六 紅玉と碧玉
「巫女さま! 〈血の女神〉の奇跡の巫女さま!」
熱狂した信徒たちの叫びが途切れなく続いている。
ひな壇を下り、幕の裏に逃れた自分を、どこまでも追いかけてくる気がして、翠晶は小さく身震いした。
「ああ――気持ち悪い」
前を歩いていた曼珠は、幔幕を乱暴に開け、房間に入ると、水差しから杯子に水を注いでうがいをし、水鉢に吐き出した。
「あんたも飲み込まないうちに、吐きなさいよ」
曼珠は翠晶に杯子を差し出した。
「あ……ありがとう」
翠晶は杯子に水を注ぎ、同じようにうがいをした。
「生き血なんて、匂いを嗅ぐだけでも嫌。飲むふりをして口に付いただけでも、吐きそう」
曼珠は投げ捨てるように言って、衣裳も気にせず長椅子に横たわり、沓を投げ出した。
翠晶は小卓に杯子を置き、椅子にそっと腰を下ろす。
長い黒髪に、滑らかな白い肌。大きな瞳に、真っ直ぐな鼻梁、桜桃のように薄桃色の唇。まったく同じ容姿をした美しい双子の少女。ただ、瞳の色が違う。
そして、よく見れば、正反対ともいえる性格が表情に変化を表していた。
曼珠は強い光を持った紅玉の瞳をしている。常に目を上げて前を向き、言いたいことははっきりと告げる。納得がいかないことに従わざるを得ない立場だとしても、心は決して屈しない芯の強さがある。
双子の妹である翠晶は、控えめな碧玉の瞳を持っている。うつむきがちで、思いを言葉にすることが苦手だ。命令されれば逆らおうなどとは思わず、黙って従う。自分はそういうものだと思っている。
富商、戴万貴の双子の娘は、〈精魄道〉の主神〈血の女神〉の巫女に祀り上げられていた。
「曼珠小姐、翠晶小姐、お帰りの準備が整いました」
下僕が幔幕の向こうから声をかけてくる。
「お母さまは」
「先にお帰りになりました」
翠晶が問い、下僕が答える。曼珠は口の端を歪めて笑った。
「そりゃあ、一刻も早く帰るでしょう。大事な大事な〈血の女神〉の恩恵が手に入ったのだもの。新鮮なうちに味わいたいでしょうよ」
「曼珠……」
「そのうち……あたしたちも、食われるかもね」
曼珠の言葉には、憎悪と諦めが込められている。翠晶は黙ってうつむいた。
廟の裏手に寄せられた牛車に乗って、曼珠と翠晶は邸へ戻った。
戴邸は永春の南西に在る。屋根のある外壁が敷地を取り囲み、四角い院子を囲んで四方に建屋がある。入り口の門は南側にあり、院子を挟んで東側にあるのが東廂房で、曼珠と翠晶が起居している。西側にあるのが西廂房、南側には厨房や厠所、そして北側にある建屋が主人の住居、正房となっている。
父親の戴が生きていた頃は、正房はもちろん父と母の房間だった。
だが父が亡くなると、そこには異国の男が住むようになった。
「発老師よ。ご挨拶なさい」
母に紹介されたのは、道服をまとった背の高い痩せた異国の男。血の気を感じないほど青白い肌、暗い茶色の髪に、飴色の瞳。眼窩は落ちくぼんで、顔に影を作っているのに、瞳だけは獣のように炯炯と光っているのが不気味だった。
男は発稀夢と名乗った。胡人の住む西域よりもっと西方の生まれだという。
発は、もともとは父の知人の伝手で出入りし始めた商人だった。西方の書や酒や香料、めずらしい織物などを商っていた。曼珠と翠晶には、ねじを巻くと音楽とともに踊り出す不思議な人形の玩具などをくれたりした。
結婚前には美人と評判だった母、薛氏は、結婚し母親になってからも美しさと若さを保つことに執心していた。娘よりも自分に関心があった母は、発が持ってきた西方の美顔水や香油、入浴時に湯に入れると芳香を放つ薬玉などに夢中になった。
歪みが生じ始めたのは、父が亡くなった直後からだった。
発の来訪の頻度が急速に増え、いつの間にか帰らなくなった。そしてある夜、翠晶は決定的な場面を目撃する。
夜半、眠れずに東廂房の房間を出て、院子に面した階段に座って風に当たっていた。
すると、発が滞在していた西廂房から、すぅっと淡く暗い人影が現れた。
(――鬼?)
翠晶は足を縮めて廂の陰にうずくまる。
ふわふわと揺らめくような影は、真っ直ぐに正房に吸い込まれていった。
(お母さま……!)
いま正房は、母がひとりで寝起きしている。翠晶は這うように房間に戻り、曼珠の寝所に行った。
「曼珠、起きて。お母さまが」
「……翠晶、なに、こんな時刻に」
「鬼を見たの。正房に入っていったの。お母さまが……」
曼珠はそこで跳ね起き、沓を履いて寝所を飛び出した。慌てて翠晶も後を追う。
正房の扉の前で、曼珠は翠晶に向かって人差し指を立て、自分の唇に当てた。沈黙の合図に、翠晶も頷く。
そっと扉を開け、中へ入る。奥の方から、声がする。女の高い声と、男の低い声。
「――!」
それは、主人の寝所の中から聞こえてきた。母の媚びたような嬌声と、異国の男の異国の言葉。
曼珠は翠晶の手をぎゅっと握り、引っ張って正房から出た。
険しい表情で無言のままの曼珠に手を引かれながら、翠晶は優しい父の笑顔を思い出した。
大切にしていた宝箱が他人によって暴かれ、踏みにじられたような悲しさに、涙がこぼれた。
「やあ、小姐たち」
発は流暢な稜語で、翠晶と曼珠に挨拶してきた。
昨夜の出来事で眠れなかった翠晶と曼珠は、朝餉の直後に発に呼ばれ、いま父の書斎で発と対坐している。
「きみたちに相談があってね。――きみたちのお母さまのことなんだが」
「どうして、あなたがここにいるの。ここは、お父さまの書房よ。お父さまが亡くなられたって、この房間の主人はお父さまだけよ」
邸の主人は、父戴万貴だけだ。曼珠は言外にそう言って、発を睨みつけた。
小娘の反抗など意に介さず、発は鷹揚に微笑した。
「この書房をお借りすることは、太太からお許しいただいているよ。……さて、その太太だが」
あっさりと話を逸らし、発は続ける。
「実は、太太ご病気でいらっしゃる」
「……!」
「老爺が亡くなられたご心痛で、太太は気鬱の病を患われてしまった。なんとかお力になりたいのだが、それにはきみたちの協力が必要だ」
「あたしたちに、なにをしろと言うの」
気丈な曼珠が答える。こんなとき、おとなしい翠晶はなにも言えない。
「太太には、心の支えが必要だ。ご自身が心の底から信じ、頼るもの、拠り所を作って差し上げなければならない。わたしが、太太に養生法を教えて差し上げたのは知っているね」
翠晶と曼珠は頷いた。すこし変わった呼吸法を用いた導引だったが、母が毎朝、熱心に行っているのを見ている。
「太太は老爺を突然に亡くされたため、死というものを極端に恐れるようになられた。不老であること、果ては不死であることを渇望し、それを求める道を拠り所にしようとなさっている。だからわたしは、太太が心安らかに道を進めるよう、〈精魄道〉を開いた」
「〈精魄道〉……」
「〈血の女神〉に従い、養生法を極めることで不老不死に至ることができる、新たな教えの道だよ」
「〈血の女神〉!」
曼珠が言い返し、翠晶は小さく悲鳴を上げる。
「なんなの、それ……〈血の女神〉なんて聞いたことないわ」
「ああ、血などというから、怖がらせたね。すまない」
発は宥めるように笑った。
「西域の南方に磨陀羅という国がある。そこで信仰を集めている〈血の女神〉は、血を糧にすることで永遠の若さと美しさを与えてくださるのだ。血は生命の源、活力の証だ。身体の血流を整えることは最良の養生法なのだよ」
「……お母さまは、それを、信じていらっしゃるの。本当にそんなことが叶うなんて」
「叶うか否かが問題なのではない。太太が信じ、信じることでお心を強く生きてゆかれることこそが大切なのだよ」
「だったら、おひとりで実践なさればすむことじゃない。〈精魄道〉なんて大げさなものを創る必要ないでしょう」
「曼珠小姐、戯はお好きかね」
唐突に、発が訊ねた。曼珠は瞬き、
「……好きよ。それがなにか」
「では、これも戯の舞台だと思いなさい。太太のお心をお慰めするために、大きな仕掛けを張った戯だと」
「……」
曼珠は翠晶を振り返る。翠晶は頷くことも、首を振ることもできなかった。
「……それで、あたしたちに、なにをさせるつもり」
「戯の演員だよ。きみたちには〈血の女神〉の巫女を演じてもらいたい」
「巫女」
「そう。奥様のご心痛を和らげるためには、女神の御業を示す儀式が必要だ。巫女は儀式において、女神と信徒を結ぶ梯となる重要な役割だ。太太の娘であるきみたちこそが最もふさわしい」
曼珠は怪訝そうに眉根を寄せ、翠晶は戸惑うばかりでなにも言えず、一度顔を見合わせてから、発に視線を戻した。
熱に浮かされたような発のまなざしが、獲物に爪をかける猛禽のように鋭く光った。
翠晶と曼珠は〈血の女神〉の巫女を演じることとなった。発の仕掛けは確かに戯じみていたが、養生法の評判が良かったため、〈精魄道〉は瞬く間に永春に流行した。
母の薛氏はすっかり発に頼り切っていた。〈血の女神〉というより、発を信奉しているのではないかと思うほどに。事実、母の生活のすべてを発が掌握していた。
翠晶と曼珠は実の娘であるのに、母と自由に会うことも制限されるようになった。
「翠晶、だいじょうぶ?」
呼ばれて、はっと目を開ける。居眠りをしていたらしい。
「曼珠……」
「顔色悪いよ」
「うん……最近、あまりよく眠れなくて」
「翠晶も、なの? あたしも、眠ってもとても浅くて、すぐ目が覚めてしまうの。それに……なにか、おかしな夢をたくさん見ているような気がする。覚えていないのだけど」
「あたしも、一緒」
力なく笑って、翠晶は冷たい指先を握る。その上に、曼珠が自分の手を重ねた。
「今日は、ずいぶん大仕掛けね。かなりの人が集まっているみたい」
幕の向こうから、ざわざわと大勢の人の気配がした。ここは母方の祖父が所有しているという廟だった。もう長いこと使用されておらず、古びているが荘厳な造りで、戯の大仕掛けにはうってつけの舞台だった。
巳の日の今日、〈不死の儀〉を行うと発が言った。廟堂には黒檀で彫られた異形の女神像が安置され、その前に巫女が坐すひな壇が設えられた。
ひな壇の下には祭壇が組まれ、それを舞台としてさらに下の段に信徒たちが詰めかけている。
翠晶と曼珠もそれぞれの瞳の色に合わせた衣裳をまとい、緊張しながら出番を待っている。
(……それにしても、この香の匂い)
廟堂に充満するほど焚き染められた香。吸っていると、頭がぼうっとしてくる。
巫女を担うようになってから、体調が優れない。食欲も落ち、睡眠もあまり取れず、物忘れが増えたような気がする。
翠晶よりずっとしっかりした曼珠も同じ様子で、いまここにいても不安で仕方なかった。
そこへ、盆を持った下婢がやって来る。
「小姐、発老師より、お飲み物をお預かりしました」
「飲み物? いま?」
「ご不安が和らぐ薬湯とのことです。苦みを抑え、甘くしているから飲みやすいはずだと、発老師がおっしゃっていました」
曼珠が不審そうに眉を顰める。だが翠晶は、この不安が和らぐのならと、下婢の持ってきた盆の上の杯子を受け取った。
翠晶が取ったので、曼珠も渋々と言った様子で杯子を手に取った。
ふたりで同時に飲む。どろりとして生温い、甘い液体。味わうとかすかな苦みがあった。
「――巫女さまのご来臨である」
「あ、行かないと」
曼珠が裳裾を翻して、舞台の下から反対側へ駆けて行った。翠晶も慌てて衣裳を整える。
信徒たちのざわめきがぴたりと止まり、静寂が廟堂に満ちた。
数本の燭が灯された壇上に、左袖から曼珠、右袖から翠晶が出ていく。
(なんだか……熱い)
薬湯を飲んでから、全身に火照りを覚えている。動悸もする。
ひな壇に上るときに、翠晶は足元が覚束ない気がした。裙裳を踏んで転ばないよう、懸命に集中する。
やっとの思いでひな壇の上の椅子に腰を下ろすと、もう二度と立ち上がれないのではと思うほど、身体が重く感じた。
「〈血の女神〉と巫女さまに、跪拝、叩頭礼を」
発の部下である男が命ずる。すると信徒の群れは一斉に跪き、叩頭した。
「これより〈不死の儀〉を執り行う」
男の声、次いで銅鑼の音が響き渡る。香の匂いがますます強くなった。
(頭がぼんやりする……喉が渇いた)
先刻、薬湯を飲んだばかりなのに。翠晶は深呼吸しようとし、身体が動かせないことに気がついた。
(嘘でしょう。手の指さえ、動かない。声も――出ない)
隣の曼珠はどうなのか。首も回せないので、瞳をめぐらそうとしたが、それすら自由にならず、曼珠の存在を確認することはできなかった。
目線はただ、前だけを凝視する。
壇上に黒い道服の発と、黒い裙裳の母薛氏が現れた。同時に、発の部下である灰色の道服の男たちが、布で覆われた臥牀を運んできた。
(あれは、なに? 誰か、横たわっているの)
臥牀の下には、口の広い漆黒の大甕が置かれている。
発はひな壇のほうを向き、翠晶たちに跪拝した。そして臥牀に向き直ると、ひな壇側だけ白い布を捲り上げた。
(――!)
臥牀には、若い娘がひとり寝ていた。眠っているだけなのか、それとも息がないのか、ひな壇の上からはわからない。
いつの間にか発の手には、獣の角のような円錐形のなにかが握られていた。発はそれを高く掲げて信徒に示してから、躊躇もなく横たわる娘の頸に刺した。
(……いや! なにをするの。それはなんなの? その子は……)
恐怖に悲鳴を上げそうになったが、声など出ない。口の中で、舌が上あごに貼りついただけだった。
円錐形の器具を抜くと、開いた穴から赤黒い血が流れ出た。発は娘の胸、手首、大腿にも器具を突き刺し、血を流す。
(やめて、やめて、お願い、もうやめて……)
翠晶は心の中で懇願した。見たくない。目を閉じたいのに、閉じられない。恐慌に陥りそうだった。
娘の身体から流れ落ちる幾筋もの血の滴は、臥牀の下の大甕に吸い込まれていく。
そのとき、母が細長い酒杯を大甕の上に差し出した。酒杯に血が溜まっていく。
母は、その光景を、恍惚として眺めていた。
血を注いだ酒杯を捧げ持ち、母はひな壇を上がって翠晶たちに向かってきた。最初に左側の曼珠の前に行き、次いで翠晶の前に来た。
母は酒杯を翠晶の前に差し出し、唇に付けた。
(嫌! 嫌だ! 止めて!)
生臭い血の匂いが、香の匂いと混じり合って鼻孔に流れ込む。翠晶は心のすべてで拒絶した。
だが母はそれ以上、なにもしなかった。酒杯を引き寄せ、翠晶たちに拝礼し、ひな壇を下りて行った。そして酒杯を発に渡した。
発は両手で酒杯を受け取り、頭上に高く掲げて宣言する。
「〈血の女神〉が供物をお受け取りくださった。〈不死の儀〉は成った。そなたらにも、女神の恩恵が与えられることだろう」
信徒たちの歓喜の叫びが、静寂を消し去った。
(これは、なに……お母さま、これは)
そこまでが限界だった。翠晶の視界が急速に収縮し、意識が暗転した。
「――翠晶」
曼珠の声。翠晶は目を覚ます。
自房の寝間。見慣れた天蓋と、薄絹の帷幄。
臥牀に腰かけた曼珠が、心配そうに覗き込んでいる。
「曼珠……」
「よかった、目覚めてくれて」
ほっと安堵の息をついて、曼珠が微笑した。いつもの曼珠らしくない、精気に欠けた笑み。
「曼珠、あたしたち」
「あたしたちは、お母さまと発に騙されていたの。あんな……おぞましい儀式」
瞬間、翠晶の脳裏に廟堂での記憶が蘇る。香と血の匂いまでが、まざまざと感じられた。
(あれは、現実だった)
両手で顔を覆う。涙があふれて頬を伝った。
「……どうして、あんなことを」
「発のせいよ。発がお母さまを誑かしたの。異教の〈血の女神〉に生贄を捧げて、贄の血を飲むことで、不老不死になれるって。お母さまはもう、発の言うことしか聞かない。あたしたちの言うことなんて、聞いてくれない」
父とは異なり、母の薛氏は、もともと娘たちへの関心が薄かった。彼女が興味あるのは、自分自身の若さと美しさだけだった。
「ねえ、翠晶――逃げよう」
曼珠は翠晶の手を強く握った。
「邸を抜け出して、稽州の叔父さまのところへ逃げよう」
「でも……稽州は、遠いわ」
「ふたりでなら、行けるよ。この邸にはもう、あたしたちの居場所はないのよ」
曼珠のまなざしは真剣だった。
(ふたりなら……)
生まれたときから十六年、ずっと一緒に生きてきた。ひとりなら無理なことでも、ふたりなら、できるかもしれない。
「……うん」
冷たい曼珠の手を、翠晶も強く握り返した。
「つい先刻、お母さまと発は〈精魄道〉の信徒に導引を指導するために廟に出かけた。あと一刻は戻らない。いまのうちに出よう」
曼珠に促され、翠晶も慌てて身支度をした。旅に必要な物は、装飾品を売って金に換えてから揃えようと決めた。とにかく少しでも早く出奔しなければ。
下僕たちに気取られないよう、何事もないふりをして院子を横切り、誰も見ていないのを確認して素早く裏門から外に出た。
「意外と簡単だったね」
曼珠が明るい声で言った。肯定の返事をしようと目を上げた翠晶は、二度と見たくなかったものを見つけ、硬直する。
「――何処へ行くつもりかね、小姐たち」
冷たい笑みを貼り付けた青白い顔の男が、小路を塞ぐように立ちはだかっている。
「どうして……」
翠晶は曼珠の腕に縋りついた。曼珠は翠晶を庇うように、自分が前に出る。
ゆっくりと発が近づいてくる。逃げ出そうとするのに、足が地面に縫い留められたかのように動かない。
「――」
発は異国の言葉でなにか呟いた。呪文のようだと思った刹那、
「!」
翠晶は全身の力が一気に抜け、地面に座り込んだ。曼珠も同じだった。
「愚かだな。わたしが、きみたちを逃すような隙を作ると思ったのか」
嘲るような発の声音。
「わたしが来てから、きみたちには特別な食事を与えていた。その効果は十分なようだ」
(まさか……食事に薬を)
廟堂で焚き染める香には、信徒を惑わし、幻覚を見せるための薬草が使われている。幻覚や幻聴の中で吹き込まれた言葉は、女神の啓示として信徒の意識に刻み込まれる。
発は信徒を支配するように、翠晶と曼珠も支配しようとしていたのだ――彼の舞台を降りることのない演員として。
「〈血の女神〉の巫女になるために、きみたちも生まれ変わらなければならない。――従順な、わたしの民として」
逃げられない――。
絶望が、翠晶を打ちのめした。