第2章 銀月の導き手(前半)
月は西へと傾きはじめ、夜は最も深い時を迎えようとしていた。
アカネは足を止め、夜空を見上げる。光の杖が放つかすかな明かりが、疲れた顔を柔らかく照らしていた。村を出てからずっと歩き続けている。何度、立ち止まりかけたことだろう。何度、引き返そうと思ったことだろう。
けれど、その度に光の杖が温かく脈打ち、まるで「大丈夫」と囁きかけるかのように励ましてくれた。
(エターナさまの言葉は、本当なのかしら...)
自分の中に眠るという光の力。世界を救うという使命。それらは、まるで遠い夢のような話だった。つい昨日まで、普通の薬師の見習いとして暮らしていた少女に、そんな大それた力があるとは思えない。
風が吹き、野原に生えた草が月光を受けてそよぐ。アカネは思わずその草を見つめた。野路菊の葉だ。祖母と一緒に摘みに来たことを思い出す。
「野路菊の葉は、煎じて飲むと熱を下げてくれるのよ」
祖母の言葉が、まるで風に乗ってここまで届いたかのように蘇る。薬を作る手順を教わった日々。村人たちの病を治した日々。そのどれもが、今は遠い過去のことのように感じられた。
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東の大森林は、人の世界と精霊の世界の境界に立つと言われていた。
巨大な楓の枝上で、一人の少女が静かに佇んでいた。銀白色の髪が月光を受けて淡く輝き、翠碧の瞳が森の入り口に立ち尽くす赤褐色の髪を持つ少女を見つめている。
(やっと来たのね...)
少女は無言で観察を続けた。エターナの予言通り、光の杖を持つ巫女が東の森にたどり着いたのだ。杖はかすかな明かりを放ち、巫女の不安げな表情を照らしている。
初夏の夜風が、幾重にも重なる木々の梢を揺らす。古木の幹を縫うように生えた蔦は、まるで森の血管のよう。その葉の間から零れ落ちる月明かりは、銀色の水滴のように地上へと降り注いでいた。
枝上の少女は、微かに表情を和らげた。目の前の巫女の姿に、かつての自分の影を見たのかもしれない。運命に選ばれ、戸惑いながらも前に進もうとする少女の姿は、どこか懐かしい。
(でも、私と違って...彼女には温かな場所があったのね)
少女——この森で「銀月の導き手」を待つ者は、アカネが時折見せる郷愁の表情を見逃さなかった。
* * *
森の入り口には、樹齢百年を超えると言われる楓の古木が並ぶ。その幹は人の背丈ほどもあり、枝葉は天空へと伸びている。地表には苔が一面に広がり、足音を吸い込むように柔らかだ。
アカネは立ち止まり、深い息を吐いた。今までに見たことのない植物が、至る所に生い茂っている。月光の下で、それぞれが神秘的な輝きを放っていた。
思わず薬師としての習慣が働く。茎の形、葉の付き方、花の色...一つ一つを観察しながら、その薬効を推測していく。祖母から教わった方法だ。
「これは...セージの仲間ね」
アカネは身をかがめ、銀色の葉を持つ植物に触れた。香りを確かめると、確かにセージだが、村で見かけるものとは違う。より芳醇で深い香りがする。
「祖母様が言っていた『銀月セージ』かもしれない...」
伝説の薬草の一つ。月の光を浴びて育つことで、通常のセージの何倍もの効果を持つという。祖母はその話をする時、いつも特別な表情を浮かべていた。
「いつか、あなたも見ることができるかもしれないわ」
その言葉が、今になって意味を持ち始める。祖母は知っていたのだろうか。自分がこうして東の森を訪れることを。
思考が途切れたとき、遠くで梟の鳴き声が響いた。アカネは我に返り、また歩き始める。
光の杖が道標となって、森の中へと導いていく。足元の苔が、かすかに青白い光を放っているように見える。木々の間から差し込む月光が作る影は、まるで生き物のように揺れ動いていた。
歩みを進めるにつれ、森の様子が少しずつ変化していく。樹木の間隔が広くなり、月光の差し込む空間が増えてきた。同時に、見たことのない植物も目につくようになる。
茎が螺旋状に伸びる不思議な蔓草。星型の白い花を咲かせる低木。そして足元には、淡い紫色の花びらを持つ小さな草花。どれも祖母の薬草図鑑で見たことのある、珍しい薬用植物だった。
「まるで...薬師の夢の中にいるみたい」
思わずそんな言葉が漏れる。これほど多くの珍しい薬草が、一箇所に集まっているなんて。そして、その全てが月光を受けて、かすかな輝きを放っている。
ふと、懐かしい記憶が蘇ってきた。
「この森には、普通の薬草とは違う、特別な力を持つ植物が育つの」
7歳の頃、両親を失って間もない頃。祖母は幼いアカネを膝に乗せ、東の森の話を聞かせてくれた。
「でもね、その力を使えるのは、特別な心を持った人だけなの」
「特別な心?」
「ええ。人を思いやる優しさと、truth—真実を見極める強さを持った人」
当時は、おとぎ話のように聞こえた言葉。しかし今、この森に立ってみると、その言葉が持つ重みを感じる。
光の杖が、また温かく脈打つ。アカネは杖を見つめ、小さくつぶやいた。
「私に...そんな資格があるのかしら」
答えはない。代わりに、生暖かい風が吹き抜けていく。その風が連れてきたのは、甘く神秘的な香り。アカネは思わず顔を上げた。
そこには—。
「あれは...!」
思わず息を呑む。青白い花を咲かせる珍しい薬草が、まるで小さな湖のように広がっている。祖母の古い薬草図鑑で見たことはあるが、実物は初めてだった。
「月光草...」
畏敬の念を込めて呟く。伝説の薬草の一つ。強力な解毒作用を持ち、同時に浄化の力も備えているという。祖母はよく言っていた。「一生に一度も見られない薬師がほとんど」と。
花びらは半透明で、月の光を受けて淡く発光しているかのよう。その神秘的な美しさに見とれているうちに、懐かしさと切なさが入り混じった感情が込み上げてきた。
「祖母様...見てください。私、月光草を見つけました」
声が震える。こんな発見をした時、いつもは祖母と喜びを分かち合っていたのに。薬効を確かめ合い、採取の方法を相談し合い、時には夜遅くまで薬の調合を試みた、あの温かな時間。
それが、もう戻らないのだと思うと—。
「戻りたい...」
小さな声が漏れる。そう、本当は戻りたいのだ。安全な村での暮らしに、祖母との薬作りに、何も知らなかった日々に—。
「そう思って当然よ」
突然聞こえた声に、アカネは息を呑んで振り返った。
そこには、月光に照らされた幻想的な光景が広がっていた。
一本の巨木の枝に、一人の少女が腰かけている。銀白色の髪が夜風になびき、翠碧色の瞳が月明かりを受けて神秘的に輝いていた。黒を基調とした装いに、銀の短杖を携えたその姿は、まるで森の精霊のようだった。まさに東の大森林が生み出した存在のように見える。
木々の間を吹き抜ける風が、少女の髪を優雅に揺らす。その周りを、月光草の放つ淡い光が幻想的に取り巻いていた。アカネは思わず、息を呑む。
「誰...?」
アカネの問いかけに、少女は答えない。代わりに、月光草の群生を見つめながら、静かに語り始めた。声音は凜としていて、どこか懐かしい響きを持っていた。
「月光草は、光と闇の境界に咲く花。決して明るすぎず、かといって暗すぎもしない。だからこそ、強い浄化の力を持つの」
その言葉は、まるで森そのものが語りかけてくるかのような深みがあった。アカネは思わず月光草を見つめ直す。確かに、花びらは闇と光の間で、不思議な輝きを放っている。夜風に揺られる度に、青白い光が波打つように明滅していた。
「あなたも今、その境界にいるのね」
少女は軽やかに枝から飛び降りた。その動きは、まるで舞うようだった。着地の音すら立てない。苔に覆われた地面に降り立つ姿は、この森に溶け込んでいるかのよう。月光がその姿を優しく包み込む。
「光の巫女として選ばれた。でも、まだ日常の安らぎが恋しい」
少女が一歩近づく。その瞳には、どこか深い理解が宿っているように見えた。
「その迷いは、決して弱さじゃない」
アカネは息を呑んだ。この少女は、自分の心の内を見透かしているかのようだった。けれど、不思議と恐怖は感じない。むしろ、言葉にできない親近感すら覚えた。
「その杖...」
少女は光の杖に視線を向けた。
「エターナ様から授かったのね」
杖が、まるでその言葉に反応するかのように、かすかに輝きを増す。
「あなたは...」
アカネは言葉を探す。
「もしかして、エターナ様がおっしゃっていた...」
「ええ」
少女の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「私があなたの導き手...のはず」
月明かりの中、二人は向き合った。少女からは不思議な魔力のようなものが漂っている。その佇まいは凛として理知的で、どこか近寄りがたい雰囲気すら感じさせた。
しかし—。
その瞬間、一陣の風が吹き抜け、月光草が光を増した。少女の表情が、ほんの一瞬柔らかくなる。まるで、厳かな仮面の下から、別の表情が覗いたかのように。それは、もっと自然な、少女らしい表情だった。
「私の名前はユイ。あなたを待っていたわ、アカネ」
その声には、どこか打ち解けたような温かみが混ざっていた。木々の間を吹き抜ける風も、穏やかな音色を奏でているかのよう。
「私の名前を...知っているんですか?」
「ええ、もちろん」
ユイは月光草に視線を移す。
「エターナ様から聞いていたわ。赤褐色の髪に、光の杖を持つ少女が来るって。でも...」
ユイはアカネの顔をじっと見つめた。その瞳に、何か深い感情が揺れているように見えた。それは森の奥深くに潜む秘密のように、謎めいていながら、どこか懐かしい温かさを感じさせた。
「予想以上に迷っているみたいね」
「え...」
「分かるの」
ユイの声が柔らかくなる。月光草の光が、その表情をより優しく照らし出す。
「あなたの中の迷い。でも、それは当然のことよ。突然、運命を告げられて、戸惑わない人なんていない」
アカネは胸が締め付けられる思いがした。ユイの言葉は、まるで自分の心を覗き込んでいるようで、それでいて不思議と安心感も覚えた。まるで、ずっと前から知っている人に会ったような感覚。
「私には...本当にできるのでしょうか」
思わず本音が漏れる。
「世界を救うなんて...私には大きすぎる使命で...」
言葉が途切れたとき、ユイの表情が微妙に変化した。厳かな面持ちの下から、何か温かいものが覗いたような—。それは、冷静な導き手としての仮面が、一瞬崩れた瞬間だった。
「一人では、確かに大きすぎるかもしれない」
ユイの声が、夜風に乗って優しく響く。その口調は依然として冷静だったが、どこか温もりのようなものを感じさせた。
「でも、だからこそ私がいるの。二人なら、きっと...」
その言葉が途切れた瞬間、ユイの表情が一変する。月光草が突如、強く光り始めたのだ。森の空気が、一瞬にして緊張に満ちていく。
月光の下、運命の糸に導かれた二人の出会いは、思いもよらない展開を迎えようとしていた。