリエッタからそんな風に思われていたのね。

 何かと目の敵にされていた理由がやっとわかった。

 上司であるホーマー様は私を褒めてくださるし、重要な仕事も任せてもらったこともあるけれど、おそらく育成の一環なのに。



「取り返すって……私はあなたから何も奪っていないわ。私はその時にできることをしていただけ」


「だまりなさい、罪人が。ああ、気分が良いわ。あなたの顔を見るのが最後だと思うと。二度と王宮に足を踏み入れないで」



 ヘンリエッタが吐き捨てるように言うと、そのまま踵を返し地下牢を去っていった。

 私はその姿を呆然と見つめることしかできなかった。




 ◆ ◆ ◆





 ガタゴト、ガタゴト。

 夜明け前、木製の檻のような馬車に乗せられて、王都から追い出された。

 ご丁寧にも術が発動できないタイプの馬車だ。逃走防止のための措置だろう。その馬車を二人の兵士が私を護送していた。

 少しずつ顔を出してきたレモン色の朝日が眩しくて、目を細めた。



「はぁ……」



 昨夜からため息が止まらない。

 当たり前のように朝日は昇るけれど、私の人生は変わってしまった。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 自分の身に起こったことが信じられなくて、地下牢で声を押し殺して、一晩中泣いてしまった。きっとまぶたは腫れぼったくなっているだろう。

 そう思うと余計に溜息が零れた。



「水術師のお仕事、できなくなっちゃったなぁ……」



 水術師とは文字通り、水を操る魔術師のこと。

 家族のために働き始めた水術師の仕事だけど、適性もあって、思いのほか面白くて楽しくて。

 術師としてはまだまだひよっこな私。でも幸運にも王宮術師団に所属でき、その一員として誇りをもって仕事をしていたのに。

 王宮を追放されたことで、同時に仕事を失ってしまった。


 これから辺境の修道院へ向かうらしいから、修道女として生きていくのかな。

 没落した貴族の家だから婚約者なんていないし、そこは心配ないんだけど、家族を支えることができなくなるのは堪えるな……。

 ちらりと馬車から見える風景を見ると、いつの間にか薄暗かった。

 裏街道を走っているのか、陽の光が届きに難いうっそうとした木々に囲まれた道になっていた。



「どこを走っているのかしら……きゃああっ!」



 突然、耳を劈く音とともに、視界が激しく揺れた。景色がぐるりと転がり、天井が下にあるなと認識したとたん、全身に衝撃があった。



「いたっ……」



 気がつけば、全身で土の感触を感じていた。

 どうやら馬車が横転し、投げ出されたようだ。木材で作られた檻はぼろぼろに砕けている。

 私は檻から這い出て、ギシギシと痛む体を、なんとか起こして立ち上がった。

 すると、ギンッと剣戟の音が響いた。



「な、何……?」



 体が竦むけれど、すぐに身構えて視線を走らせる。

 二人の兵士が誰かと戦っていた。馬車が横転したのはこのせいかしら。

 よく見ると兵士たちと剣を交えているのはひとりの男だった。

 兵士より頭ひとつ高く、引き締まった体躯から繰り出される剣さばきは……速い!

 ランドリック王国の兵士は優秀だ。その兵士二人を相手に互角に戦っている。

 一体何者なの?


 息を飲んで戦況を見定めていると、兵士のひとりが私に気がついた。

 しまった、見つかったわ!

 すぐさま私に向かって、剣を構えて駆け出す。

 背筋がぞわりと粟立ち、心臓がバクバクと早鐘を打つ。

 私は慌てて水術の詠唱をするけれど、……だめ、間に合わない!




 ガキンッッッッッ




 衝撃を覚悟したのに、私の身には何も起こらなかった。

 反射的につむってしまった目を恐る恐る開いてみると、目の前には私に背を向けて兵士の剣を受け止めている男がいた。



「無事か!?」



 声を掛けられた私は、目を丸くして、こくこくと頷くことしかできない。

 こちらを見たブラウン色の前髪からのぞく双眸は、黄金色の虹彩が力強く輝き印象的だ。

 どうして私を助けてくれたのか、何もわからない。

 けれども、どこかで見かけたことがあるような……。



「その女を渡せ!」


「断る、と言ったら?」


「お前を切るだけだ!」



 兵士が一度後ろに引いて、もう一度踏み込んで剣を振るってきた。

 男が対応しようとすると、隙をついて別の方向からもうひとりの兵士が襲ってきた。



水壁結界(アクアウォール)!!」



 先ほど途切れず詠唱していた水術を解き放つ。



 ゴオオオオオオッッッッッッ



 激しい水音を響かせ、巨大な水の壁が私たちを取り囲むように生まれる。



「わわっ! どうしよう、また大きすぎるものを生み出しちゃった!」



 優秀な術者が繰り出す水術の、三倍ほどの大きさの効果が現れてしまう。

 ああ、どうしていつもこんな魔術になってしまうの!?

 それでも斬撃を繰り出した二人の兵士は、巨大な水の壁に大きく弾かれ、体勢が崩れた。



「見たことのない素晴らしい水術だ! 王宮追放なんて惜しい」



 水の壁が消失したと同時に、男があっという間に兵士との間合いを詰めると、剣の柄頭で腹部をドンッと一突きしたように見えた。

 そして、もうひとりの兵士にも間髪入れずに近づき、同じ攻撃を繰り出した。

 早すぎて私の目では追えなかったけれど、重い一撃だったのだろう。

 ドサッと音を立てて、二人の兵士は体を二つに折り曲げ崩れ落ちた。

 兵士たちからはうめき声のひとつも聞こえず、気絶しているようだった。



「す、すごい……」


「さ、今のうちに早く!」



 この状況に私が呆然としていると、男に腕を取られぐいっと引っ張られた。



「え、ええ!?」



 あっという間に抱き上げられて、いわゆるお姫様だっこ状態で男が駆け出した。



「しっかり捕まって!」



 私は慌てて男の首に腕を回し縋りついた。

 それを確認した男は、ぐんぐんスピードを上げて走っていく。

 木々に覆われた薄暗い道を器用に駆けていく。



「良かった。君を助け出せて」



 ふと零れた男の呟きを拾って、顔を上げた。



「あの、ありがとうございます」


「今度は俺が君を助けるって決めていたんだ」


「き、決めていた?」



 眉根を寄せた私に、ふっと目を細めて微笑んだ。



「俺は君に会いたかった」


「え……?」



 私は目を瞠って男の顔を見つめた。

 その時、脇道の出口に到着して光があふれた。

 思わず目をつむってやり過ごそうとしていたら、大きな声で声をかけられた。



「殿下! こちらです!」



 で、殿下!?

 目を開けるとそこには立派な馬車が停車していて、二人の身なりの整った男がこちらに向かって頭を下げた。



「次は馬車で移動だ。急ごう。さぁ、乗って」



 すとんと丁寧に下ろされた私は、思ったよりも背の高い彼を見上げた。

 よくよく見ると、令嬢たちの熱い視線を集めそうな端正な顔立ち。

 そして爽やかな印象を受ける容貌は、王宮に身を置く者であれば一度は目にしたことがある。



「殿下って、まさか……王太子ローク・ランドリック殿下ですか……?」


「そうだよ。イシュカ・セレーネ。久しぶりだね」



 久しぶり……?

 私はきょとんとして、殿下をまじまじと見つめてしまった。

 私の二つ上の御年ニ十歳の王太子殿下。

 王族が臨席する式典でお見かけするくらいで、一介の術師である私と面識があるはずがないんだけど……。




 ◆ ◆ ◆




「殿下、出発します」


「ああ、頼む」



 殿下にさり気なくエスコートされて馬車に乗り込むと、馬車は進みだした。

 檻のような馬車とは全く異なり、揺れが少なく快適に座っていられる上級の馬車だ。

 その上、馬の質も違うのかスピードがぐんぐん上がっていく。

 車窓の外を見てみると、裏街道ではなく、遠くに街の風景も見える表の街道を優雅に走っていた。



「ここまで来たら追っては来ないだろう。安心していいよ」


「あ、ありがとうございます」



 良かった。助かったみたい。

 ほっと安心して全身の力が抜けた。ずっと体がこわばっていたからか、随分と疲労を感じる。

 気を少し緩めたせいか、王太子殿下の存在が急に気になり、そわそわする。

 だって、没落貴族の私が殿下と同じ馬車に乗るなんて、恐れ多すぎる……。

 向かいの席に座っている殿下をちらりと見ると、視線がばちんと合った。

 目を丸くして固まる私とは対照的に、殿下は目を細めてにこにこと微笑んでいた。殿下の微笑は眩しい。

 もしかしてずっと見られていたのかしら。

 は、恥ずかしい……とたんに頬が熱くなった。



「今までゆっくりできなかっただろう? ここでは寛いでほしい。少し時間がかかるからね」


「あの、殿下……この馬車はどちらに向かっているのでしょうか?」



 微笑みに負けてしまいそうなので、視線をそらしながら、気になっていたことを口にした。



「カスタリアだよ、イシュカ」


「カ、カスタリア!?」



 また私は目を丸くして、体が固まってしまった。

 カスタリアといえばこの国の辺境の地のひとつ、デルフィ地方にある街。王都から馬車で何日もかかってしまう地域だ。

 辺境の修道院へ連れていかれる予定だったが、また別の辺境の地へ行くというのか。



「あの、私は辺境の修道院へ行かされると聞いていましたが、別の辺境の修道院へ行くのでしょうか? それとも……」 



 自分の言葉にはっと気がつき、ザアッと青ざめた。

 わざわざ殿下が来たのだ。処罰が重くなったってことなのでは……。



「も、もしや……殿下はさらに厳しい処罰のためにこちらに……」


「違うよ、イシュカ! 俺はそんなことをしに来たんじゃない!」


「え、違うんですか?」



 慌てて弁解をする殿下の姿に我に返った。

 気が遠くなりかけたけれど、そうではないらしい。



「君の処罰は聞いたよ。ただの冤罪だ。代わりに謝らせてくれ。君に申し訳ないことをした。すまない」



 唐突に、真摯な態度で殿下がすっと頭を下げた。



「頭をお上げください、殿下! 殿下の判断ではありませんし、身分の低い私に頭を下げるなど……」



 慌ててすぐに頭を上げてもらった。心臓に悪すぎる。

 でも、まさか王族の方に頭を下げられるなんて。

 殿下は身分の低い者に対して、非を認め謝罪ができる方なのか。

 昨夜の宰相閣下の姿を見ているだけに、正直驚いた。



「気をつかわせてしまったね。シャーロット嬢とその取り巻きたちの行為は、たびたび報告が上がっていたんだ。父親のオズウェン公爵に何度も申し入れを行っているんだが、娘に限ってそんなことはないと聞き耳を持たない」


「そのようなご様子でした」


「皆困っているんだが、権勢を誇るオズウェン公爵を諫めるものはいない。俺も力不足で、君を助け出すくらいが精一杯だった」


「いえ、私にとっては十分です。殿下、助けていただきありがとうございました」



 眉根を寄せ、悔しそうな表情を見せる殿下に、私は深々と頭を下げた。

 理不尽過ぎる王宮からの追放だった。

 私一人では助かりようもなく、まさか助け出されるとは思ってもみなかった。

 助けてもらったことに感謝しかない。



「今度は俺がイシュカを助けるって決めていた、と言っただろ?」



 そう言えばおっしゃっていた。

 身分差のある私と殿下では、顔を合わせる機会なんてほぼ無いに等しいんだけど。

 失礼とは思いながらも、聞かずにいられなかった私は恐る恐る伺ってみた。



「あの、どうして助けてくださったのですか? 殿下と私は……その、どこかでお会いしたことが?」


「うん。会っていたよ。まぁ、君が覚えているかどうかは賭けだったけどね」


「も、申し訳ございません」



 眉を下げた悲し気な殿下の表情がいたたまれなくて、私は俯いた。

 必死に思い出そうとするけれど……一体、どこで……?

 没落貴族であるうちの家は社交界に出ることがないし、水術師として式典に出席したところで、王族席にいる殿下を見るだけだ。



「君が覚えていないのも無理はないよ。出会ったとき、俺は心身ともにぼろぼろだったからね」


「ぼ、ぼろぼろ?」



 思わずきょとんとしてしまう私に、殿下がふっと微笑んだ。



「ああ。君と出会ったのはデルフィ地方での隣国との戦争が終わり、俺が王都に帰ってきた時だ」


「デルフィ地方の……あ、二年前の戦争……」



 二年前、ランドリック王国に突然隣国が戦争を仕掛けてきた。

 あやうく領地を奪われかけたのだが、間一髪ランドリック王国が退けたのだ。

 戦争は一年に渡り犠牲は大きかったが、戦勝国であるランドリック王国は隣国に領地を広げることに成功した。

 当時、十八歳で指揮を執っていた王太子殿下は民からの人気が急上昇して、称えるためにある二つ名で呼ばれていたはず。



「そうだわ、カスタリアの雷火(いかずち)!」


「はは、確かにそう呼ばれていた時もあったね」



 殿下は照れたように頬をかいた。

 当時、新聞からもたらされていた情報が、殿下は二つ名で呼ばれるくらい強く勇敢で、それは稲妻のごとく敵の攻撃を物ともせず撃破していたらしい。

 さっきの戦いぶりをみれば納得だ。きっと士気も上がったに違いない。



「戦争から帰還した後、王都のはずれに建てた野戦病院に、兵士たちが集まって治療を受けていたんだ。俺もそれなりに傷を負っていたから、兵士たちに交じってそこにいた。怪我人が多くて医者が足りなくてね。ほどなくして水術師の一団が派遣されてきたんだ。そこにイシュカがいた」


「確かに野戦病院に派遣されましたけど……え、殿下がそこにいらしたんですか!?」



 意外過ぎる話に、私は目を丸くした。

 水術師は回復・補助・防御系の術がメインだから、怪我人の治療のために任務がある。その時、新人中の新人だった私にも任務が下った。

 でも、野戦病院は一般兵のための病院であって、上位貴族が治療をうけるべきところじゃない。ましてや王族なんて。

 しかもあのとき傷ついた兵士が大勢いて、まさにみんなぼろぼろだった。

 まさか指揮官であり、王太子殿下がまじっているなんて思ってもみなかった。



「イシュカは今日みたいに素晴らしい水術を使っていたよ」


「す、素晴らしい? ……あの、誰かとお間違えじゃないですか?」



 私は水術師だけど、魔力コントロールが苦手で水術の発動時にムラが出てしまう。

 だいたいは効果が大きすぎて、いつも先輩たちをポカンとさせてしまっているのだけど……。



「いいや。イシュカだったよ。イシュカの水術は他の術師とは違って、回復力がとても高くて。俺の傷もすぐに癒えた。兵士の間で聖女様がいる、ってうわさになっていたくらいなんだ」


「聖女!? やめてください、私んな大層な人物じゃないですよ!?」


「いいや、本当に聖女のようだったよ。俺もそう思っていたし」



 そんな分不相応なうわさが立っていたの!?

 ぶんぶんと首を横に振って否定するけれど、殿下はにこにこと表情を崩さない。



「それにイシュカは一人ひとりに声をかけていただろ? 『おかえりなさい。命を落とさず帰ってきてくれたこと、あなた方の勇敢さを誇りに思います』って。兵士たちは感激していたんだ、イシュカのその言葉に」


「そう、だったんですか……」



 まさか、私の言葉で……。私にからすれば、当たり前の言葉だ。

 新人の私は戦争の前線に行く指示はなかった。前線で国民を守ろうと戦ってくれた人たちに、感謝をしてもしきれない。

 生きて帰ってきてくれただけでも、ありがたいと思っている。



「俺も、その言葉に救われた」



 朗らかに語る声から一転、真剣な声が響いた。



「当時、母である王妃が病死して後ろ盾がなくなった俺は、実権を握っていたオズウェン公爵の暗躍で廃太子の動きもあってね。その動きのひとつとして戦争の指揮をすることになったんだ。それがあの戦争なんだが、王太子という立場なのに不自然だろう?」



 こくりと頷く私を見て、殿下は目を伏せた。



「戦争で死んだ方が、オズウェン公爵にとっては都合が良かったんだろう。王宮で味方がいない状況に投げやりになって、この戦争で散っていいと本気で思っていた」


「そんな」


「でも、生き抜いてしまったんだ」



 絶望も悲しみも混ぜ込んだような響きに、胸が痛くなる。

 勇敢な戦いぶりの裏で、そんなことを考えていたなんて。



「でも、イシュカに出会ってそうじゃないって思った」


「え……」


「帰りを待ってくれる人がいて、誇りに思ってくれる人がいる。それだけで生きていけると思ったんだ。俺は君に助けられたんだ」



 殿下は手を伸ばし、私の両手を取るとぎゅっと握った。

 慌てて反射的に手を引こうとしたけど、殿下の力が強くてかなわない。



「だから、今度は俺が君を助けるって決めていたんだ」



 顔を上げると、真摯で、それでいて熱を伝えてくるまなざしに見つめられていた。

 目が、離せない。

 私は急激に体温が上がり、トクトクトクと心臓の鼓動が身体中に響く。

 殿下に握られた手が、熱く痺れているようだった。



「いつまで女性の手を握っているおつもりですか?」



 突然、馬車のドアが開いて声をかけられ、殿下の手が緩んだ隙に、ぱっと手を離した。

 そこにいたのは側近の方。

 人に見られていたなんて、恥ずかしい! 



「いいところだったのに。ワザとだろ」


「ワザとなもんですか。宿場町に着きましたよ。馬車が停車したことに気づかなかったんでしょう?」


「まぁ、そうだな。イシュカしか見えてなかったから」


「で、殿下!?」



 甘さを含む言葉をさらりと言われて、さらに頬が熱くなった。



「はいはい。夢にまで見た聖女様を前に浮かれているのは分かりますが、イシュカ嬢もそろそろ身綺麗にしたいんじゃないでしょうかね?」



 指摘されてはっと気がつく。

 そういえば、私ほこりまみれだった!

 檻のような馬車に乗せられ、その馬車が横転し戦いに巻き込まれて、お世辞にも綺麗な状態とはいえない。

 王太子殿下の前なのに、女性として恥ずかしい……。



「も、申し訳ございません! こんなお恥ずかしい姿で……」


「すまない。気遣えればよかったんだが」


「そうですよ。どうせ彼女が持ってきた荷物もあちらの馬車に置いたままでしょう?」


「あー、そうだな。すまない、イシュカ」


「と、とんでもございません!」



 申し訳なさそうに眉を下げる殿下に、私はぶんぶんと首を横に振る。

 荷物と言っても必要最低限の物しか許されなかったから、大したものは入れていない。



「イシュカ嬢、必要なものはこちらで揃えます。今日宿泊する宿屋の女主人にも伝えていますから、何かあれば申し出てください」


「お手をわずらわせてしまい、申し訳ございません。ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


「甘えて、イシュカ」



 私物を持っていないというどうにもならない状況なので即決したけど、助けてもらってばかりだから、私こそ申し訳なさでいっぱいだった。

 だけど、一言言わせていただきたい。

 殿下、そんな甘い微笑みを一般女子に安売りしたら、糖度が高すぎて失神者がでますよ!





 宿場町に到着した私たちは、宿泊する宿屋へすぐに移動した。

 宿屋の浴場も使わせてもらえたから、やっと人心地がついた気がする。

 用意された一室には新しい服として白のシルクのローブが揃えられていて、追放された身としては本当にありがたい。

 新しいローブに袖をとおした後、私は呼ばれていた宿屋にあるレストランの個室に向かった。



「お待たせいたしました、殿下」


「イシュカ、ゆっくりできたかい? 似合っているよ、そのローブ。君の美しい銀の髪に、やさしげな水色の瞳にぴったりだ」


「あ、ありがとうございます。こんな素敵なものまで用意していただいて……」



 さらりと褒められて、思わず真っ赤になってしまう。

 個室に迎え入れてくださった殿下に感謝を述べると、にこにことうれしそうに微笑んでいた。

 その微笑みに負けしまいそうになる……と思っていた矢先、二人の側近がやってきた。



「イシュカ、紹介するよ。この二人は俺の側近のメルヴィン・ハーコートとグレッグ・トレムスだ」


「水術師のイシュカ・セレーネでございます。この度は助けていただきありがとうございます」



 私は片膝を折り、心臓に右手を当てて挨拶をした。これは王宮術師として正式な挨拶だ。



「確かに王宮術師団に所属する水術師ですね。私はメルヴィン・ハーコートです。あなたはなかなか賢い女性のようだ」


「恐縮でございます」



 私が正式な挨拶をしたのは、身分が確かなものであると確信してもらうためにとった行動だと、メルヴィン様はすぐに見抜いたようだ。

 落ち着いて見れば、王太子殿下の側近として令嬢たちに注目される存在で、王宮で働いて入れば嫌でも耳に入ってくるお二人だ。

 メルヴィン様は確かハーコート公爵家の嫡男だったはず。にこやかに微笑みながらも、鋭さをひそませた頭の切れる方のようだ。

 ということは、メルヴィン様のお隣の方がグレッグ様。この方はトレムス辺境伯家の次男と聞いたことがある。物静かなご様子で騎士のお手本のような体躯を持っている。



「オレはグレッグ・トレムスだ。堅苦しいのはあまり好きではないからグレッグでかまわない」


「じゃあ、私もメルヴィンでお願いします。イシュカ」


「ええっと……」


「ちょっと待て、二人とも! それはズルいぞ!」


「何がズルいんですか。殿下は王太子という立場でしょうが」


「イシュカ、俺もロークでかまわない。ロークと呼んでくれ」



 メルヴィン様の言葉を振り切り、殿下は必死に私に訴えてくる。

 私はとまどいを隠せず、不敬にあたるのではないかと思い言葉をにごそうとした。



「でも、殿下それは……」


「殿下はなしだよ、聖女殿」


「わ、私、聖女じゃないですよ!?」


「ロークって呼んでくれないと、聖女殿と呼び続けるよ」


「ええ!? そ、それはちょっと……」


「ロークだよ、イシュカ。呼んでごらん」


「……ロ、ローク様」


「ありがとう、イシュカ。本当は敬称もいらないけど」



 殿下の圧に屈してしまった。

 敬称もなしなんて不穏な言葉もあったけど、それは聞こえなかったふりをするしかない。

 うう……でも……、私はぱっとメルヴィン様の方を振り向いた。



「私、大丈夫ですか!?」


「好きに呼んであげてください。あなたと再会するのを楽しみにしていましたからね。それに、ああ見えて王太子なので暗殺者に狙われてもおかしくないのです。二つ名で呼ばれるほど強い方ですが、殿下と分からない方が助かるんです」


「そ、そうですか……」


「メルヴィン、イシュカと話すのはもういいんじゃないか?」


「はいはい。食事にしましょう。狭量な男は嫌われますよ」



 むすっとした殿下の物言いに、冷めた目で返すメルヴィン様。

 その二人をほったらかしにして、グレッグ様はマイペースに私に着席するように勧めてくれた。

 仲が良いのね。阿吽の呼吸で流れるやりとりに感心してしまった。

 ほどなくして料理が運ばれ、私は丸一日ぶりに食事をすることができた。



「美味しいお食事をありがとうございました。何から何まで助けていただいて……あの、何か私にできることはないでしょうか?」



 食事が終わった後、隣に座っていた殿下に問いかけた。

 たくさん助けてもらったのだから、やはり恩返しをしたいと思う。

 すると、殿下が改まり真剣なまなざしを私に向けた。



「実はイシュカに力になってほしいことがあるんだ」


「何でしょうか?」


「これからカスタリアに向かうのには理由がある。俺は戦争の褒美としてカスタリアを領地としてもらったんだが、そこで領地経営をしている」


「え、自らですか?」


「そうだ。今ランドリック王国は、宰相であるオズウェン公爵が王族を政治の表舞台から排除し、実権を握っている」



 政治の舞台裏を聞かされて息を飲んだ。

 少し眉根を寄せた殿下の話を引き継ぐように、メルヴィン様が話し出した。



「宰相はカスタリアの雷火として民から人気のあったローク様を、実は怖がっているのですよ。だから、実権を取られる前に排除したのです。さらには娘のシャーロット嬢を王太子妃に据えて、傀儡にしようと企んでいます。政治のバランスを考えれば、シャーロット嬢を王太子妃にするのは愚の骨頂です」


「国王……父上はもともと体が弱くてな。そこを突かれて、オズウェン公爵に政治の実権を握らせてしまった。俺はそれを取り戻したい。ただ、剣ばかり握っていた俺では宰相と比べると実力不足。政治能力を身に着けるために、カスタリアで領地経営をして発展させ、結果を出すことで実力をつけたいと思っている」


「それで領地経営なんですね」


「ああ。だが、今問題がある。グレッグ、地図を」



 はい、と返事をしたグレッグ様がテーブルに地図を広げた。

 覗き込むとカスタリアが自然豊かな地域だと分かる。一番目につくのは川や泉だろうか。



「カスタリアは水資源が豊富な地域だが、上手く使いこなせていないんだ。水術師であるイシュカなら水をコントロールし、この地に富を持たらすことができるんじゃないかと思っている」


「私がですか?」


「優秀な水術師だからお願いしているんだ。イシュカ、力になってくれないだろうか?」



 私が殿下の力に……。恩返しとしてこれ以上のものはない。

 これからどうすればいいのか困っていたけれど、私はまだ水術師として必要としてもらえる。

 それがうれしくて、胸のあたりがほわりと温かくなった。



「もちろんです。私にできることなら何だってさせてください」


「ありがとう、イシュカ」



 未来の王たるこの方のために、少しでも力になろうと私は心に決めた。




 ◆ ◆ ◆




「ヘンリエッタ、この間は楽しかったわね。あなたのアイデアだった追放劇は良かったわ。とってもスリリングだった」



 妃教育もそこそこに、王宮で与えられた部屋でシャーロット様が紅茶を楽しまれていた。



「恐れ入ります」


「イシュカだったかしら、気が強そうなのにショックを受けていた姿は傑作だったわね」



 にこやかに微笑まれるシャーロット様は天使のように見えるが、心根は悪魔のような方。

 さすがこの国の実権を握る宰相の娘だ。

 このシャーロット様の歪んだ趣味を利用して、イシュカを追放できたことに私はほくそ笑んだ。



「でも、わたくしを使うなんてたいしたのものね、ヘンリエッタ」



 カチャン、とティーカップを置いた音が響き、はっと息を飲んだ。



「……何のことでしょう?」


「わたくしが気づいていないとでも? あなた、あの水術師が気に入らなかったのでしょう? うふふ、いいのよ。わたくしは心が広いから。ヘンリエッタが水術師として活動しやすくなってうれしいわ」



 微笑みをたたえたまま、シャーロット様が私に視線を向けた。



「それにちょうどほしかったのよ。わたくしのためにどんなことでも働いてくれる者が」



 背筋に嫌な予感が流れた。

 一体、何をさせる気なのかしら……? この方の思いつきは、ろくなことがないから。



「うふふ、今じゃないわよ。そう怯えないで、ヘンリエッタ。そうだわ、お父様にお願いがあったのよ。王都で今人気のデザイナーに新作のドレスを作ってもらいたいと思って」


「そうなんですね。新作だなんて素敵ですわ。シャーロット様がお召しになれば王都で流行しそうですね。では執務室へ向かわれますか?」



 ええ、と返事を聞き、私はシャーロット様に付き添った。



 ◆ ◆ ◆



 宰相の執務室へ入ると、宰相閣下と新人の補佐官の他に水術師長であるホーマー様がいた。



「お父様、お話があるの」


「シャーロットか。そちらに座っていなさい。話はあとで聞く」



 視線だけをシャーロット様に向けた閣下は、すぐに部下たちに視線を戻した。

 そんな父親の様子にシャーロット様が訝しげな表情を浮かべた。



「お父様、どうなされたのです?」


「どうやら疫病が我が国に入って来たようだ。同じ大陸にある国々で発症していると報告が上がっていたのだが……とうとうわが国にも来てしまった」


「まあ。疫病なんて怖いですわ。大丈夫ですの?」


「疫病は厄介だが、一年に一度は誰もがかかる病が流行る。そうやって民は免疫力をつけていくものだ。ただ、放置すれば王都の経済が機能しなくなることは明白。だとしたら対処の仕方も決まっている」


「それは?」


「毎年流行り病に対処するために、水術師の一団にポーションを作らせて対処している。そうだな、水術師長」


「さようでございます」



 閣下の問いに、ホーマー様がこくりと頷いた。



「今年も問題なくできるな?」


「お作りさせていただきますが、ただ……」


「ただ? 何だ?」


「……今年は作製のスピードが落ちるかと思います」



 私はホーマー様の言葉に目を見開いた。

 どういうこと?

 毎年何の問題もなくポーションは作っている。今年に限って何が問題なのよ?

 鋭い目つきでホーマー様に視線を向ける閣下の代わりに、傍に控えていた新人補佐官が質問をする。



「水術師長殿、なぜスピードが落ちるのでしょうか? ポーションの作製において基本的なプロセスは誰がやっても同じだと思うのですが」


「おっしゃる通り、基本的なプロセスは誰がやっても同じです。しかし、疫病に効くポーションを作製するには、実は水の成分の鑑定が肝なのです」


「薬草の種類とかではなく、水の成分ですか?」


「そうです。薬草がメインであれば医療にたずさわる者が作っております。しかし、こういった疫病などのポーションになりますと、ポーションの土台となる水の成分がもっとも重要になるのです」


「なるほど。だから、水術師がポーションを作るということになるんですね」


「さようでございます。ただし、水の成分の鑑定はもっとも難しいものなので、できる者が限られているのです」


「できる者とは誰だ?」



 閣下が威圧的な声で問えば、ホーマー様がびくりと肩を揺らした。



「誠に申し上げにくいのですが……」


「申してみよ」


「王宮を追放された、イシュカ・セレーネでございます」


「……あの小娘だと?」


「はい。毎年、ポーションを作製するための水の成分の鑑定はイシュカの仕事でした。水術師にとって水質鑑定というスキルは高度なスキルです。水術を新たに生み出すにも、水の成分を基にして組み立てますから重要なスキルです。イシュカは水術師の中でもっとも高い能力の持ち主でした」



 ホーマー様の言葉にカチンときた。

 なんでイシュカばかりが評価されるのよ。あんまりだわ!

 私だって毎年ポーションを作っているし、水質鑑定くらいできる。

 優秀な私さえいれば問題ないはず。



「そのスキルの持ち主は小娘一人だけではなかろうが」



 顔をしかめた閣下が私にちらりと視線を向けた。



「確かにここにいるヘンリエッタも鑑定はできますが……もっとも早く正確に鑑定結果を出せていたのはイシュカです。そのイシュカがいない今となっては、鑑定結果が出るスピードが格段に落ちてしまうのは否めません。鑑定結果がでないことにはポーションの土台が作れませんので」



 私はホーマー様の言い分に、ぎりりと奥歯を噛み締めた。



「ポーションの土台がすぐに作れないということですか!? じゃ、じゃあ完成は……?」



 パニック気味に叫んだ補佐官に対して、ホーマー様が気まずげに視線をそらしながら答えた。



「完成は例年より大分遅れることになりますね……」


「疫病対策は最初が肝心なんですよ! そのためスピードが求められます。それができないというのですか!」


「そうおっしゃられましても……」


「誰がそんな優秀な者を王宮追放なんかに……」



 補佐官の侮蔑の色を含んだ声音に、宰相はぴくりと片眉を跳ね上げた。



「わしの判断が間違っていたというのか」


「か、閣下の判断でしたか!? め、滅相もございません……」


「私が水質鑑定のスピードを上げます! イシュカなんていなくても水術師の仕事に問題はありません!」



 私はたまらなくなって叫んだ。

 悔しい!

 イシュカばかりが評価をされているこの状況が我慢ならない。

 だったら、私がいかに優秀で貴重な存在なのか分からせればいい。



「ヘンリエッタ、そんな無茶を……」


「お願いよ、ヘンリエッタ。わたくし疫病にかかるなんて嫌よ」


「シャーロット様、私にお任せください」



 ホーマー様が不安そうに見つめてくるが、振り払うかのように私は自信満々に微笑んだ。



「水術師長、良い部下がいるではないか。ポーションの作製を最優先にし、今いる人員で最大限の力を使え。できうるだけ早く完成させろ」


「……かしこまりました」



 閣下に褒めてもらい、私の気分はやっと浮上した。

 イシュカなんて、いらない。

 私の実力を存分に見せつけてやるんだから。





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