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ザァ、と風が吹きシャーロットの膝くらいまで伸びた草が緩慢に揺れる。
ここは、人が好き好んで立ち入ろうとしない廃墟のような森。草は伸び放題で荒れ果て、日差しは鬱々と生い茂った木の葉によって覆い隠されている。だが、そんな事はシャーロットにとっては些事でしかないのだろう。豊富な魔力量と、卓越した魔法技術を持ち合わせているシャーロットにとって、必要なのは綺麗な場所ではなく一人になれる場所だったから。
ほら、ここでは彼女を見守るのは死人のような草木だけ。思う存分泣くがいい、シャーロット。
獣の咆哮のような、無垢な幼子のような悲鳴にも似たうめき声が、「あぁ……っ」という声を皮切りに幾つも幾つも彼女の薄紅色の柔らかな唇からこぼれ落ちた。
薄暗い森には到底溶け合えない、蝶の鱗粉を纏ったかと見紛う程に美しい銀髪と夏の青い空にもったりとかかる雲のような白い瞳を持つ少女は、表情だけは降雪の前兆を告げる灰色の重たい空のようだった。
その顔が、クシャリと歪められる。瞬間、今まで自分の体を支えてくれていた紐が引き千切られたように、シャーロットの頬を涙が伝った。
自分の頬に手を当てたシャーロットは、自分の頬を流れる水の存在に気づくと、一層涙を顎から滴らせる。
ガンガンと頭が痛むシャーロットの脳裏をよぎるのは、愛した人だった。
『シャーロット、一緒にこの国を豊かなものにしよう』
婚約を結んだ日にシャーロットにそう誓ってくれた愛しい人は、十数年の時が経ち、彼女ではない女を侍らせながらシャーロットを睨みつけ軽蔑の言葉を吐く人になっていた。
『彼女は新入生だから案内していただけなのに、邪推して嫉妬して、彼女の教科書を破いたんだって? 国母となる女がそんな性根だなんてゾッとする。彼女にくだらぬ嫉妬をするな』
「――何故、王太子である貴方が一介の子爵令嬢である少女の案内などするのですか? それにそもそも、私は嫉妬にかられたとてそのような真似は絶対に、しません」
王太子に詰められた時、その剣幕が恐ろしく喉がヒューヒューと音を立てるだけでシャーロットの気持ちは文字にはついぞならなかった。それを、遅ればせながら声に出してみた。
そうすれば心臓が握り潰されたような鈍痛が体の中心から、指の先まで広がっていく。シャーロットは心臓を落ち着かせるように荒い呼吸を吐いた。
"品行方正な王妃に相応しい令嬢"と持て囃された少女は、いつの間にかこんな場所でなければ心の内を出せないただの脆い少女になっていた。
◇◇◇
6歳、王太子との顔合わせの日。シャーロットは目の前に立つアドルフ王太子殿下に胸を高鳴らせた。だって彼の輝く金髪も、澄んだ青空のような瞳も、絵に描いたような"王子様"だったから。
シャーロットは頬をカーッと赤くしながら、必死にカーテシーをする。今まで何度も練習してきたのに、今日に限って足元は覚束なく今にも崩れ落ちそうになりながらシャーロットは挨拶をした。
「オーベリー公爵家が長女、シャーロットです。アドルフ殿下に金の葉の祝福があらんことを」
「君に銀の葉の祝福があらんことを。はじめまして、シャーロット嬢」
恒常の言葉を述べるとアドルフも微笑みながら返す。その言葉に、彼女の心がキュンと音を立てた。"銀の葉の祝福"とは、婚約者となる異性へと述べる言葉だからだ。高鳴ってしまうのは、ある意味必然なのだろう。
幼いシャーロットは、初めての恋に落ちた。
それからは、彼の婚約者として胸を張れるようにシャーロットは研鑽を積んだ。家庭教師に出されたシャーロットの小さな頭1個分位に積み上げられた宿題も必死に終わらせたし、足や腹が筋肉痛になっても、ダンスの練習を怠らなかった。そうして、学園に通う頃には彼女は"品行方正な王妃に相応しい令嬢"と呼ばれるようになった。
「殿下、一緒にお茶しませんか?」
「あぁ、ありがとうシャーロット」
アドルフとも、良好な関係を築けているとシャーロットは自負している。学園のガゼボ。シャーロットの隣でお茶を飲むアドルフに、心臓が痛いくらい鳴る。未だに名前を呼ばれただけで頬が赤くなる自分に呆れ、シャーロットは息をついた。アドルフの微睡んだ猫を彷彿とさせる表情をみながら、シャーロットもティーカップを手に取り口元に運ぶ。
だが、紅茶はシャーロットの喉を滑らなかった。唐突にアドルフが声を上げたからだ。
「そこの君、それに触るのは危険だからやめろ!」
立ち上がったアドルフの視線の先に目を向けると、花壇の近くで座り込んだ少女が花に手を伸ばした状態のまま驚いたように静止していた。シャーロットは、少女が手を伸ばした花が、棘があり素手で触るのは危険な花だと気づくと、顔を青くした。
アドルフは、少女に駆け寄る。シャーロットも紅茶を置き、アドルフの後ろについた。側に駆け寄ると、少女は「えっ、えっ?」と視線を彷徨わせていた。アドルフが少女の手を取る。その躊躇いのなさに、シャーロットは僅かに目を見開いた。王太子であるアドルフが、女性に触れるのはあまり推奨されていない。しかも、初対面の少女だ。
自分ですらエスコートやダンスの時に手を触るくらいなのに……とシャーロットのお腹に硬い石が投げ込まれたような痛みが広がる。
そんなシャーロットには気づかないアドルフは少女の手を注視していた。桃色の髪を持つ少女は、自身の手を握り覗き込む"王子様"に頬を赤らめていた。
――やめて。その人は私の"王子様"なの。
「……刺さってはいないみたいだな」
「あ、ありがとうございます! 私はドロシー•ミュリエールです。助かりました、王子様!」
「……ふふっ、俺は確かに王子様だけど、そう呼ばれるのは初めてで面白いなぁ」
少女は慌てたように顔の前で手を振った。
「えっ!? 本当に王子様だったんですかっ? 絵本に出てくる王子様みたいだったのでつい呼んでしまって……っ! ごめんなさい、私最近子爵家に引き取られた元平民で、王子様の顔を知らなかったんですぅ!」
顔を赤くしたり青くしたりと忙しい少女を落ち着かせるように、アドルフは彼女の肩に手をおいた。
「別に気にしていないよ。……でも君には"王子様"じゃなくて"アドルフ"と呼んでほしいな」
「……え?」
「俺もドロシーと呼ぶから」
シャーロットは震えた。目の前で行われている異常に。自分ですら"殿下"呼びなのに、という嫉妬に。
「……アドルフ殿下?」
「アドルフでいい」
「じゃあアドルフ! 助けてくれてありがとう!」
「あの、ドロシーさん? 流石に王太子殿下に赦されたからといって敬称や敬語を付けないのは些か問題があるかと、」
「五月蝿い! 俺が許可したのだから口を出すな!」
「……っ!?」
シャーロットが体をビクつかせると一瞬アドルフはたじろいだが、また直ぐに眉間に皺を寄せた。
シャーロットは、もう何も言葉にならず「なんだか気分が悪いので失礼します」と早口で言い早足で歩き出した。体全体が心臓になってしまったかのようにどこもかしこも痛くてたまらない。
暫く歩き建物の所まで来たシャーロットは、こっそり二人を見た。もしかしたら、心配しているかも、と。
――だが、遠目に見える二人はシャーロットの事など心配していなさそうな程に見つめ合っている。
「あ、あ……」
ポロリ、シャーロットの頬をコロコロと涙が転がり落ちた。
「ドロシーはまだ貴族について不慣れだから、教えてあげているだけだ!」
婚約者でもない女性を側に侍らし、腰を抱くのは貴族としていけない事なのでは? という言葉をシャーロットはグッと飲み込んだ。
あれから、アドルフはドロシーと仲を深めていき、人目を憚らないようになった。それによりアドルフの評判が落ちることを危惧したが、何故か二人の仲は祝福され、シャーロットが"邪魔者"という扱いを受けるようになっただけであった。
それを体現するかのように友人だと思っていた令嬢は、今はドロシーの側にいる。私が声をかけても「まぁ、シャーロット公爵令嬢様。私達に何か御用ですか?」と他人行儀だ。
そして両親は、アドルフとシャーロットの不仲はシャーロットのせいだと決めつけ「お前が何かしたのだろう。アドルフ殿下に謝れ」と叱りつけてきた。兄は今留学中で、相談なんて出来るわけない。
どれだけシャーロットが「違う」と言っても、親しく話しかけてみても、彼等はシャーロットこそが悪だと口を揃えて言う。シャーロットをその温度の灯っていない眼差しで、その嘲るような笑みで、嬲り殺し続けてきた。
その筆頭であるアドルフは、シャーロットを鋭く睨みつけたまま、学園の廊下で吠えてきた。
「それよりシャーロット! 彼女は新入生だから案内していただけなのに、邪推して嫉妬して、彼女の教科書を破いたんだって? 国母となる女がそんな性根だなんてゾッとする。彼女にくだらぬ嫉妬をするな」
「そんな事っ」
「嘘をつくなッ!」
シャーロットは唇の皮が破れてしまいそうな程強く噛む。そうやって気を紛らわせなければ、涙が出てしまいそうだった。
シャーロットの言葉に、誰も耳を傾けない。これでシャーロットが冤罪だと証明された時、彼等はどうするのだろう? 被害者のような顔をして、許しを乞うのだろうか? それとも「なんでもっと強く否定しなかったんだ!」と憤慨するのだろうか?
傷つかぬ心など、あるわけないのに。彼等はまるでシャーロットは死んでいるかのような扱いをする。
アドルフの隣にいるドロシーは、シャーロットに怯えた視線を寄越してきた。弱々しいドロシーを、アドルフがさっきの怖い顔とは一転、甘い顔をして慰める。
だがシャーロットは見てしまった。いたいけな顔をした少女が、アドルフに見えない位置で口角を吊り上げたのを。毒々しいその笑みに、シャーロットはブルリと震えた。
震えは収まらぬまま、シャーロットはカーテシーをする。何か反論したかったのに、喉がヒューヒュー音を立てるだけで何も言葉にならない。
「……チッ、認めないとは小賢しい奴だ。どうしてこんな女と婚約者なのだろうか。俺が婚約していなければ、直ぐにでもドロシーと婚約出来たのに」
「アドルフったら、そんな事言ったらシャーロット様が可哀想だよぉ」
喜色満面の顔でドロシーはシャーロットを庇った風に聞こえる言葉を言ったあと、カーテシーをしたままのシャーロットを一瞥した。
「わぁ、こんな惨めな目に遭ったら私なら耐えられませーん!」
私だって耐えられない。シャーロットは心の中でそう言い返す。
二人が去ったあとようやく顔を上げたシャーロットは、周りの視線から逃げるようにフラフラと歩き出した。そんな彼女に嘲りの視線を送る者はいても、心配したような表情を送る者はいない。
いつの間にかシャーロットは"品行方正な王妃に相応しい令嬢"ではなく"仲睦まじい二人を引き裂く悪女"という扱いを受けていた。
覚束ない足取りで歩いていたらいつの間にかシャーロットは学園の裏にある森に訪れていた。その森は荒れ果て鬱々とした雰囲気とその広大さから教師には「絶対に入るな」と厳命されている。だがシャーロットは魔法を使えるから特に問題ではなかった。
そこでシャーロットは、声の限り泣いた。自分の砕け散っていく恋心に絶望しながら。
慟哭は止め処なく、森はそれに静かに聞き入る。時々相槌を打つように木の葉の擦れる音が響く。
暫く草の間で泣き続けていたシャーロットの声は、段々掠れていき遂には空気が僅かに漏れる程になり、声という体を無くしていった。シャーロットのいじらしい恋心も、塵となり風に飛ばされ何処かへと飛んでいった。
掠れた自分の声を嘲笑したシャーロットは、ふと一つの可能性に気づいた。
口が、きけなくなればいいのでは?
そうすれば、王妃に相応しくないと判断され婚約を解消できる。それを理由に修道院に行けるのかもしれない。
……もう二度と、届かない言葉に傷付くこともないのかもしれない。
真顔でジッと一点を見つめていた彼女は心が定まったのか人差し指を自分の喉に当て、躊躇わず撃った。
柔らかい草の束に体が沈み込んでいく。シャーロットはもううめき声すら上げず、静かに目を閉じた。