第1章 明けそめる運命(後半)
午後の陽が傾きはじめた頃、不意に風が止んだ。アカネは薬草園での作業の手を止め、首を傾げた。小鳥たちの声も消え、木々のざわめきも静まり返り、まるで時間が止まったかのような不思議な静けさが辺りを包み込む。
「何だか、変な感じ...」
空を見上げると、薄い雲が渦を巻くように集まってきている。不気味さはないものの、どこか神々しい、神秘的な空気が漂っていた。アカネの心の中に、言いようのない予感が広がる。
「アカネ、そろそろ中に入りなさい」
振り返ると、祖母のサヤが縁側に立っていた。いつもの穏やかな表情の中に、何か覚悟のようなものが見えた。
「でも、カモミールの株の手入れが...」
言葉が途切れた。アカネの部屋の窓から、眩い光が漏れ出しているのが見えた。それは純白の輝きで、見たことのない不思議な温かさを感じさせる。まるで月光のように柔らかく、しかし太陽のように眩い光だった。
「行きなさい」
祖母が静かに言った。
「お前を待っている人がいるようだよ」
戸惑いながらも、アカネは家の中へと足を向けた。階段を上がる足取りは重い。古い木の床が、いつもより大きく軋むように感じる。自分の部屋の前に立ったとき、ドアの向こうから風鈴のような清らかな声が聞こえてきた。
「入りなさい、アカネ。私はあなたを待っていました」
震える手でドアノブに触れる。開いた扉の向こうには、信じられない光景が広がっていた。
部屋の中心で、銀色の長い髪をなびかせる美しい女性が、わずかに宙に浮かぶようにして佇んでいた。金色の瞳は深い慈愛に満ち、純白の衣装は光を放つかのように輝いている。その周りには、星屑のような光の粒子が舞い、神々しい雰囲気を醸し出していた。
「私は世界を司る女神、エターナ」
女神は優しく微笑んだ。
「ようやく、あなたに会える時が来たのです」
アカネは言葉を失った。教科書でしか見たことのない女神が、自分の部屋に現れたのだ。しかも、自分の名を知っている。不思議なことに、恐怖は感じなかった。代わりに、懐かしさにも似た温かな感情が胸を満たしていく。まるで、ずっと前から知っている人に再会したような感覚だった。
「座りなさい」
エターナは、アカネの心の動揺を察したように言った。「長い話になるでしょう」
アカネが震える足で床に座ると、エターナも同じように腰を下ろした。その仕草は意外なほど人間的で、アカネは思わず微笑みを浮かべてしまう。
「アカネ、あなたは特別な存在です」
エターナは真摯な眼差しで語り始めた。
「16年前、私は一つの予言を受け取りました。『深紅の髪を持つ少女が、世界の均衡を取り戻す』という予言を。そして、あなたが生まれた時から、私はずっとあなたを見守ってきました」
「私が...世界の?」
アカネは困惑した様子で自分の髪に触れた。確かに、赤褐色の髪は村では珍しい特徴だった。しかし、それが特別な意味を持つとは。
「あなたの中には、光の力が眠っているのです」
エターナは続けた。
「しかし、その前に知っておくべきことがあります。世界は今、大きな危機に瀕しているのです」
エターナの表情が曇る。窓の外では、雲が更に濃く渦を巻き始めていた。
「千年前、世界は大きな戦いを経験しました。魔王デスティアという存在が、世界を混沌の闇で覆そうとしたのです。彼は...」
エターナの声に、かすかな悲しみが混じる。
「かつては世界を救おうとした英雄でした。しかし、人々の闇の心に絶望し、自ら闇に堕ちてしまったのです」
部屋の空気が重くなる。アカネは息を呑んで、エターナの言葉に聞き入った。
「私たちは何とか彼を封印することには成功しました。でも...」
エターナは一瞬言葉を詰まらせた。
「その封印が、今解かれようとしているのです。そして、それを止められるのは、あなただけなのです」
「でも、私にいったい何ができるのでしょうか?」アカネは小さな声で尋ねた。「私は、ただの村娘です。特別な力なんて...」
「いいえ、あなたの中には確かに光の力が眠っているのです」
エターナはアカネの前に跪き、その手を取った。女神の手は、想像以上に温かく、人間的だった。
「それは魔王を封印できる唯一の力なのです」
その瞬間、アカネの体に不思議な感覚が走る。まるで、長い間眠っていた何かが、少しずつ目を覚ますような。心の奥底で、かすかな光が灯るのを感じた。
「あなたの母は、その力を知っていました」
エターナの言葉に、アカネは息を呑む。
「あの事故も...実は偶然ではなかったのかもしれません」
「母が...?」
胸が締め付けられる感覚。9年前の事故の記憶が、鮮明によみがえってくる。雨の日の出来事。母の最後の笑顔。そして、あの時確かに見た、母の手から放たれた光。
「あなたを守るため、両親は自分たちの命を犠牲にしたのです。そして、サヤさんに全てを託しました」
その時、階下から物音が聞こえた。続いて、祖母の声が響く。
「エターナ様、もう始まっているようです」
エターナは急いで立ち上がった。
「時間がないわ。魔王の力が日に日に強まっている。既に彼の手下たちが世界中で暗躍を始めているのです」
「待ってください」
アカネも立ち上がる。
「祖母は?この村は?」
「心配しないで」
エターナは優しく言った。
「私が守ります。でも、あなたには旅に出てもらわなければならない。光の力を目覚めさせ、魔王を封印する方法を見つけるための旅にね」
エターナは手をかざすと、光が集まり、一本の杖が形作られた。純白の杖は、先端に小さな水晶を携えている。水晶の中には、星空のような光が渦巻いていた。
「これは光を具現化する杖。まだ力の目覚めていないあなたを守ってくれるはずです。そして...」
エターナは意味深な笑みを浮かべた。
「東の大森林で、あなたを導く者と出会えるでしょう」
アカネは震える手で杖を受け取った。不思議なことに、手に触れた瞬間、温かな力が体中を駆け巻るのを感じた。それは母の手のぬくもりに似ていた。
階下からの物音が大きくなる。外では、風が強く吹き始めていた。時間が迫っているのを感じる。
「最後に一つ、忘れないで」
エターナの姿が徐々に透明になっていく。
「アカネ、あなたは決して一人じゃない。光を信じなさい。そして何より、自分自身を信じることよ」
アカネは勇気を振り絞って声を上げた。
「私...きっと、世界を守ってみせます!」
エターナの優しい微笑みが、夕暮れの光の中に溶けていった。部屋には、アカネと光の杖だけが残された。窓の外では、雲が散り始め、新しい夜明けを予感させる夕焼けが広がっていた。
第1章 終