十一 青を踏む
「いい陽気だ。気持ちいいな」
暁賢は両腕を上げて伸びをし、敷物の上にごろりと横になった。
「見ろ、空が真っ青だ。昼間に外に出るのも、悪くないだろう」
「……そうだな」
宵娥である月祥は、同じ敷物の上に坐し、日除けに紗の頭巾を被っている。
永春郊外の草原。暁賢に誘われた月祥ら金繡楼の妓女たちは、軽食を持って踏青――野遊びに来ていた。
〈精魄道〉の一件から、七日が経っていた。
発稀夢の部下であり、〈精魄道〉の幹部だった者は刑部に捕縛され、裁きを受けている。〈精魄道〉は解体され、消滅した。
開祖である薛氏の婚家、戴家は邸を含めた全財産を没収、ひとり生き残った双子の妹翠晶は、稽州にいる父方の親戚に引き取られた。
官憲の裁きは薛氏の実家にまでおよび、主人の薛鐘成は尚書左丞を失脚し、外官として永春から去った。
〈不死の儀〉に参加していた信徒たちは、やはり儀式の記憶はなく、それぞれ〈精魄道〉とは無縁だったころの生活に戻っているようだ。
「こうして明るい日差しの下にいると、あの臭い香が焚きしめられた廟堂で起きたことなど、夢の中の出来事のように思えるな」
暁賢が仰向けに天を見上げながら言う。
「……そうだな」
生返事をしながら、月祥は思い出す。自分の欲望のために、実の娘を切り捨てた母親。互いをかばいあいながらも引き裂かれた姉妹。
いまでもまだ、あの時飲んだ薛氏の血の味を覚えている。
麻黄と罌粟が混ざった、悪い酩酊を引き起こす濁った血。事件後、月祥は三日ほど気分が悪かった。
「月祥、おまえ先刻から、そうだな、しか言わんな。人の話を聞いているか」
「聞いていることもある」
「おまえな」
文句を言いかけて、暁賢は止めた。
「発は……何者だったんだろうな」
「わからん。方士のようなものだろうが、異教の魔術を使う危険な男だ」
あの獣のような、眸の小さい飴色の眼――あれは果たして人間の持つ目だろうか。
「ああいう輩は、またどこかで傀儡になりそうな人間を見つけては、惑わして悪事を働くのだろうな。逃がしたのが悔やまれる」
「ああ。……おまえが無事で良かった」
暁賢が目を瞠って月祥を見た。
(――しまった)
口にするまいと思っていたのに、つい気が緩んでしまった。月祥は慌てて目を逸らす。
「そんなに、おれのことが心配だったか。なるほどなあ」
「なにがだ。にやにや笑うな、気色悪い。おまえの兄までが訪ねてきたら、多少は心配になるだろう」
「へへえ」
暁賢はからかうように、それでもどこか嬉しそうに笑った。
月祥はその開けっぴろげの笑顔を睨み、そっぽを向く。
「……あれほど気に掛けてくれる家族がいるのだ。もっと、自分の身を大事にしろ」
「そうだな。養子のおれのことを、本当の息子や弟のように思ってくれている。……血の繋がりなど、当てにならぬものだ」
「……」
そこへ、息を切らした瑞星が走ってきて、膝から崩れた。
「いかがした、瑞星」
「いえ、もう、疲れて、無理、です」
草の上に手をついて、はあはあと肩で息をしている。妓女たちと鬼ごっこをしていたのだ。
「おい、おまえは金繡楼で一番若いんだぞ。真っ先に疲れるのか」
「お、お言葉ですが、白公子。わたしは、ただの、人間です。二百年も不老で、元気いっぱいの姐さんたちに、勝てるわけが、ありません」
「瑞星! 休憩はまだよ」
目をきらきら輝かせながら、最年少の妓女の銀心が、瑞星を迎えに来た。
「堪忍してください、もう無理ですってば」
「瑞星がいないと、つまらないの!」
泣き言を聞き入れてもらえず、情けない顔をしながら、瑞星は銀心に引っ張られていった。
「そりゃそうだ。何百年も老いず衰えずにいられる種族に、人間が太刀打ちできるはずないものな」
暁賢は笑いながら、冷たい茶を飲む。
「……暁賢」
「なんだ」
「おまえも、不老不死に、憧れるか」
茶を飲む手を止め、暁賢が月祥を見つめた。
「わたしたちは……」
吸血鬼が人間の血を飲み、人間に吸血鬼の血を与えれば、与えられた人間は吸血鬼となって成長を止める。前に暁賢に、自分たちは不死ではないと言ったが、手順を踏んで滅ぼされない限り、生き続ける――人の血と気を糧として。
(憧れられるようなものではない。むしろ、忌み嫌われる存在だ)
「不老不死か。薛氏の妄執は、わからんでもないが……おれは憧れんな」
明確な否定に、月祥はなぜか安堵する。
「そうか」
「そうとも。おれは不老不死となるより、不老不死の友とつるんで遊ぶ方がいい」
「は……? なにを言っているんだ」
不意打ちを食らって、月祥は戸惑う。
「最初に逢ったときから、ずっと思っていた。おまえといると、きっと退屈しないだろうとな。そう言っただろう」
少しも悪びれずに、暁賢は破顔する。本気で思っているらしい。
「なにを言っているんだ、おまえは! つい先刻、自分の身を大事にしろと言っただろう。今回は運よく無事だったが、少し間違えば殺されていたのだぞ。退屈まぎれの遊びではない」
月祥は暁賢の確かな出自を知らない。知らないが、予想していることはある。〈不死の儀〉のときの発の言動から察するに、予想はおそらく遠からず当たっているだろう。
月祥よりも上背が高く、月祥よりも頑健そうな堂々たる体躯をしている。だが人間である暁賢は、月祥よりも簡単に死んでしまうのだ。
暁賢は怒る月祥の様子をじっと見つめ、ふっと短く嘆息した。
「おまえこそ、なにもわかっていないな。おれは何度も言ったぞ、これは友情だと。友が困っているのに、力にならないのは、大丈夫たる男の器量ではない」
暁賢は腕組みをし、真摯なまなざしで月祥を見つめた。澄んだ黒い瞳が、偽りはないのだと主張している。
――異類同士で友になど、なれるのだろうか。流れる時間に、大きな隔たりがあるとしても。
(自ら異類の餌食になろうなどという阿呆なら、あり得なくもないか)
月祥は目を伏せ、肩を落とした。
「……今日、踏青に誘われなかったら、言おうと思っていたのだが」
「おお、なんだ」
「〈精魄道〉の廟堂で、いままでにないほど血を飲んだ。だから、ひと月くらいは飲まなくても足りそうだ。――おまえも、向こうひと月はうちに来なくてよいぞ」
上目遣いに見つめる。平静を保っているが、口元が緩みそうだった。
暁賢は、ぽかんと口を開け、次いで怒った。
「おれは、おまえの飯だけか!」
堪え切れず、月祥は吹き出した。笑い出したら止まらず、ついには腹を抱えた。
月祥のめずらしい笑い声を聞いて、瑞星や妓女たちが集まってくる。
朗らかな笑い声は、透きとおった青空の高みへと、ゆるやかに軽やかに上っていった。