七 幻術
「だから、おれが行くと言っているだろう! なんで駄目なんだ」
金繡楼の月祥の私房で、暁賢は床を叩いた。
「大きな声を出すな。営業妨害だ」
宵娥の月祥は、西域の水煙管をぷかりとふかした。
「ひそかに〈精魄道〉の集会に潜入しようという話だぞ。おまえのどこが信徒に見える。自分しか信じないような自信満々の面をして、好奇心にぎらぎらした目をして。胡散臭いことこの上もない」
ばっさりと切り捨てる月祥に、傍らに控えていた瑞星は苦笑した。
しかし暁賢はまだ不満げだった。
「しおらしく下を向いて、話を聞いていればいいんだろう。導引だって覚えたのだぞ」
「おまえはもう少し、おのれの身分を考えろ。おまえに万が一のことがあったら、白家に影響するのだぞ」
養家の名を出され、暁賢は言葉に詰まる。
「こういうことには、適任がいるよ。――瑞星」
「はい」
下僕の少年は、背筋を伸ばした。
「することは、わかるね。おまえに任せる」
「かしこまりました」
明瞭な声で返答し、瑞星は平伏した。
翌日の午前、瑞星はさっそく〈精魄道〉の道場で開かれた集会に参加した。古びた廟の堂内で開かれた集会は、必ずしも信徒だけではなく、〈精魄道〉の養生法に興味がある者であれば、誰でも参加できるものだった。
「おや、おまえ、どこかで見たことがあると思ったら、金繡楼の給仕じゃねえか」
道場で隣り合わせた男が瑞星に声をかけてきた。
「はい、そうです。……ああ、張大人のお付きの方ですね。いつも御贔屓にありがとうございます」
にこにこと無邪気な笑みを浮かべて、瑞星はそつなく挨拶をする。
「おめえも〈精魄道〉に入信していたのかい」
「いえ、入信と言うほどではないのですが、こちらの導引に興味がありまして。少し前から仕事の前に実践しているのですが、それから体調がすこぶる良いのです」
「そうか、そうか。若えうちから健康に気をつけるのはいいことだ。なあ」
男は瑞星を少しも疑うことなく、励ますように背中を軽く叩いて笑った。
ほどなくして、道場の上手に灰色の道服をまとった男女が数人現れた。
「本日お集りの皆さま、ありがとうございます。これより〈精魄道〉導引術の学習会を始めます」
道服の男女――道士が拱手すると、集まった人々も同様に拱手を返した。
その後、呼吸法や普段の姿勢、健康に有効な食餌や漢方薬など、養生に関わる講義が続く。講義が終わると、導引の実践となった。
(これといっておかしなところのない、普通の養生集会だな)
皆と一緒に導引しながら、瑞星は周辺を伺った。
やがて導引も終わり、これで解散かというとき、
「――黄左平どの、こちらへ」
道士が、参加者の中からひとりの人物を招く。年齢は四十半ばくらいか、身なりの良い商人風の男だった。
「緑青堂の主人か」
瑞星の隣の男が呟く。
「緑青堂って、菓匠のですか」
「ああ。うちの太太が贔屓になさっていたんだが、ひと月くらい前に急に休業しちまってな。雇われてた職人に聞いたんだが、一家そろって〈精魄道〉に入信して、道場に来ちまったらしい」
「ご家族そろって、ですか」
「だいぶ寄進しているって噂だったが、そこまで熱心だったとはなあ。太太に、代わりの菓子を探せと言われて、ずいぶん苦労したんだぜ」
瑞星は道士の前に立つ黄を観察する。
血色は悪くなく、頑健そうだが、少し違和感がある。
(目、だ。おかしいのは)
幸い瑞星がいる座は前のほうだったので、男の表情が良くわかる。黄の目は見開かれており、眸が不自然に大きくて、焦点が合っていないように見えた。
「これなる黄左平どのは、わが〈精魄道〉にこれまでも多額の寄進をしてくださったが、このたびご息女をわれらの〈紅花娘娘〉として奉献してくださった!」
道士たちが拍手する。すると人々もならって拍手し、廟堂に響き渡った。
「〈紅花娘娘〉とは、なんですか」
瑞星が隣の男に訊ねる。
「確か、開祖さまのお世話をする侍女だとか。娘を〈紅花娘娘〉に取り立てられるのは最高の栄誉であって、一族すべてに女神さまの恩恵が与えられるらしいと聞いたな」
「そうなんですね。……すごいな」
瑞星は心にその言葉を刻む。
「〈紅花娘娘〉を出した家ともなれば、〈不死の儀〉でも特別な恩恵が与えられるんだろうなあ」
「――〈不死の儀〉?」
瑞星がはっとする。
「なんだあ、おめえ、なんにも知らねえんだなあ。〈不死の儀〉ってのは、信徒だけが参加できる〈精魄道〉の秘儀で、普段の集会にはいらっしゃらない開祖さまや稀夢真人、〈血の女神〉の巫女さまがお出ましになるんだ」
「それは、いつ行われるのですが」
「おいおい、ちゃんと認められた信徒じゃなきゃ入れねえよ」
男が少し怪訝そうに手を振る。瑞星はすぐに笑顔を作った。
「もちろんですよ。でも、わたしもこれから信徒を目指して修練したいと考えていますので、秘儀に参加できるという目標があれば、もっと励めると思うのです。あなたは参加なさったことがあるのですね」
「そりゃあ、あるさ」
「素晴らしいです。師兄ではないですか。わたしも師兄を見習いたいです」
「そ、そうかあ?」
持ち上げられて、男は嬉しそうに破顔した。
「じゃあ、特別に教えてやる。誰にも言うなよ、秘儀なんだからな」
「もちろんです」
男は姿勢を低くし、瑞星に耳打ちする。
「巳の日の深夜、日付が変わった時間から、この廟の奥にある至聖所で行われるんだ」
「巳の日」
「これ以上は、だめだ。さすがに教えられねえ。……っていうか、よく覚えてねえんだけどな」
「覚えて、ない?」
男は困ったように笑み、顎を掻いた。
「儀式のことは、あんまり記憶がねえんだ。参加したことは覚えているし、終わった後に薬湯と菓子を貰うことは覚えてるんだが、肝心の儀式の内容は覚えてねえ」
「……」
瑞星は聞き取ったことを頭の中で反芻し、集会をあとにした。
「〈不死の儀〉か。なるほど、だから巳の日なのか」
金繡楼に戻った瑞星から報告を聞いた月祥は、腑に落ちて頷いた。暁賢は首をかしげる。
「どういう意味だ」
「蛇は脱皮し、成長する。それを生まれ変わったと見なすと、死と再生、ひいては不老不死を意味する。西域では、蛇は不老不死の象徴として、意匠によく用いられた」
「なるほどな」
暁賢が頷いた。月祥のまなざしが冷たく冴える。
「〈精魄道〉を保つために〈不死の儀〉があるのじゃない。逆だ。〈不死の儀〉を行いたいがために、〈精魄道〉という枠組を創ったのだ。やつらの目的は、生贄の血だ」
「だが、その血を抜いてどうする。相手は人間だ。おまえたちのように糧にするわけでもあるまい」
「血液を生命の象徴、あるいは生命そのものと見なす宗教は少なくない。穢れない年少者の血を自らに取り込めば、回春や長寿、ひいては不老不死になれるという古の信仰もある」
月祥は確認するように暁賢の目を見る。
「薛氏は変わらない美しさと若さを求めることに執心していたのだろう。老公を亡くし、不安定になっていた心に不老不死の幻想を吹き込まれたら、どうなる」
「そういうからくりか。そして〈紅花娘娘〉というのが、殺された娘たちだな。確かに、家族が差し出したのなら、探すわけがない。……哀れな生贄だ」
語尾に怒りがにじむ。月祥はそんな暁賢を見やり、瑞星をねぎらう。
「ありがとう、瑞星。さすが、おまえだ。暁賢だったら、ここまでの情報は得られなかっただろう」
「いいえ。太太のお役に立てることが、わたしの喜びです」
「……いちいち、おれを引き合いに出す必要はなかろうが」
「さて、次の手だが」
暁賢の苦情をさらりと流し、月祥は考える。
「次の巳の日は五日後か。新たな犠牲が出る前に〈不死の儀〉とやらを止めたいものだな」
「月祥、おまえはこの件にどこまで関わる気だ」
胡坐の上で頬杖をつき、暁賢が上目遣いに見ている。
「ここまでの情報を刑部尚書に申し立て、中央政府に正式に〈精魄道〉を捜査させることもできるぞ」
「虎怪を始め、わたしたち吸血鬼の仕業ではないかと疑っている者たちがいる。自らの手で疑いを晴らさなければ、収まらない。虎怪の死老頭子とも約束した」
月祥は暁賢を睨む。
「それに、内通者がいるかもしれない刑部になど、任せられるか」
「それもそうだ」
「だが、おまえは違う、暁賢」
厳しい声で、月祥は言った。
「おまえは、無関係だ。いろいろ手伝ってもらって助かったが……ここで手を引け」
「馬鹿言え。ここまできて、降りられると思うか」
「おまえは、駄目だ。ほかの誰が良くても、おまえだけは――駄目だ」
「なに」
「自分でも、わかっているはずだ」
瞬きもせず、真っ直ぐに見つめる。目星はついているのだと、言外に秘めて。
暁賢は月祥のまなざしを見つめ返す。強い意志を持った揺るぎない瞳で。
「……無理だな」
「暁賢」
「おれも、見たのだぞ。あの娘の無残な亡骸を――おまえと一緒に」
「……」
「このままにしておけるはずがない。そうだろう」
月祥は重ねて暁賢を止めようとし、諦めて折れた。
「……痛い目に遭っても、知らんぞ」
「構わん。覚悟の上だ」
「退屈しのぎになるなどと考えていたら、死ぬぞ」
「舐めるなよ。これは、義侠だ」
暁賢はにやりと笑う。
「それから――友情だな」
「すっかり遅くなっちまったな。外出禁止時刻までに帰らんと面倒だ」
暁賢は独り言ちながら、無人の大路を足早に通り過ぎる。
遅いから泊っていけと月祥も言ったのだが、自邸で調べ物がしたくて帰ることにしたのだ。
月明かりが降りしきる街路。燈火がなくても明るいその道は、通り慣れた道のはずだった。
(……おかしいな。もう着いてもいいはずだが)
歩いても、歩いても、自邸に近づいている気がしない。大路を曲がり、自邸のある坊へ至る小路を抜け、角を曲がれば自邸を囲む東側の塀が見えるはずだ。
「……まただ」
最後の角を曲がったのに、また大路と小路の交差する十字路に立っている。
「どういうことだ」
「――白公子、ですな」
不意に、耳元で低い声がした。
「!」
暁賢ははっと身構える。
五歩ほど離れた場所に、黒い道服を着た異国の男が立っていた。
(すぐ傍で囁かれたと思ったが……)
「何者だ」
暁賢が警戒しながら問う。
痩躯で、血の気のない青白い肌。冷たい月光の下だからというわけでもなさそうだ。髷も結わず、少し波打った髪は濃い茶か黒か。落ちくぼんだ眼窩の奥に、妖しい炎のように光る飴色の瞳。
(獣の眼だ)
「わたしは発稀夢と申します。〈精魄道〉のお世話をしております」
「――! おまえが……戴の夫人を唆して人殺しの教団を創らせた張本人か」
「唆したとは……わたしは、老公を亡くして失意にあった夫人をお慰めし、お望みを叶えるお手伝いをしたまでです」
「若い娘を穴だらけにして殺すのが、夫人の望みだったというのか!」
「ある意味、それは正しい。正確には――若い娘の血が必要だった」
「異教の狂信者め」
発のもとへ踏み出そうとした暁賢は、身体がまったく動かせないことに気づいた。
「なにを……した」
声も出せなくなってきている。その目の前に、発が近づいてきた。歩いているのではない、まるで地面の上を滑るかのように、すぅっと近くまで来た。
(幻術か……)
「われらに、とてもご興味を抱かれておいでのようだ。光栄です」
飴色の獣の眼が、暁賢の眼を覗き込む。眸が異様に収縮している。
「知りたいのならば、教えて差し上げましょう。われらのもとに、ぜひいらしてください」
発が右手を上げ、翻すと、暁賢はがくりと膝を折った。
「先ほどの言葉を訂正いたします。われらは、必ずしも若い娘の血だけを必要としているわけではありません」
顔を伏せた暁賢の頭上から、歌うような声が降ってきた。
「〈精魄道〉は、あなたを歓迎しますよ、白公子――高貴なる血を持つ御方よ」
発の言葉が耳に届いたのを最後に、暁賢の意識はふつりと途切れた。