八 満月
「おまえに話しておかなければならないことがある、暁賢」
十五歳になったとき、暁賢は父の書斎に呼ばれた。
暁賢の父、白文成は、稜中央政府の行政の長、尚書令を務める重臣だった。まだ六十歳に至ったばかりだが、髪にも眉にもずいぶん白いものが目立っている。気難しそうに唇を引き締め、じっと暁賢を注視した。
「おまえは、白家の三児子として、十五年生きてきた。――だが、おまえは、わたしたちの本当の子ではない」
暁賢は、膝の上に置いた手を、ぎゅっと握った。
父から言われるまでもなく、そうではないかと薄々感じていた。兄ふたりは、それぞれ父母のいずれかに似ている。暁賢だけが、両親のどちらにも似ていない。
「……驚かせたか」
「はい……いいえ」
どちらなのかわからない返答をしてしまい、暁賢は、しまったと思った。
しかし、父は特に追及してこなかった。
「血の繋がりがないとはいえ、赤子のときから共に暮らしているのだ。わたしは、おまえを、実の息子だと思っている。それは、おまえの母も、兄も、同様の気持ちだ」
わかっている。母はとても慈しみ深く、ときには厳しく、暁賢を育ててくれた。ふたりの兄も、年が離れた弟のことを可愛がって、よく遊んでくれた。
「なにも告げず、このまま暮らしていくこともできる。だが、おまえの身を守るためには、知っておかなければならないことだ」
「はい」
暁賢は緊張して顎を引く。
父はゆっくりと頷いた。
「おまえの本当の姓は、劉だ」
「劉、ですか」
ありふれた姓だった。劉某が本当の父親ということだろうが、なにがそれほど深刻なのだろう。
そう考えて、暁賢はにわかに思いつく。
(陛下の御姓も――劉だ)
父の、見透かしたようなまなざしが厳しい。暁賢は背中がざわりとするのを感じた。
「そうだ。おまえの父君は、いまは亡き陛下の兄君にあたる御方だ」
座っている膝がふるえた。それでは皇帝は自分の叔父に当たるということだ。
「本当なのですか……。なぜ、そのようなことが」
父は重く、長く息を吐いた。眉間に皴が深く刻まれている。
「……陛下の兄君は、当然のことだが、太子であられた。学究肌で、お若いころ桐柏に滞在なさっていたことがあった」
桐柏は稜の第二の都で、学問の街と呼ばれている。東西交易の商品は永春に最も集まるが、書物については桐柏の市が随一だった。
「桐柏で起居していらした邸で、太子の傍仕えをしていた侍女が、おまえの母君だ」
「……!」
「当時、太子には妾妃は何人かいらしたが、正妃はいらっしゃらなかった。太子は永春に戻られるとき、ひそかに生まれたおまえと母君である侍女を伴っていらした。そのままであれば、おまえの母君が太子妃となり、おまえは皇位継承者の有力な候補となる。……だが、そうはならなかった」
暁賢がここにいる現実が、その証明だろう。
「母君は、ほかの妾妃たちに、かなりつらく当たられたらしい。それを気に病んで、追い詰められ、自らの命を絶った」
暁賢は咄嗟に口を覆った。悲鳴が出るかと思ったが、荒い息が吐き出されただけだった。
そんな息子の姿を、父は痛ましそうに見つめる。
「しかしそれは……自死ではない可能性もある」
「どういう……ことですか」
「太子の妾妃には、貴族や高官の息女もいた。われこそが太子妃と、その座を競い合っていただろう。そこへ、太子の男児を生んだ身分の低い娘が突如現れたら、どうなる」
ひとつの予測が、暁賢の頭にひらめく。指先がつめたく、ふるえている。
「まさか――暗殺されたと」
「かもしれん、という、あくまでも可能性だ。だが太子ご自身は、そうお考えになった。元来、あまりご健康ではなかった太子は、寵妃の死に心を苛まれ、病に伏してしまわれた。先代皇帝陛下はそんな太子を厭われ、廃太子とし、弟君であられた現皇帝陛下を立太子なさったのだ」
暁賢にはもう、自分に関わる話を聞いている気がしなかった。あまりに想定外で、戯の話を聞かされているようだった。
「先代陛下は武人であられた。だから、文人気質のご長子より、武技や乗馬を好んだご次子のほうに目をかけていらしたのだ。廃太子は避けられぬことであった」
「……それで、わたしは皇家を出されたのですか」
――いらない子になったから。
「すべては、おまえのためだ。廃されたとはいえ、おまえは皇家の血を引く者。皇位継承の上位に位置する。陛下の皇子の地位を脅かすとして、排除される恐れがある。それを危惧し、おまえの父君は、まだ赤子のおまえを白家に託されたのだ」
(……ああ)
詰めていた息を吐く。身の内から、冷たいなにかが流れ出るような感覚。
(だから、だったのだ)
幼いころから、兄弟の中で暁賢だけに施された訓練があった。薬物や毒物の種類と特性を教え込まれ、文人の家柄であるのに、北衙禁軍の将である母方の伯父をわざわざ招いて、剣技や騎馬術を教示された。
(わたしにも、暗殺の可能性があったから、身を守るための訓練が必要だったのだ)
「おまえには、つらい話だろう」
「いえ……」
暁賢は首を振る。
「たとえそうだとしても、わたしは、この家で、父上と母上、兄上たちに家族として慈しんでいただいて、とても幸福だと思っております。その話を伺ったところで、おのれが皇家に縁ある者だとは、とても思えません」
「そうか」
父は少しまなざしをやわらげた。が、すぐに厳しく引き締める。
「おまえに本当に伝えたいのは、これからのことだ。おまえの処遇について、皇家から命じられていることがある」
父は苦しそうに言った。
「おまえは生涯、妻を迎えてはならぬ。妾を入れることは構わないが、子を成すことは罷りならん」
「!」
暁賢は呆然と父を眺めた。
「つまり、わたしは守るべき家を持たず、子孫も残さず絶えよということですか」
「その通りだ。おまえに子ができれば、皇位の継承者が増える。皇家は対立勢力ができることを恐れておられる」
「でも、わたしは皇位など」
「おまえの意思が問題なのではない。陛下がそれを憂慮なさり、命令を下されたのだ」
――いらない子は、その存在さえも、跡形なく消えよと仰せか。
悔しさを堪え切れず、涙がにじむ。絶対に泣くまいと、暁賢は血が出るほどに唇を噛んだ。
「いい加減にしろ、暁賢!」
長兄の白士鳳は、賭博場から弟を引っ張り出した。
「おれに構うな。帰れよ」
暁賢は兄の手を振り払う。
出自の秘密と皇家の非情な命令を知ってから二年、十七歳になった暁賢は、白家を出て街で過ごしていた。賭博師や破落戸まがいの輩と付き合い、ほとんど家に帰らなかった。
暁賢の出自を知っていても、また暁賢が自身の出自を知った後でも、白家の父母や兄たちの態度は変わらなかった。暁賢を案じ、家族として扱ってくれた。
(それが逆に、苛々するんだよ)
手を差し伸べられるほどに、反発が激しくなる。
(どうせおれは、生まれるべきじゃなかったのだからな)
心を苛むその思いを、自分を傷つけることで和らげようとしていたのかもしれない。
だが、そんな日々を過ごすうちに、少しずつ気持ちが変わり始めた。
がむしゃらに街で暴れてみても、残るのは虚しさだけだった。今日会った人間の誰もが、明日の暁賢のことを気にしない。明日も会えばつるむかもしれないが、会わなければ忘れる。
(結局おれは、生きていても、誰の心にも残らない……いないのと同じだ)
すべてのことに興味が失せ、暁賢は安宿で無為に時を過ごすことが増えた。
そんなある日、宿に次兄の傑佑がやってきた。
「母上がご病気だ。おまえに会いたがっておられる」
その報せによって、暁賢は二年ぶりに白家に帰った。
「まあ、ずいぶんと背が伸びましたね、暁賢」
病床の母は、少しやつれていたが、それほど重篤には見えなかった。暁賢は安堵する。
「暁賢、あなたがこの家を離れて成したいことがあるなら、それでも構いません。あなたがどこにいても、なにをしていても、わたしの大切な三児子であることに変わりはないのですから」
母は暁賢の手を包み込むように握った。その手、彼が幼いときからずっと包んでくれた、温かく優しい手。
暁賢は静かに涙を流し、そのまま白家に戻った。
生まれるべきではなかったという意識は、相変わらず彼の心に根を張っている。それを悲観し自棄になるよりは成長したのだろう。苛烈な反抗心は、いつしか諦念へと変わっていた。
かといって、なにかしたいことがあるわけではない。人生への目的もなく、科挙を目指すわけでもなく、もちろん仕官などしていない。
母方の伯父が鍛錬してくれた剣技や騎馬術があっても、それをもって武官を志すわけでもない。
「このままでは、駄目になるぞ」
見かねた長兄の士鳳が、中書侍郎である自分の補佐官として吏部尚書に推挙してくれ、ひとまずは職位を得た。とはいえ、頼まれれば仕事はするものの、毎日登庁しておとなしく事務仕事ができる性格でもない。
そうかといえば、地方で異民族による内乱が発生したりすると、一兵卒としてひょっこり参戦してくるなど、家族の肝を冷やすような行動を取ったりもする。
いつしか街では、白家の末の公子は、名門家庭で甘やかされた道楽公子であると噂になっていた。
その夜は、顔馴染みと酒家で飲んで、すっかり帰りが遅くなってしまった。
天には頼りない眉月。大路は燈火も消え、人気がなく、静まり返っている。
ほろ酔いで良い気分の暁賢は、急ぐでもなく、のんびりと大路を歩いていた。
邸の方向へ小路を曲がり、少し進んだとき、横道からかすかに呻き声のような音が聞こえた。
横の路地を覗き込む。闇が奥まで詰まっていて、よく見えない。だが、確かになにかがいる気配がする。暁賢は目を凝らした。
「――そこでなにをしている」
人がいるようだった。ひとりではない、ふたりだろうか。
声をかけると、ひとりが弾かれたように振り返った。もうひとりは、横たわっているようだ。
(酔漢か? いや、様子がおかしい。……搶劫か)
「具合でも悪いのか。手を貸そうか」
危険に無頓着な暁賢は、躊躇なく路地に踏み込んだ。暗闇に目が慣れてきたのか、振り返った人物が白く浮かび上がって見えた。
(……! 女か?)
白い面に優しい顔立ちをしていた。わずかな光を反射する瞳の色は淡く、ゆるく束ねた長い髪も白い。明らかに稜人ではない。胡人かもしれない。
暁賢と同様に、長袍に袴をまとい、長靴を履いている。細身だが、しっかりとした体躯をしているので、やはり男のようだ。
「うん?」
不思議な感覚が暁賢を捕えた。全体的に白い青年は、どこか気配が違う。なんとも言い表せない違和感。
暁賢は白い青年の傍らに屈み、不躾なまでに凝視した。洗練された貴族の子弟は、そのような無礼な振舞いはしない。
「……うーん」
白い青年に抱きかかえられている男は稜人のようで、ぐったりと仰向けになっている。生きてはいるが、意識はない。
白い青年は、暁賢に射すくめられたように、固まっていた。灰か青か緑にも見える瞳が、一瞬、宝石のように輝いた。
「おぬし、人ではないな」
宝石の眼が大きく見開かれる。暁賢の見立ては当たったようだ。
「異類の者か。その男を獲物にするつもりだったのか」
状況から鑑みて、おそらく正しいだろう。暁賢は好奇心がむくむくを動き出すのを感じた。こんな感情は何年ぶりだろう。
異類の青年は、どこか戸惑うように暁賢を見つめている。思ったより、人間に近い感情を持っているらしい。
「その者を獲物にすると、死ぬか」
どこまで危険な存在かを測る。異類の青年の唇が動いた。
「いや……死なない。ほんの少し、もらうだけだ」
声は人間と変わりなかった。高くもなく、低くもない、まろやかな声音。
(会話ができる。知性があるのだな)
暁賢は嬉しくなった。それで、もう一歩踏み込んでみる。
「なるほど。では、その者は見逃してやってくれんか。代わりに、おれがやろう」
異類の青年の目が大きく見開かれた。信じられないものを見るような目つきだった。
「おまえは……馬鹿か」
あまりに率直な感想に、暁賢は吹き出す。
「すいぶんだな、異類。……いや、おれは最近、退屈でな。なにか面白いことがないか探していたんだが、異類の餌食になったことはないから、試してみたいと思った。おぬしのような別嬪なら、なおさらだ」
これがどういう異類なのかはわからないが、命まで取らないと言うなら、試してみたい。
明らかに困惑している異類の青年に顔を近づけ、暁賢は悪ふざけを仕掛ける。
「嫌なら、官憲を呼ぶぞ。どちらがいい?」
その言葉を聞くや、異類の青年の瞳の色が鮮やかになった。燃えるような烈しい光が宿り、暁賢を射抜く。
(――この眼は)
戦う者の眼。命がけでなにかを守ろうとする強固な意思。
この異類がなにを背負っているのかはわからない。だが、必死に生きようとする鮮烈な輝きに、暁賢は強く惹きつけられた。
切り捨てられた存在だと知らされたあの日から、胸の奥には空虚な空間が広がっていた。なにをしても満たされることはないだろうと、諦めて日々を無為に過ごした。
そんな暁賢にとって、異類の青年が放つ光は、眩しく、どうしようもなく羨ましかった。
異類の青年は、暁賢の脅しを受けて、さも嫌そうに頷いた。
失神した男をその場に残して、暁賢は異類の青年を伴って隣の坊の小路に移動する。
「さあ、やってくれ。おれは、どうすればいい」
丸腰で、敵意はないのだという証に、両腕をひろげて見せる。異類の青年が細い眉をひそめた。
(おかしな人間だと警戒しているだろうな)
自分が相手の立場だったら、こんな変なやつの言うことは真に受けない。
「……片袖を捲れ。肘の内側からもらう。そこなら目立たない」
「わかった」
暁賢は言われた通り、左袖を捲り上げた。
異類の青年が慎重な足取りで近づいてくる。そして、暁賢の腕を取った。ひやりと冷たい手のひらの感触。
肘の内側に、異類の青年の唇が押し当てられる。そして、強く吸われながら、歯を立てたような小さな痛みを一瞬だけ感じた。
(――なんだ、この感覚は)
暁賢は息を飲んだ。
身体の芯から、ざわざわと生温かい心地よさが沸き上がってきた。心地よさは波紋がひろがるように、顔や手指の先、足の先まで行き渡る。閉じた目蓋の裏側に、眩い光が明滅した。
やがて、異類の青年の唇が離れる。
「……驚いたな」
暁賢は思わずつぶやく。呼吸が乱れている。
「妖魅の力なのか。まるで……」
――まるで、身体の底に沈んだ澱が洗い流され、浄化されたような気分だ。
異類の青年を見やると、青年は気まずそうに目を伏せた。
暁賢は袖を戻し、襟を直す。
(これは……面白くなりそうだ)
孩子が冒険の入り口を見つけたように、期待する気持ちを押さえられない。
(おれにまだ、こんな感情が残っていたとは)
「おれは白暁賢。おぬしの名はなんという」
異類の青年が目を上げる。
「月祥……双月祥」
「月祥か。何処へ行けば、おぬしに会える?」
月祥と名乗った異類の青年は、意味が分からないといったふうに、瞬いた。
「おぬしに会えば、退屈せぬような気がするのだ」
暁賢は正直に言って、笑った。
月祥は、心底迷惑そうに、顔を顰めた。