第3章 光の目覚め①
第一部 「旅立ちの朝」
東の大森林の端で、朝日が木々の間から差し込み始めていた。アカネは光の杖を握り、森の出口に立っていた。背中の荷物の重みが、これから始まる旅の現実を実感させる。
「準備はいい?」
ユイの声が、朝の静けさを破った。銀白の髪が朝日に輝き、その姿は相変わらず神秘的だ。昨夜の戦いが嘘のように、冷静な面持ちで立っている。
「はい...」
返事は自信なさげに途切れた。アカネは一度、森の中を振り返る。見慣れた木々が、まるで見送るように枝を揺らしていた。どこかに祖母の姿が見えるような気がして、もう一度目を凝らす。
「心配しなくても」ユイの声が柔らかくなる。「サヤさんはきっと大丈夫よ。エターナ様が見守っているもの」
その言葉に、少しだけ心が軽くなる。アカネは深く息を吸い、前を向いた。遠く、北方に山脈の稜線が霞んで見える。そこに、最初の目的地である村があるという。
「歩きながら、力の基礎を教えていくわ」
ユイが前を歩き始めた。その背中を追いながら、アカネは新しい一歩を踏み出した。
* * *
一日目の日が暮れかけるころ、二人は街道沿いの空き地に野営の準備を始めていた。
「薪を集めてきて」ユイが指示を出す。「その間に、今日学んだことを復習しましょう」
アカネは周囲の木々から落ちた枝を集めながら、昼間の修行を思い出していた。
(光の力は意志から生まれる...)
ユイの言葉が頭の中で反響する。一日中歩きながら、光の力の基本を教わった。しかし、実際に力を引き出すことはまだできない。
「焦ることはないわ」
戻ってきたアカネの表情を読んだのか、ユイが薪を受け取りながら言った。その仕草は、相変わらず優雅で無駄がない。
「私も、最初は上手くいかなかった」
珍しく、ユイが自分の過去について話し始める。火を起こしながら、その横顔が柔らかな表情を見せた。
「魔法の基礎を学んでいた頃、何度も失敗して...」
言葉が途切れ、ユイは急いで別の話題に移った。しかし、アカネはその一瞬の表情の変化を見逃さなかった。何か、深い思い出が隠されているようだった。
夜の帳が下りる中、小さな焚き火が二人を照らしていた。
「これを飲んで」
アカネは携帯用の陶器の小瓶を取り出し、中身を二つの椀に注いだ。温かな香りが立ち上る。
「薬草茶?」ユイが興味深そうに覗き込む。
「はい。疲れを癒すブレンドです。祖母様から教わった配合で...」
言葉が詰まる。祖母の顔を思い出し、急に胸が締め付けられた。ユイはそれを察したのか、そっと椀を受け取った。
「美味しい」一口飲んで、素直な感想を漏らす。「本当に、疲れが和らぐ気がする」
その言葉に、アカネは小さく頷いた。薬師としての知識が、誰かの役に立つことの喜びは、やはり特別なものだった。
* * *
二日目の朝は、鳥のさえずりで目を覚ました。
「早起きね」
すでに目覚めていたユイが、朝もやの中で短杖を手に立っていた。その姿は、まるで霧の中の妖精のよう。
「今日は、実践的な練習をしてみましょう」
街道を歩きながらの修行が始まる。ユイの指示は的確で、時に厳しかったが、その声音には不思議と温かみがあった。
「光の力は、あなたの中にある」杖を構えながらユイが説明する。「それを引き出すのは、強い意志と、確かな想い」
「想いとは...」
「誰かを助けたい、守りたい。そういう純粋な気持ち」
その言葉に、アカネは村での日々を思い出していた。薬を届けに行くたび、村人たちが見せてくれた笑顔。祖母と二人で薬を調合しながら過ごした静かな時間。
光の杖が、かすかに温かみを帯びる。
「そう、その調子よ」
ユイの声が励ましに満ちていた。
* * *
三日目の昼下がり、二人は農家の荷馬車に便乗させてもらっていた。
「都に野菜を届けるんじゃ」髭面の農夫が説明する。「その道すがら、お二人を乗せてやるくらい、なんてことはない」
揺れる荷台で、アカネは持参した薬草の整理をしていた。ユイがそれを興味深そうに見ている。
「その葉は?」
「解熱作用のあるヤマホロシ。でも使い方を間違えると毒にも...」
話題が弾んだ。薬師と魔法使い、異なる道を歩む二人が、それぞれの知識を分かち合う。時折、ユイの表情が柔らかくなるのが印象的だった。
* * *
四日目の夕暮れ時、街道沿いの小川で二人は足を休めていた。
「ここの水は...」アカネが不思議そうに川面を見つめる。
「気付いたの?」ユイが感心したように声を上げた。
清流に手を浸すと、何か不自然な冷たさを感じる。薬師の経験から、水の様子が普通ではないと直感的に分かった。
「光の力が育ってきているのね」ユイが説明を始める。「この川には、古い時代の魔力が溶け込んでいるの。普通の人には分からないけれど」
アカネは驚いて手を見つめた。確かに、この数日で何かが変わってきている。景色の見え方、空気の感じ方、そして...
「あなたの中の力が、少しずつ目覚めているのよ」
ユイの声には、どこか誇らしげな響きがあった。最初の頃の冷静な態度からは想像もつかない、温かな表情を見せている。
五日目の朝は、濃い霧に包まれていた。
「今日は特別な修行をしましょう」
ユイは霧の立ち込める中、アカネの前に立った。その姿が霧に溶け込みそうになる。
「目を閉じて」
アカネが従うと、周囲の音が一層鮮明に聞こえてきた。風の音、遠くの鳥の声、そして...
「何か、聞こえる?」
「はい...」アカネは集中する。「鈴の音のような...いいえ、違います。もっと澄んだ...」
「その音は魔力の響き」ユイの声が近づく。「あなたの中の光の力が、世界の声を聞き取れるようになってきているの」
目を開けると、ユイが嬉しそうな表情を浮かべていた。その横顔に、一瞬、懐かしそうな影が差す。
「私も、最初にこの音を聞いた時のことを覚えているわ。母が教えてくれて...」
また言葉が途切れる。いつものように、過去の話は最後まで語られなかった。しかし今回は、ユイの表情により深い感情が滲んでいるように見えた。
* * *
六日目の夕方、風の向きが変わった。
「この匂い...」アカネが顔を上げる。
「感じるの?」ユイも足を止めた。
風に乗って、かすかに異様な臭いが漂ってくる。アカネの薬師としての勘が、普通ではない何かを感じ取っていた。
「北からね」ユイが遠くを見つめる。「私たちの目指す村の方角よ」
二人は顔を見合わせた。一週間近く共に過ごし、言葉を交わさなくても、相手の考えが分かるようになっていた。
「急ぎましょう」
夕陽が赤く空を染める中、二人は足を速めた。
七日目の朝は、暗い雲に覆われていた。
街道はゆるやかな上り坂となり、両脇の木々は徐々に姿を変えていく。北方山脈に近づくにつれ、幹はより太く、葉は濃い緑色を帯びていた。
「昨日の風は...」アカネが歩きながら言葉を探る。
「ええ、異常だったわ」ユイも頷く。「でも、それを感じ取れたあなたの感覚は確かよ」
この一週間で、アカネの中の何かが確実に変化していた。景色の見え方、空気の感触、そして何より、自分の内側に眠る力の存在を、おぼろげながら感じられるようになっていた。
「ユイさん」立ち止まって振り返る。「私、少しだけど、分かってきたような気がします」
「何が?」
「光の力って、きっと...」言葉を選びながら続ける。「薬を作るのに似ているんです。色々な要素の調和を感じ取って、それを活かすような...」
ユイの目が僅かに見開かれた。
「その感覚、大切にして」珍しく真剣な表情を見せる。「あなたの持つ力は、きっと...」
言葉の続きは、突然の雷鳴に掻き消された。空が一層暗さを増し、重苦しい雲が頭上を覆う。
「まるで、何かに操られているような天候ね」
ユイの言葉通り、この天候は明らかに不自然だった。二人は足早に進む。昼過ぎには、目的の村が見えてくるはずだ。
* * *
夕暮れ時、ようやく村の輪郭が霞の向こうに浮かび上がった。
「あれが...」
言葉が途切れる。村の上空だけ、妙に濃い霧が渦を巻いていた。街道沿いに建つ古びた石の標識には「ミルトン村」と刻まれている。
村の入り口で、二人は足を止めた。石畳の通りには人影がなく、ただ重苦しい静けさだけが漂っている。家々の窓は閉ざされ、煙突から立ち上る煙もわずかだ。石造りの建物が立ち並ぶ様子は、かつての賑わいを感じさせたが、今は異様な静けさに包まれていた。
「生きているような、死んでいるような...」
アカネの呟きに、ユイが静かに頷く。
「宿を探しましょう」
中心街らしき広場まで来ると、一軒の宿屋が目に入った。「月光亭」という錫の看板を掲げている。窓から漏れる温かな灯りが、この暗い村の中で一際目を引いた。
重い木戸を開けると、暖炉の温もりと、漢方薬のような不思議な香りが二人を包み込んだ。
「お待ちしていました」
静かな声が響く。カウンターの向こうに、年齢を判別できない美しい女性が立っていた。銀色がかった黒髪と、深い知性を湛えた瞳。その佇まいには、どこか超然とした雰囲気があった。
「私はイリス」女性は穏やかな微笑みを浮かべる。「あなたたちを、ずっと待っていたのよ」
アカネとユイは思わず顔を見合わせた。その時、外では雷鳴が轟き、束の間、窓の外が青白い光に照らされる。
イリスの瞳の奥で、何か深い光が揺らめいているように見えた。
第一部 終




