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三  眉月

 ――アイダール。

 父の呼ぶ声が聞こえたような気がして、アイダールは目を覚ました。

 宿屋の窓から、外を眺める。暗い夜空を切り離すように、険しい山稜の影が聳えている。

 高く黒い峰の連なる山脈、その谷間の森の中に故郷の村がある。人間には見つからない安全な場所だ。

 アイダールの一族は吸血鬼(ウブル)である。

 吸血鬼とはいうものの、アイダールの種族はそれほど多量の血を飲む必要はなく、むしろ人の精気を糧にしているほうが多い。食事が必要なときは、森を出て近くの人間の村を訪れ、気づかれないうちに摂取してくる。

 光と闇がまだ曖昧に溶け合っていた時代。人々は神に祈り、昼の平穏を喜びつつ、魔性を恐れ、夜の不安を抱いて生きている。生命を脅かすほどではない小さな怪異は珍しくもなく、不吉な予感がしたときは、祈りの言葉とまじないによって、それを避けようとする。

 アイダールの一族は、そうやって二百年もの間、人間と共存してきた。

 一族といっても、血の繋がりはない。吸血鬼は人間の血を飲み、自分の血を与えることで人間を同族に変える。アイダールは赤子のときにいまの父に拾われ、育てられた。父の後継者になることを受け入れたとき、父から血を与えられたのだ。

 村のほかの者は、様々な理由で集まってきた。戦で生き残ったが家族を失い絶望した者、夫の暴力から逃れてきた者、異民族の奴隷だった者など、いずれも行き場のない孤独な者たちだった。

 最初の血が誰だったのかは、もはやわからない。だが、新たにやってきた者は、先にいた者から血を与えられるということを連綿と繋いできたため、血族といっても間違いはないのかもしれない。

 いま、書物が欲しくて大きな街まで来ていたアイダールは、帰路の途中だった。明日には故郷の村に着く予定だ。

(父さんの夢でも見ていたのかな)

 父にはヘラス産の上質な葡萄酒を土産に買った。村の者たちには、山では滅多に食べられない砂糖の菓子を持って帰る。

(なるべく早く、帰ろう)

 アイダールは寝台に横になり、眠った。

 翌朝、日の出と同時に宿を発ち、山脈を目指す。

 近隣の村々を抜け、故郷の森から一番近い村まで来たとき、険悪な空気が漂っているのを感じた。

(血の匂い――)

 アイダールの胸がざわめく。

 武器を持った男たち。剣もあれば、鎌や斧もある。汚れた赤黒い染みは血痕だ。

(この血の匂いは……まさか、そんな)

 アイダールは駆け出した。

 人間の血の匂い。それに交じって、彼の一族――吸血鬼(ウブル)の血の匂いがした。木が焦げた強い臭いもあった。

(嘘だ、嘘だ。そんなことがあるわけない)

 森の中を必死で駆ける。焦げた臭いがどんどん強くなる。そして、自分と同じ一族の血の匂いも。

「――!」

 村は壊滅していた。

 家は焼かれ、炎は周辺を取り囲む森までを焦がしていた。どこにも、誰の姿もない。

「父さん! 父さん! 誰か……誰か、いないのか!」

 叫びながら、走り回る。何本もの矢が散乱している地面には、所々、黒い大きな染みができている。それを見やりながら、自分の家に向かった。

 一族の首領である彼の父は、村で最も大きな屋敷に住んでいた。その屋敷も、土台の石を真っ黒に焦がして残しただけで、あとは焼け落ち崩れていた。

 屋敷の裏の地面にも黒い染みがあり、そこでなにかが光った。近づいてみると、埃にまみれた青石の指輪が落ちていた。

「父さんの……」

 はっとして、アイダールは地面の染みを見た。

「まさか……これは」

 震える手で染みに触れ、顔を近づけて匂いを嗅ぐ。

 慕わしい父の血の匂いがした。

「あああーっ!」

 黒ずんだ地面に伏せ、アイダールは声を上げて泣いた。慟哭が村中に響いていることにも構わなかった。

 点在している黒い染みは、すべて一族の者が消滅した痕跡だったのだ。

「酷い……ここまでする必要があるのか! わたしたちは、おまえたちの生命を脅かすことはなかった。おまえたちの日々の営みを乱すことなど、しなかったのに!」

 父の指輪を握りしめ、アイダールは村をさまよう。誰かひとりでも生き残った者がいないだろうか。

 動くものは、なにもなかった。家畜小屋も焼け落ちていたが、中に家畜の死骸はない。殺戮者に連れ去られたのだろうか。

 幽鬼のように歩いて、村外れに辿り着く。森に入って少し進むと、小さな洞窟がある。アイダールは洞窟に入り、暗闇を進んだ。

 やがて、上に向かう狭い石段に突き当たる。重い足を持ち上げながら、石段を上った。

(……気配がある)

 上るに従い、上から動くものの気配が伝わってきた。アイダールははっと顔を上げ、疲れを忘れて駆け上がった。

 二百段もの石段を上りきると、山の中腹に切り開かれた狭い土地に出る。そこには小さな教会があった。

 焦燥に駆られながら、アイダールは教会に飛び込んだ。

「……ひっ」

 引きつれた悲鳴。ざわざわと石床をこする衣服の音。

「そこに、いるのか。……生きて、いるのか」

 祭壇の闇に向かって呼びかける。

「ア……アイダールさま?」

 女の声。アイダールの胸が熱くなった。

「そうだ、わたしだ。そこにいるのは誰だ」

 沸き上がるように、溜め息と、すすり泣きが聞こえた。アイダールは祭壇の下に近づく。

「アイダールさま、よくお戻りくださいました」

「アグダリアか。無事だったのだな。あとは誰がいる」

 アグダリアと呼ばれた女が、名を上げていく。七人の女が隠れていた。

「わたしを含めた五人が、たまたま教会の清掃に来ていて助かりました。そこへ、ふたりが村から逃げてきたのです」

 アイダールは逃げてきた娘のまえに屈んだ。

「サフィラ、よく逃れてきてくれた。なにがあったか、教えてくれるか」

 サフィラという娘は、細い肩をがくがく震わせながら、言葉を絞り出した。

「……とっ、突然だったんです。クリアニ村の男たちが、剣や鎌を持って……吸血鬼(ウブル)を皆殺しにしろと、叫んで……弓矢がたくさん飛んできて、あの……矢じりが銀だったので」

 吸血鬼(ウブル)は銀に弱い。銀が体内に入ると、炎が燻ぶるように身体を壊していく。

「なぜ、知られたのだ? 二百年間守られてきたのに」

「あの……タマズが」

「羊飼いのタマズか」

 サフィラは小さく、何度も頷く。

「タッ、タマズは、クリアニ村の娘と恋仲になっていて……自分のことを、打ち明けてしまったんです。それで……タマズの案内で、クリアニの男たちが」

 アイダールは項垂れて額を押さえた。

「タマズはまだ少年だ。一族に加わって日も浅い。……愚かなことを」

 そばかすの浮いた顔で笑う純朴な少年の姿が目に浮かんだ。

「そのタマズは、どうなった」

 サフィラはしゃくり上げ、また泣き出す。

「あっ、案内が済んだら、もう、用はないって……喉を切られて……」

 女たちの嗚咽が大きくなる。アイダールは胸を強く押さえた。

「……それで、皆を殺したのか。……父も」

「はい。……次々に襲われて、殺されて……クリアニの男たちは、皆の家を荒らして、使えそうな物を奪っていきました。馬や牛や山羊もです。それから……村中に火を放ちました」

 凄まじい怒りが、アイダールの腹の底から噴き上がった。

「アイダールさま! どちらへ?」

「クリアニ村を、滅ぼしてやる」

「いけません!」

 アグダリアが彼の袖を押さえて留めた。

「離せ、アグダリア」

「いいえ、いけません。危険です」

「人間ごときに」

「あの、明日また来ると、言っていました。ほ、ほかの村からも応援を呼んで、い、生き残りがいないか、捜すと」

 ふるえながらも、サフィラが懸命に伝える。

 アイダールは女たちを見回した。気丈なアグダリアの強いまなざし。怯えている女たちの縋るようなまなざし。

「――!」

 石床に強く拳を叩きつけ、アイダールは歯を食いしばった。



 殺戮から逃れるため、アイダールは女たちを連れて故郷を去った。

 彼の一族は音楽を好んでいた。歌舞や楽器の演奏に長けていたため、それを利用して旅の舞踊団に偽装した。

「東へ行こう。大陸の東の果てに、稜という国がある。大国で、西方とも交易を盛んにしているから、隊商路が整備されている。稜の皇都永春には、異国人も多く住んでいるというから、われらが行ってもさほど目立たないだろう」

 アイダールは戦経験のある父から剣を習っており、護衛の役に立った。だがひとりで皆を守り切るのは困難であるため、ほかの隊商に同行させてもらうようにした。

 徒歩と、可能であれば騎馬や馬車を使い、一年以上かけて、ようやく稜の皇都永春に到着した。

「青楼を開きましょう」

 女たちの中で一番年長のアグダリアが提案した。

 永春に来て宿を借り、今後どのように暮らしていくか、皆で相談しているところだった。アイダールはもちろん、女たちもそれぞれ街に出て、皇都の様子を確認したり、調べたりして情報を集めた。

「青楼は、娼館ですが、わたしたちの考える娼館とはかなり違います。青楼の女には歌舞や詩歌音曲の才能、教養と話術が求められます。芸に優れ、高い教養や巧みな話術があればあるほど、店の格式も高くなります」

「しかし……客の相手をしなければならないのは、変わらないだろう。おまえたちに、そんなことをさせるわけにはいかない」

 アイダールは反対したが、女たちの決意は、彼が思うより固かった。

「アイダールさま。わたしたちは、あの殺戮から運よく逃れることができました。奪われた一族の者のためにも、わたしたちは生きていかなければなりません。そのためには、どんなこともする覚悟があります」

 アグダリアが言うと、女たちはみな賛同した。

「……すまない」

 礼を言いたかったのに、アイダールは謝ってしまった。いまは自分が一族の頭目であるのに、彼女たちに選択させてしまった不甲斐なさが胸に重かった。

「そんなに落ち込まないでください。これはじつは、とても都合が良いことなのですよ」

「都合が良い?」

 アグダリアが悪戯っぽく笑った。

「そうですよ。青楼が繁盛して、客がたくさん来てくれれば、わたしたち食事に困らなくなるのですよ」

「……あっ」

 やっと仕組みに気づいたアイダールに、女たちは明るく笑った。

 女たちの意を受けて、アイダールはすぐに動いた。

 永春最大の遊里である鶴慶坊に土地を買い、役所に届出して新たな青楼を建てた。西域からきた胡姫である珍しさを看板にして、〈金繡楼〉を開いたのである。

 それに伴い、名を変えた。月を意味するアイダールから月祥(ユエシャン)と名乗った。アグダリアは姚蝉(ヤオチェン)に、サフィラは銀心(インシン)のように、女たちも生まれ変わった。



 〈金繡楼〉を開いたばかりのころだった。まだ知名度がなく、客も老舗の大店が手放さなかったため、月祥は女たちの食事を確保することに苦心した。彼女たちを飢えさせないことを優先するあまり、自分の飢餓は後回しにしていた。

 その夜、眩暈がするほどの渇きに耐えられなくなった月祥は、行きずりの男を捕えて路地裏に隠れ、渇きを癒そうとした。

「――そこでなにをしている」

 暗闇の路地裏に、闖入者の声が響いた。

 月祥は、はっと振り返る。

 背の高い人影。長袍に長靴で、貴人のようだった。

「具合でも悪いのか。手を貸そうか」

 男は傍若無人なまでに、ずかずかと近づいてきた。

 月祥は狼狽した。腕に抱きかかえていたのは、失神させた男。いまにも血を飲もうとしているところだったのに。

「うん?」

 闖入者はまだ若い青年だった。月祥の傍らに屈み、まじまじと月祥を見つめた。

「……うーん」

 そして、ぐったりと抱きかかえられた男と見比べる。なにを考えているのか。月祥は動けない。

「おぬし、人ではないな」

 いきなり見抜かれ、月祥は驚いた。渇きのため気が散漫で、人間ではない気配が漏れていたのかもしれない。

「異類の者か。その男を獲物にするつもりだったのか」

 物騒な状況をずばずばと言い当てられる。だが、青年の口調はどこかのんびりしていて、切迫した様子がない。

「その者を獲物にすると、死ぬか」

 青年が月祥に問う。どういうつもりなのか、月祥には測りかねたが、

「いや……死なない。ほんの少し、もらうだけだ」

 無意識に返答していた。

「なるほど。では、その者は見逃してやってくれんか。代わりに、おれがやろう」

(……なにを言っているのだ、この人間は?)

 月祥は青年を見つめた。申し出の理由がわからない。いや、そもそも、この状況で犠牲の身代わりを申し出る人間など存在するのか。

「おまえは……馬鹿か」

「すいぶんだな、異類。……いや、おれは最近、退屈でな。なにか面白いことがないか探していたんだが、異類の餌食になったことはないから、試してみたいと思った。おぬしのような別嬪なら、なおさらだ」

 青年は頓着なく笑う。そして、月祥に顔を近づけた。

「嫌なら、官憲を呼ぶぞ。どちらがいい?」

 窺うように訊ねる。半ば脅迫といっていい。

 月祥は頷くしかなかった。

 路地裏に失神した男を残して、月祥は青年と別の路地に入った。

「さあ、やってくれ。おれは、どうすればいい」

 青年は長袍の両腕をひろげて見せた。害意がないことを示しているのかもしれないが、あまり正気とは思えない。

「……片袖を捲れ。肘の内側からもらう。そこなら痕が目立たない」

「わかった」

 青年は躊躇なく左袖を捲り上げた。

 月祥は警戒を解かず、慎重に青年に近づく。そっと彼の腕をとり、かたく引き締まった筋肉を感じながら、肘の内側のやわらかい肌に、唇を当てた。

 青年が小さく息を飲む。

 少しだけ開けた穴から、芳しい香りと甘露の滴が押し寄せ、月祥の口中を満たした。青年の精気は瑞々しく、鮮烈で、月祥の身体の中を奔流のように駆け巡った。

 自分は気づかないうちに、どれほど飢えていたのだろう。渇きを癒すことに、月祥はこれほどの悦びを覚えたことはなかった。

 満ち足りて、唇を離す。

「……驚いたな」

 青年が、呟いた。呼吸が乱れている。

「妖魅の力なのか。まるで……」

 黒い瞳が、熱を帯びたように薄闇に光る。月祥はばつが悪くなり、目を伏せた。

 青年は袖を戻した。

「おれは(バイ)暁賢(シャオシェン)。おぬしの名はなんという」

「月祥……(シュアン)月祥」

「月祥か。何処へ行けば、おぬしに会える?」

(――なに? なんと言った?)

 月祥は不思議な気持ちで、白暁賢と名乗った青年を見た。

「おぬしに会えば、退屈せぬような気がするのだ」

 孩子(こども)のような笑顔で、青年は笑った。

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