九 燈火
「白士鳳と申す」
「金繡楼主人の宵娥でございます」
暁賢の兄、士鳳が突然、月祥を訪ねてきた。
金繡楼はまだ開店前だった。応接に失礼に当たらない程度の簡易な装いで、月祥は上座に案内した士鳳と対坐している。
白士鳳は、暁賢の養父、尚書令である白文成の長子で、自身は中書侍郎の官職にいる。神経質そうな細面で、青楼になど出入りしそうもない堅物の文官に見えた。
(血が繋がっていないから、あいつと似ていなくて当たり前なのだが……これはまるで対極にいるような人物だな)
頭の中でこの兄弟を比べてみて、月祥はひそかに笑みを噛み殺す。
だが、士鳳の次の言葉を聞いて、すっと血が下がった。
「弟の暁賢が逗留しておらぬか、伺いたく存ずる」
「逗留、とは。白公子は、この三日ほどお越しではございませんが」
「その三日前から、帰ってきておらぬ」
「――!」
月祥は内心驚く。が、表情には出さない。
(暁賢が――消えた、だと)
「三日前、弟がこの金繡楼に入ったのを見た者がいた。その後の消息は不明だ。見かけた者もいない。こちらに逗留しているのかと思って参ったのだが」
「いいえ、いらっしゃいません。三日前の夜、お帰りになったのが最後です」
「何処かへ行くというような話は」
「伺っておりません」
士鳳は濃い眉を顰めた。
「では……何処へ」
「……」
出された茶に手も付けず、士鳳は立ち上がる。
「手間を取らせて相済まなかった。もし、弟を見かけるようなことがあったら、白家に報せてほしい」
「かしこまりました」
月祥は恭しくお辞儀する。
そんな月祥を、士鳳がまじまじと見つめている。
「なんでございましょう」
「そなた……暁賢は、だいぶんそなたを贔屓にしているようだな」
複雑そうな顔で、探るように言う。
月祥は紅をさした唇を綻ばせ、艶やかに微笑した。
「ありがたく御贔屓にしていただいております。ですが、わたくしは、どなたかおひとりだけのものにはなりません。――ご安心ください」
思惑を見透かされた士鳳は、切れ長の目を少し見開いた。
(ふぅん……家族にしっかり愛されているじゃないか、暁賢)
出入り口まで士鳳を見送って、月祥は瑞星と姚蝉を私房に呼んだ。
「暁賢が消えた。三日前、うちを出てから、いなくなってしまったらしい」
瑞星と姚蝉は驚いて顔を見合わせた。
「あいつは道楽息子だが、養家に迷惑をかけるようなことはしない。なんの連絡もないなら、なにかがあったということだ」
「ですが、白公子は武技に長けていらっしゃいます。特に剣技は、北衙禁軍仕込みとのこと。容易く負けるような方ではないかと思いますが」
瑞星が首をひねる。
「そうだ。あいつの強さは、わたしがよく知っている。だが、われわれが刺客に狙われたのも事実だ」
「では、やはり〈精魄道〉の仕業だと」
「間違いない。……姚蝉、銀心から受け取ったか」
「はい。――こちらに」
姚蝉は帯の内側から、小さな木の札を取り出して、段通の上に置いた。
札には丸がひとつと、丸の中心に黒い点が墨書されている。
「これは……なんですか」
瑞星が覗き込んで訊ねた。
「おまえが聞き込んできてくれた〈不死の儀〉の参加証だ。銀心が薛大人からもらってくれた。若さと美しさを保つ養生法が知りたいとねだってな」
「あ、〈精魄道〉の開祖は、薛大人の令嬢でしたね。これがあれば、〈不死の儀〉に潜入できますね」
「でも、白公子がいらっしゃらないのであれば……計画はひとまず中止では」
姚蝉が不安げに見上げる。
月祥はかぶりを振った。
「いや。予定通り決行する」
「……月祥さま」
「あいつが、一緒にやると言ったのだ。このままで終わるはずがない」
根拠のない自信なのか。それとも、確信なのか。
「あいつは必ず、約束を守る」
生温い空気の中、強い香の匂いが籠っている。
目覚めると、周辺は真闇。わずかな明かりもない。
(……ここは、どこだ。おれは、どうなった)
暁賢は固い牀台に横わたっていた。鈍い頭痛がする。
(そうだ……おれは、金繡楼の帰り道で、怪しい異国人と出くわして……)
痩躯に黒い道服をまとった男。血の気のない青白い顔に、暗い色の波打つ髪。落ちくぼんだ眼窩の奥には、獣のように光る飴色の眼。
(なんと名乗ったか……)
――〈精魄道〉は、あなたを歓迎しますよ、白公子。高貴なる血を持つ御方よ。
(あの男、おれの出自を知っていた)
奇怪な異国の男に見つめられると、身体が動かなくなった。そして、意識が飛んだ。
(〈精魄道〉に捕まったのか。我ながら、間抜けだな)
ふう、とため息をつく。頭の中に、見慣れた白い面と緑の瞳が浮かんだ。
(月祥……すまん)
あれから何日経っているのか。巳の日に行われる〈不死の儀〉に潜入し、生贄を救い儀式を止める計画だったのに。
(顔も出さず、報せもせずにいれば、心配するか……いや、せんな。あいつは繊細そうななりして、図太いやつだ)
機嫌悪そうな月祥の顔を思い浮かべて、苦笑する。
(いや、待て。……これは、ひょっとして、好機なんじゃないか)
許された者しか参加できない〈不死の儀〉に、潜入できるのはひとりだけだった。妓女の銀心が馴染み客である薛大人を籠絡し、参加許可の印を入手する。それで月祥だけが潜入し、暁賢やほかの者は廟の外で待機する手筈だった。
(いま、おれがいるこの場所は、あの古い廟堂の中だろう。あの男……発と名乗ったか。発の口調では、どうやらおれが次の贄らしいからな)
くくっと喉を鳴らして小さく笑う。
(贄になるなど、初めての経験だな。だが、最初から内部にいれば、すぐ傍であいつの手助けができる)
固い牀台にずっと寝かされていたせいか、全身が痛い。しかし、特に怪我をしている様子はなかった。手足を拘束されているでもない。
(不用心だな)
暁賢は上体を起こした。ぐらりと頭が揺れる。
(なんだ、くらくらする。……香のせいか)
鼻孔に少し刺激のある香は、芳香というより薬草を燻したような匂いだ。
牀台から降りようとしたとき、遠くから近づいてくる足音が聞こえた。急いで仰向けになり、目覚めていないふりをする。
近くまできた足音は一度止まった。そして、物が擦れる耳障りな音がして、房間の扉が開いた。
燃える火の匂い。閉じた目蓋に燈火を感じる。
手燭を持った誰かが、さらに近づいてきて、暁賢の傍らに立つ気配がした。
頬に冷たい手が触れ、口を開けられる。
(……甘い……少し、苦い)
口の中に、煎じ薬のようなものが少しずつ流し込まれる。
「――良い夢を、永遠に」
低い、男の声。
(発……)
燈火が足音とともに遠くなり、房間は再び闇に閉ざされた。