一 永遠の春
「太太、白公子がお越しです」
月祥は眉を顰め、下婢を一瞥して溜め息をついた。
「やれやれ……本当にいつもいつも、間の悪い男だね」
今宵の客足も落ち着き、すべての妓女が客と房間に収まっている。歌妓の朗々とした歌声や琴瑟の奏でられる音、客の陽気な掛け声など、そこかしこで酒宴がたけなわな様子が窺える。
一段落したこの時間に、少し休もうと思っていたところへの来客だった。
「今宵は気分が優れないから、帰れと言っておくれ」
「おいおい、主人が仮病か。そんなことでは下に示しがつかんぞ」
朗らかな男の声。大股に房間に入ってきたのは、上背の高い黒髪の青年。
月祥は青年を睨んだ。
「ここは、わたしの私房だよ。許しもなく気安く入るものじゃない」
「気にするな。おまえの気分が良いときなど狙っていたら、一生来られん。そう怖い顔するな。永春一の美貌が台無しだぞ」
青年は軽口を叩きながら、繊細な草花模様の波斯段通の上にさっさと腰を下ろした。
月祥は諦め、溜め息をつく。
「おまえはいいから、お下がり。瑞星を呼んでおくれ」
下婢を下がらせ、扉が閉まるのを確認すると、月祥は黒髪の青年の対面に大股に歩み寄り、裳裾の乱れも気にせず勢いよく胡坐をかいて座った。
「お行儀悪いな、宵娥姐さん」
「うるさい。殴るぞ」
声が少し低くなる。月祥は胸前に長く垂らした銀色の髪を、乱暴に背中に払う。結い上げた髷を飾る真珠と翡翠の歩揺が、しゃらんと鳴った。
双月祥は、青楼〈金繡楼〉の主人である。表向きは女主人、妓女の宵娥として装っているが、性は男だ。そのことは、ごく一部の者しか知らない。
銀色の長い髪、緑玉の瞳。肌は月光を練った絹のように白い。年の頃は二十歳を一、二年過ぎたくらい。
この国、大陸の東にある稜は、長い戦の果てに周辺の小国を統一して築かれた大帝国である。皇都永春には、東海の島国や大陸の西域、さらに西の果ての異民族の国々から、交易や学芸を修めるために様々な人種が集まる。
稜人はほとんどが黒髪に黒い瞳を持っている。そこに混血が進み、もっと明るい色の髪や、茶色や青い瞳の稜人が生まれた。
だが、月祥ほど異質な姿形は稜人にはいない。月祥は西域の小国からやってきた、胡姫と総称される妓女の類だった。そして彼の経営する青楼〈金繡楼〉で働く妓女は、すべて同郷の胡姫だった。
胡姫しかいない青楼は、永春最大の遊里である鶴慶坊でも珍しかった。最初は物珍しさから客が訪れたが、妓女たちの美貌のみならず教養の高さ、歌舞の才、また機知に長けた巧みな話術が評判となり、瞬く間に皇都で一、二を争う高級青楼となった。
「金繡楼は客を選ぶ。身元の確かな貴顕や士大夫や富商しか上げていない。それは妓女の身を守るためだ。房間の中では、何が起こるかわからない。得体の知れない人間に大事な妓女を預けるわけにはいかない。……なのに、おまえときたら」
「おれか? おれはなにも悪さはせんぞ。見ての通り立派な貴顕だろう」
「自分で言うことか」
「それもそうだ」
青年――白暁賢は声を立てて笑った。
黒い髪、黒い瞳の稜人である暁賢は、精悍で端正な面立ちをしている。月祥より三年ほど年上だろうか。図々しいが決して粗野ではなく、むしろ立ち居振る舞いには品格がある。身なりも上等で、妓女にも人気があるが、青楼に来たというのに妓女を揚げることはほとんどない。たまに泊まることはあるが、広い房間にひとりで寝て、朝餉を食べて帰る。
暁賢が金繡楼に来る目的は、ただ月祥と酒を酌み交わすためだけだった。
(官僚でもなく、商人でもない。というより、まともに働いているのかすらわからない。身元が明らかかといえば、本当は何者なのかもよく知らないのだな)
貴族の道楽公子だろう、と思う。ちょっとした事件で知り合い、月祥の本性を知られたため無碍にもできず、なんとなく付き合いを始めたら意外に気が合うところがあった――ために、いまに至る。
「――太太、申し訳ございません。遅くなりました」
扉の外から、呼びかける声。
「お入り」
月祥が促すと、酒杯を持った少年が入ってきた。
「よう、瑞星。元気そうだな。少しでかくなったか」
「白公子、先週もお会いしております」
暁賢の軽口を丁重に受け流して、少年は控えめに笑んだ。
「悪いね、瑞星。帳場の手伝いはまだ残っているだろう」
「いいえ、太太。白公子がいらしたとあらば、お給仕はわたしの務めです」
「おっ、嬉しいね。おまえは本当に賢い子に育ったなあ。養い親の薫陶がよほど良かったんだろうな」
暁賢がにやにや笑う。月祥は皮肉を受けて睨みつけた。
今年十四歳になる瑞星は、金繡楼の下僕のひとりである。利発で真面目なために皆に可愛がられており、帳場に入ることも許されていた。もとは孤児で、鶴慶坊に隣接した東市の片隅で物乞いをしていたのを月祥に見出され、金繡楼で暮らすことになった。以来、恩人である月祥を崇めるように仕えている。
瑞星は手際よく卓子を設えていく。玻璃杯の上に銀の匙を橋のように掛け、小さな牡丹花を象った飾り砂糖を乗せる。
「苦蓬酒か」
月祥は卓上に置かれた西方の玻璃瓶を見た。
「胡人の行商が持ってきた。おまえと飲もうと思ってな」
暁賢は瓶の口を開け、飾り砂糖の上から苦蓬酒を注ぐ。淡い緑色の液体が、牡丹化の花びらを少しずつ溶かしていく。
二杯の玻璃杯が苦蓬酒で満たされると、ふたりは同時に杯を手に取り、目の前に軽く上げてから飲んだ。
甘くて苦い酒が喉を伝い落ちていく。すぐに湧き上がる熱が、月祥の喉から胃の腑までを温めた。
「……懐かしい。久しぶりだ」
「そうか」
暁賢は口元に笑みを浮かべ、早くも自分は二杯目を注いでいる。
そのとき、房間の外が急に騒がしくなった。
「なんだ、この時刻に」
「見てまいります」
心得たように瑞星が立ち上がり、房間を出ていく。開けた扉から男の怒鳴り声が聞こえた。
「あの声は……薛大人」
「尚書左丞の薛鐘成か?」
暁賢の問いに頷き、男の行動に心当たりのある月祥は、短く嘆息した。
「わたしに用があるようだ。出てくる」
「おれも行こうか」
「いや、その必要はない……」
月祥は暁賢を振り返る。黒い瞳がもの言いたげに見つめていた。
「……そうだな。来てくれ」
頷くと暁賢は立ち上がり、月祥の背後について房間を出た。
艶めかしい紅燈に照らされた廊下を通り、吹き抜けの大庁に出る。月祥たちがいるのは二層目で、吹き抜けをぐるりと回廊が取り囲んでいる。回廊は、青楼の入り口である飾り扉の真正面で二翼の階段になり、踊り場で繋がって、一層目の大庁に下りる階段となる。
その一層目の階段の前で、恰幅の良い五十がらみの官服の男が喚いていた。屈強な下僕がふたり、官服の男が階段を上ろうとするのを阻んでいる。
「宵娥は何処だ! 宵娥を出せ!」
男の顔は真っ赤だ。かなり酩酊しているらしい。
「――いかがいたしましたか、薛大人。そのように大声を出されては、ほかのお客様に障りがございます。どうぞ、お静かに」
「お、おお、宵娥」
薛は赤ら顔を満面笑みくずし、嬉しそうに両腕を二層の月祥に差し出した。
「そなたに逢いたくて来た。今宵の席を買うぞ」
「申し訳ございませんが、今宵は先にお客様がいらっしゃいます。ご容赦くださいな」
「か、金なら、ある!」
「花代の問題ではございません」
「これはこれは、尚書左丞どの。有能官僚で名高い貴公が、かような無作法をなさるとは。鶴慶坊で噂になりますぞ」
伸びやかな声が大庁に響く。月祥の隣から暁賢が顔を出し、薛に声をかけた。
「な……んだと」
薛が目を剥いて暁賢を見、固まった。
「白……暁賢」
「ほう、おれの顔をご存じか」
暁賢はにやにやと人の悪い笑みを浮かべている。薛の赤ら顔か、心なしか青ざめているように見えた。
「宵娥は今宵一夜おれが買った。悪いが引き上げてくれ」
すると薛は悄然として俯き、黙って踵を返して金繡楼を去った。
「とんだことでお騒がせいたしました。どうぞ皆さま、房間でごゆるりとお楽しみくださいませ」
月祥がやじ馬で出てきた客たちを見回す。それを合図に、敵娼の妓女たちが客を促し、それぞれの房間に戻っていった。
「やれやれ、面倒な目に遭った」
月祥も自房に戻り、苦蓬酒を注いで喉を潤した。
「だいぶん、ご執心だったな。そんなにいい思いさせたのか」
からかうように言って、暁賢も苦蓬酒を注ぐ。
「馬鹿を言え。そんなことするか。あいつはもともと、銀心の客だったのだ。銀心がほかの酒宴についているときに来て、不満そうだったから、少しだけ酒に付き合ってやっただけだ。銀心はまだ若くて贔屓にしてくれる客も多くないから、後々困らないように繋いでおこうと思っただけなのだが」
「永春一の名花、金繡楼の宵娥に、あっさり骨抜きにされちまったってわけか」
「隣で酌をしただけだぞ」
「十分だろう」
「わたしが悪いというのか」
「そうは言わんよ」
くくっと喉を鳴らして笑い、暁賢は酒杯を空ける。いつでも余裕がありそうなその様が小面憎い。
(わたしより、はるかに若年で短命のくせに――)
「……ところで、いまさらだが聞いてもいいか」
唐突に暁賢が話を変えた。
「なんだ」
「なんで、おまえは女のなりをしているんだ。青楼の元締めは男のほうが都合がいいだろう。まして、そんな皇都一の美貌を誇る女になってしまっては、薛のように面倒な輩にまとわりつかれて困るだろうに」
月祥は軽く首を振る。
「逆だな。素のほうがやりにくい。青楼の主人が若造では行で軽んじられる。妓女上がりの女主人のほうが、舐められても、まだ立ち回りしやすい」
「色仕掛けか。中身は想像とは違うもんだが、謀られるほうが気の毒だな」
少しも気の毒とは思っていないような口調である。
月祥は匙の上に残った牡丹化の欠片を指先でつまみ、口に放り込んだ。酒が十分に染み込んだ飾り砂糖は、舌の上ですぐに溶けた。
「そういうおまえは、どうなのだ。そんな歳まで独り身でふらふらしおって。花花公子というわけでもないようだが、妻女をもらうか、せめて妾を入れるなりしないのか」
暁賢は薄く笑み、段通の上に肘枕で横になった。
「べつに、おれが守る家門もないからな。それに……おれに子ができたら、それはそれで、いろいろと面倒になる」
「……」
白家は永春の名門、皇太子の師である太子太傅を輩出したこともある家柄だ。だが暁賢に血の繋がりはなく、養子なのだと聞いていた。
(官職に就く気があるでもなく、遊び歩いているふうなのは、故あってのことか……)
「おい、ここで寝るな。眠るなら房間を用意する」
目を閉じ、うつらうつらし始めた暁賢の肩を揺する。
「おい、寝るなと言っている」
がくり、と肘枕が外れ、暁賢が目を開けた。
「……ああ、寝落ちしそうだったか」
「房間を用意させるから、自分で歩いて行け。おまえのようなでかい男を運びたくない」
「つれないやつだな」
欠伸をしながら、暁賢は頭を掻いた。袍の袖が上腕まで捲れ上がり、筋肉の引き締まった腕があらわになった。
腕に走る青い血管を見た瞬間、
どくん。
「――」
月祥の胸がざわめいた。身体の芯から、かすかに湧き上がる、衝動。
「……ああ」
暁賢は思いついたように呟いた。
「そういや、しばらくなかったな。おまえは客も取らんし――いいぞ」
屈託なく笑い、暁賢は月祥に片腕を差し出す。
「……おまえは……そんな、簡単に」
声が掠れる。猛烈な渇きが喉にひろがる。
「遠慮するな。人が飯を食うのと同じだろう。まあ、最初は驚いたけどな」
目の前に差し出された腕が、人の熱を放っているのが伝わる。皮膚の下に流れる生命の泉――血液の流れる音まで、聞こえてくる。
月祥は誘われるままに暁賢の腕をつかんだ。そして、肘の内側に唇を押し当て、歯を立てて皮膚を刺し、強く吸った。
口中に流れ込む、温かくて甘い蜜。暁賢の生命のひとすじが、見えない水流となって月祥の身の内に流れ込んでくる。力が満ちていくのがわかる。
月祥は、人ではない。西域の小国で、その存在を忌むべきものとして狩られ、稜に逃れてきた吸血鬼だった。
吸血鬼とはいえ、浴びるほど血を飲む必要はない。ほんのわずかの血と、人の精気を吸うことによって、数日は生き延びることができる。月祥はそのようにして、二百年もの時間を超えてきた。
二十一、二歳の青年のまま時間を止めた月祥は、人間の迫害から生き延びた同族の吸血鬼とともに沙漠を越え、大帝国稜に辿り着いた。唯一の男だった月祥は、女たちの生活と食事を維持するために、金繡楼を建てた。
妓女として毎日客を呼び、酔わせて楽しい気分の隙に、速やかに食事をする。吸血鬼の噛んだ皮膚に、傷痕はほとんど残らない。一夜の夢の契りで刻まれる口づけの痕、それに似た痣が残るだけ。
「……」
月祥の唇が離れた暁賢の肌にも、花弁のような赤い痣だけが残った。
「もういいのか」
「ああ……十分だ。――すまない」
「気にするな」
暁賢は笑いながら袖を戻す。息が乱れ、頬が上気している。吸われるほうにも、なにがしかの感覚があるようで、それは少し睦言のあとのような艶っぽさを感じる。
「失礼いたします。白公子、寝所をご用意いたしましたので、お休みであればどうぞ」
瑞星がやってきて、一礼する。
「気が利くな、瑞星」
暁賢は立ち上がり、
「先に休ませてもらうぞ、月祥」
「ああ」
瑞星の案内で暁賢は房間を出て行った。
「……」
ひとりになった房間で、月祥は長く息をつく。
暁賢からもらった血と気で、身体が温かい。苦蓬酒の酔いと混ざり合って、ふわふわとした心地よさに包まれた。
月祥が男であること、そして吸血鬼であることを知る人間は、暁賢と瑞星だけだ。金繡楼の下僕や下婢はなにも知らない。鶴慶坊のほかの青楼にも知られてはいない。
(――わたしたちだけでは、ないのだがな)
大帝国稜。その皇都永春。
東海の島国や大陸の西域、さらに西の果ての異民族の国々から、様々な人種が集まる大都城。
ここには、吸血鬼のみならず多くの異類の者が紛れ込み、人から隠れ、あるいは人と同じ姿形で生活を営みながら、存在しているのだ。
翌日の午近く、月祥が起き出すと、裏庭に人の気配がした。
吸血鬼は昼間も活動する。強い陽光はあまり得意ではないため、夜ほど活発には動けないが、普通の人間程度には外出もできる。
層下に降り、回廊を裏手に向かうと、庭に数人の下男、下婢が集まっていた。それに混ざって、身なりの良い背の高い青年が舞のような動きをしていた。
「暁賢……なにをしている」
「導引ですよ、太太」
隅で見物していた瑞星が答えた。
「導引? 気の呼吸法か。それにしては、あまり見たことがない型だが」
「はい。最近、急に流行してきた養生法で、〈 精魄道〉という道教系の教団が提唱している導引術です。舞を舞うようなゆるやかな身体の動きに、独特の呼吸法を合わせて、体内に清涼な空気を取り込むのです。それにより血の流れが整い、不老長寿に効果が高いのだとか」
「詳しいな」
「街中で案内書きが配布されているんですよ。〈精魄道〉の信徒が配っているのを見かけました」
「ふぅん。……で、なぜ、おまえがそこにいる」
「いやあ、面白そうだと思って混ぜてもらったが、結構疲れるぞ」
暁賢は少し息を上げながら、下僕たちの列から抜けてきた。
「なんにでも首を突っ込むのだな。閑人め」
「探求心に溢れていると言ってくれ」
「どうでもいいが、朝餉が済んだらとっとと帰ってくれ。廟客がいると噂が立ったらかなわない」
「そうするよ」
暁賢の返答を背中に聞いて、月祥は自房に戻った。
その日、西市の北端の側溝から、若い女の遺体が発見された。刑部の吏員が収容し、死因を確認したところ、遺体からは血液が抜き取られた痕跡があったという。