十 蛇の宴
「どうぞ、中へお進みください」
門衛の確認を受けた木札を受け取り、月祥は丁寧に一礼して入り口を通過した。
巳の日の夜。〈精魄道〉の〈不死の儀〉が行われる廟堂への潜入の日。
目立ちすぎる銀色の長い髪は、縄のようにひとつに編んで背中に垂らし、頭から大きな巾で巻いて覆った。衣装は灰色の簡素な道服で、これが決まりの装束らしい。
(う……なんだ、この香の匂いは)
廟堂に入った途端、どっと押し寄せてきた香の煙。人間より五感が鋭い月祥は、袖で鼻を覆いかけたが、我慢した。
(沈香と白檀でごまかしているが、麻黄が強い。それから罌粟と、これは……曼徳拉草か)
香に混じって、幻覚や催眠作用のある薬草が焚かれている。
薄暗い堂内には、三十人くらいの信徒が集まっていた。
皆が同じような表情――夢を見るような表情をして、ふわふわと揺れている。独り言を言い続ける者、隣りと噛み合わない会話を続ける者など、誰もが夢と現実のあわいをたゆたっているように見えた。
(なるほど。儀式が終わり、正気に戻ればこの場の記憶がなくなるというわけか)
月祥は自身も香にあたった様を装って、少しづつ集団の前のほうに進み出た。
堂の上座には、戯の舞台のような壇があった。壇上の左右の端にそれぞれ数本の燭が灯されており壇の中央を明るく照らしている。
中央には階段状のひな壇が設えられていて、最上段には飾り椅子が二脚並んでいた。
(……このどこかに、いるのか、暁賢)
思いながら、ひな壇の奥を見る。黒く大きな何者かの影。
(神像か。〈血の女神〉というのは、あれか)
薄い紗の幕が下りているため、燈火も届かず、明瞭には見えない。月祥は目を凝らす。
黒檀で彫られているように真っ黒な像だ。胡坐をかいた坐像のようである。頭には丈の高い王冠を被り、豊かな長い髪を腰まで垂らしている。
異形なのは、腕が左右に二本ずつあることだった。また首には、幾重にも首飾りを垂らしているが、その一番大きなものは、人間の頭蓋骨を連ねて作られている。
(磨陀羅国の破壊の女神に似ているな。あの女神も、殺戮と血を好む女神だったか)
ふと考えたとき、
「――巫女さまのご降臨である」
厳粛な男の声が響いた。どこか戯めいて聞こえるのは、月祥だけが醒めているせいか。
さざめいていた声が、ぴたりと止み、一瞬で静寂に変わる。
月祥は壇上を凝視した。
壇の両袖から、華奢な人物がひとりずつ現れた。左側から来たのは、赤い裙裳に薄紅色の衫、薄紅色の披帛をまとった女。右側からは、碧の裙裳、薄緑の衫、薄緑の披帛の女。
ふたりの女はまったく同じ所作で壇の中央で向かい合い、同時に背を向けてひな壇を上る。そして、壇上の椅子に腰を下ろした。
(双子か。まだ十五、六歳の少女ではないか)
陶器のように白い肌の美しい双子の少女。長い黒髪をふたつの髷に結び、きらめく歩揺を挿している。結っていない髪は胸前と背中に長く垂らしている。
印象的だったのは、ふたりの瞳の色だった。燈火をはらんで時折光る眼は、左の少女が紅玉のような赤、右の少女が碧玉のような碧だ。
双子の少女に表情はなく、本当に人形のように、じっと動かず座っている。
「〈血の女神〉と巫女さまに、跪拝、叩頭礼を」
再び男の声が響く。すると一同は一斉に跪き、深く叩頭礼をした。月祥も遅れずにそれにならう。
「それでは、これより〈不死の儀〉を執り行う」
男の声が終わるや、銅鑼の音が鳴り響いた。月祥には、頭の中で直に鳴らされているように感じられた。
壇の左手側から、新たな人物が現れた。
背の高い黒衣の男と、黒い裙裳をまとった女。
続いて右手側からは、灰色の道服の男たちが臥牀を運んできた。臥牀の上には、人が横たわっているような大きな隆起があり、それを覆い隠して白い布が掛けられている。
(――暁賢!)
月祥は息を詰めた。あの布の下に暁賢がいる。そう確信した。
(……なにをやっているのだ、間抜けが)
奥歯を噛みしめ、月祥は臥牀の隆起を睨む。
臥牀の下に、口が広く開いた大甕が置かれている。あの中に、生贄から搾り取った血を受けて、溜めるのだろう。
背の高い黒衣の男が進み出て、臥牀の向こう側に立ち、ひな壇の上に坐す巫女たちに跪拝した。そして立ち上がって信徒のほうを向くと、両手をひろげて白い隆起を指し示した。
「これなるは、〈血の女神〉への今宵の供物である。今宵は特別な儀式だ。〈紅花娘娘〉よりも類稀なる高貴な血が、〈血の女神〉へと捧げられるのだ」
叫びながら、黒衣の男は手にした何かを頭上にかざした。
それは、鋼でできた獣の角のような、円錐形の器具だった。
なにに使うものであるか、月祥は瞬時に理解した。
(娘の身体に穿たれた穴……瀉血器だ)
黒衣の男が片手で瀉血器をかざしながら、もう一歩の手で白い布を捲り上げる。
(暁賢!)
前に立つ信徒を押しのけ、壇上に駆け上ろうとした、そのとき。
「なに……!」
黒衣の男が呻くのと同時に、その身体が沈み、すぐに弾かれたようにひな壇の下に飛んで倒れた。
「!」
臥牀の布が、さっと剥がれ、見慣れた長袍の青年が起き上がった。
「暁賢……!」
「虚仮威しの戯は、終わりだ――発稀夢!」
朗々とした声を上げ、臥牀から立ち上がる。
「……馬鹿が」
毒づいて、月祥は笑う。そして素早く駆け、壇上へ上った。
「よう、久しぶりだな」
少しやつれたようだったが、暁賢はいつもの人好きのする笑顔で、にっと笑った。
月祥の胸が少しだけ熱くなる。
「なにを、呑気な。おまえの間抜けのせいで、段取りが大幅に狂ったのだぞ」
安堵の気持ちを押し隠し、怒って睨む。
暁賢は澄ました顔で答えた。
「結果的には良かったじゃないか。ひとりの予定が、ふたりで潜り込むことができた」
「この件が終わったら、殴る」
いつの間にか、立ち上がった黒衣の男が、此方を見ていた。青白い顔、波打った暗い髪に、眸が収縮した飴色の眼の異国の男。
「……これは、わたしとしたことが、しくじりましたな。薬が足りませんでしたか」
「いや、悪くはなかったぞ。だが、生憎だったな。おれは育ちがいいから、豎子の時分から、薬草や毒物の知識を叩きこまれていてな。不味いものは吐き出す習慣が染みついている。まあ、幻術遣いに遭遇することは想定していなかったから、捕まるときは無抵抗だったがな」
「幻術遣い」
繰り返し、月祥は黒衣の男を見る。
黒衣の男――発稀夢は、口元を歪めて笑んだ。
「なるほど……さすが、高貴なる血を引く御方だ」
発は両手を打ち合わせた。それを合図に、複数の黒ずくめの男が現れた。顔の半分まで隠した覆面、黒ずくめの褶に褲と長靴。手には剥き身の直刀。
いつかの夜、往来で月祥と暁賢を襲った刺客だった。
「殺せ」
発の命令に、刺客たちが一斉に襲いかかる。
斬撃をかわしながら、月祥は高く指笛を吹いた。
ほどなくして、廟堂の扉が開け放たれた。
「月祥さま!」
瑞星が呼んで、片手を上げる。扉からは、姚蝉を先頭に、西域の短衣を着た金繡楼の妓女たちが飛び込んできて、羊飼いのいない羊の群れのように混乱していた信徒たちを誘導し、外へ逃がし始める。
「おお、段取り通りだ」
「黙れ。おまえが言うな」
暁賢は笑いながら、襲いかかってきた刺客の腕をつかんで引き寄せ、首に腕を巻きつけて締め上げる。刺客はもがき、直刀を落とした。暁賢は刺客を離し、直刀を握る。
斬撃を刀で受け止め、刃を傾けて相手の力を逃し、前にのめった刺客の腹を蹴り上げる。
「暁賢!」
月祥は自分も直刀を奪い、構えながら叫んだ。
「構うな、斬れ!――そいつらは、死人だ!」
語尾を引いたまま、刺客の首を一閃で刎ねる。
「死人、だと」
暁賢は言いながら、迷わず刺客のひとりを斬り捨てた。月祥が応戦しながら暁賢のもとへ駆け寄り、背中を合わせる。
「この前襲われたとき、血でわかった。こいつらの血から、強い芍薬の匂いがした。芍薬は死者を蘇らせる魔術に使われる。死人遣いの術だ」
正面から向かってきた刺客の胸を貫き、蹴って離す。
「あと、胸が悪くなるほど不味かった」
「おまえ……あのときに、わかっていたのか。なぜ、すぐに教えなかった」
「知れば、おまえ、面白がるだろう」
ふたりは同時に左右に飛び、円を描くように敵と斬り合っていく。
「――お母さま!」
突然、悲鳴のような少女の声が響いた。
月祥が声のほうを振り返ると、壇上で、黒衣の女が、巫女である双子に向かって歩み寄っているのが見えた。
黒衣の女の背後には、発が立っている。
「暁賢、ここは任せた」
「なんだと」
月祥は壇に向かって走った。
月祥に気がついた発が、両手を開いて此方に向ける。
「……!」
まるで空気の塊を投げつけられたように、なにもない空間で、月祥は阻まれて膝をついた。
「ほう……あなた、人ではありませんね。人であれば、その場で留まることなどできぬはず」
「おまえこそ、何者だ」
月祥は立ち上がる。
「幻術遣い、死人遣いで、魔術師か。未亡人を誑かし、宗教集団を組織して、なにを企んでいる」
「のんびりわたしと話している余裕がありますか」
不敵な笑みを浮かべ、発が指差す。
黒衣の女――薛氏であろう女が、碧の裙裳の娘の腕を捕え、短刀を振りかざしている。
「血を……血を……早く、早く、飲まないと……」
薛氏の眼は見開かれ、真っ赤に染まっていた。焦点が合っていない。捕えているのが、自分の娘であることすら、わかっていない様子だ。
「永遠に醒めない夢を見ておりますよ。不老不死……終わらない生と、変わらない若さと美しさを求めて、血を求める。生きている限り、夢からは解放されない」
喉の奥から低く笑って、発は壇の袖の幕間に消えた。
月祥は一瞬だけ迷った。発を追うか、薛氏を止めるか。
その一瞬の間の出来事だった。
「お母さま、止めて!」
「翠晶!」
碧の裙裳の娘に、ひらめく短刀が振り下ろされる、その瞬間。
赤い裙裳の娘が、碧の裙裳の娘の前に覆いかぶさった。
「曼珠!」
鋭い短刀が、赤い裙裳の娘の背中に、深々と突き刺さる。
月祥は腕を振って薛氏をなぎ倒した。
床に転がった薛氏は、背中を強かに打ちつけ、起き上がれないようだった。苦しそうな喘鳴に、血の泡を吐く。喘ぎの合間に、譫言のように、なにかをぶつぶつ呟いていた。
その唇に月祥が耳を寄せる。
「血……ああ……血が、流れてしまう……命が……わたしの、永遠の命が……」
血に染まったまなざしは、なにも見ていない。自らの手で殺そうとした、哀れな娘の姿さえも。
――永遠に醒めない夢を見続ける。生きている限り、苦しみは終わらない。
月祥は、薛氏をそっと抱き起した。乱れて張りついた髪を避け、細い首筋をあらわにする。
「夢はもう――終わりだ」
首筋に口づけ、歯を深く沈ませた。
「ああ……」
溜め息のような息が、薛氏の唇から漏れた。
月祥は、女の生命のすべてを飲みつくすように、その血を飲んだ。
「曼珠……曼珠、ねえ、しっかりして。死なないで、曼珠」
碧の裙裳の娘が、赤い裙裳の娘を抱きしめている。赤い裙裳の娘の身体からは、もう力が抜けている。
「翠……晶」
赤い裙裳の娘の声。か細く、間もなく消えるであろう生命の火の、最後の光。
「曼珠、喋らないで。すぐに、お医生さまを呼んでもらうから」
曼珠という赤い裙裳の娘は、苦笑するように笑んで、瞬いた。
「あたし……無理だから。わかるの、もう……」
「曼珠、いやだ、そんなこと言わないで」
碧の裙裳の娘――翠晶は、泣きながらかぶりを振る。
「ふたりで逃げようって、言ったじゃない。邸を出て……発からも、お母さまからも離れて、稽州の叔父さまのところへ逃げようって、言ったじゃない」
曼珠は眩しそうに微笑した。目の端から、涙の粒がこぼれる。
「あたし、行けない……だから、翠晶……ひとりで、逃げて」
「無理よ! ひとりでなんて、行けない! あたしたち、生まれたときからずっと一緒だったじゃない! ひとりなら無理なことでも、ふたりなら……ふたりでなら、生きていけるって……」
翠晶は懸命に声をかける。
「曼珠を置いてなんて、行けるわけ、ないよ……」
血に塗れた曼珠の細い手が、ふるえながら上がり、涙で濡れた翠晶の頬に触れた。
「……一緒に、いるから……あたしたち、ずっと……だから」
――行って。
声もなく唇だけが動いて、閉じた。
曼珠の身体から、生命のすべてが流れ落ちたのを、傍らにたたずむ月祥は見届けた。
「いやだ、曼珠! 曼珠……戻ってきて。ひとりに、しないで……」
翠晶は曼珠の名を呼びながら、大声で泣いた。そして、不意に月祥を見上げた。
「曼珠を……助けてください」
「……えっ」
怯む月祥の足元に、翠晶がにじり寄って、平伏する。
「助けてください。お母さまを……救って差し上げたのでしょう。だから、曼珠も……」
「――無理だ」
月祥は吸血鬼だ。血を飲み、飲み尽くせば奪う者。与える者ではない。
(……いや、もし、わたしの血を与えれば)
吸血鬼が血を飲み、吸血鬼も血を与えれば、与えられた人間は蘇る――吸血鬼として。
(それは、救いではない。決して)
「お願い……曼珠の代わりに、あたしが死にます。あたしの命の代わりに、曼珠を助けて……」
「できない」
ひざを折り、翠晶のまなざしを真っ直ぐに見つめ、月祥は優しく、だがはっきりと断った。
「う……」
少女は顔を歪め、姉妹の亡骸を守るように抱いて、幼子のように泣いた。
「……月祥さま」
いつの間にか、瑞星や姚蝉たち妓女が、壇の下に集まってきていた。不安そうに見上げる彼女たちに、月祥はゆっくり頷く。
堂内は、がらんとしていた。信徒はひとり残らず脱出させられたようだ。倒された刺客の死体はすべて、ぐずぐずの腐肉と汚泥の塊になっていた。
「……暁賢は」
「発稀夢!」
暁賢は直刀を握ったまま、月明りに無人の大路をひとり歩く黒衣の男を追った。
呼ばれて、発は振り返った。慌てるでも、動揺するでもなく、鷹揚にすら見える態度だった。
「これは、白公子。わざわざ追いかけていらして、まだなにか御用でしょうか」
「ふざけるな。戴の夫人を誑かして〈精魄道〉を組織し、何人もの娘を殺し、多くの人間を惑わした。その罪から逃れられると思うのか。捕えて、六部刑部に突き出してやる」
暁賢が直刀を構える。
発は、笑った。
「前にも申し上げましたでしょう。わたしは、薛氏の願いを叶えるお手伝いをしただけですよ。夫人が、いつまでも若く、美しいままで生き続けたいとお望みでしたので、その方法をお教えしたまでです」
「おのが娘を犠牲にすることまで、夫人が望んだというのか」
発は、やれやれというように、肩をすくめた。
「親は確かに、子を慈しむものですよ。ですが、すべての親が、必ずしもそうであるとは限らない。ときには我が子を厭い、憎みさえする親もいるのです」
「……」
「薛氏は、お美しい方でした。若いころには、多くの求婚者が毎日のように薛家を訪れたと聞いております。それでも、御年には勝てません。日に日に容色の衰えを感じた夫人は、死よりも老いを恐怖しました」
発は詩を朗じるかのように言った。どこか間延びして聞こえるのは、気のせいだろうか。
「それにひきかえ、双子の令嬢は、日を追うごとに輝くばかりに美しく成長していく……夫人は、ご自身の変化と比べて、羨望と、妬みと、灼けるような憎しみを、令嬢たちに抱きました」
「おのが娘への妬みが、憎悪にまで至ったというのか。それで、娘を利用して、命を奪ってもかまわないと」
「血の繋がりなど、当てにならぬものですよ。――あなたは、よくご存じでしょう」
「――!」
――子孫を残さず。後継者を増やさず。存在さえも、跡形なく消えよと命ずる。
暁賢は歯を食いしばり、こぶしを握り締めた。
「……それでは、おまえの真の目的は、なんだ」
「そうですね……それは」
ゆらりと空気が揺れ、地面が揺れる。暁賢は態勢をくずした。
「お話ししても、おそらく、ご理解いただけないでしょう……あなたのような方には」
水の中から聞こえるような声音だった。目の前で、発の姿が黒い靄になって、陽炎のように揺らめいたかと思うと、月光に溶けて、消えた。
ひとりになった暁賢は、直刀を握りしめたまま、月明りの大路に立ち尽くしていた。