第8話
Q:寝起きに刃物を突きつけられると人はどうなる?
A:眠い。夢だと思ってもう一度寝る。
見知らぬ少女が馬乗りになって自分に刃物を突き付けている。ああ、きっと夢に違いない。こんな夢を見るなんて疲れてるのかな、ハハハ……
「ぐ~……ッ」
つまりウルのその反応は、極めて常識的な感性に則ったものだと言えた。ただしそれを見た相手が、そのように好意的に解釈してくれるとは限らないわけだが。
「…………死ね」
「──ふぎゃっ!?」
首筋にぷすっと──一センチほどナイフが刺さった感触に、ウルは身体を硬直させて短く悲鳴を上げた。驚いて飛びあがっていたら勢いで首に深く刺さっていたかもしれないので、状況の危うさにウルの全身から冷たい汗が噴き出る。
「──だれっ!?」
「…………」
襲撃者は反応を返さず、ただ冷たい目でこちらを見下ろしている。
ウルは先ほどの彼女のセリフを思い出し──『この家が誰のものか、知らないなんて言わせないわよ』──低姿勢で話しかけた。
「あの、もしもし……?」
「…………」
「その、この家が誰のものかとか、何か誤解があるよう、なんですが……」
喋ることでナイフが喉の大事な部分を傷つけないか、恐々と掠れた声で誤解を解こうとする。
「……誤解?」
「そ、そう、です。俺は家主から、正当な手続きを経て、ここを借りたんです、けど……」
ウルの言葉に、少女の琥珀の瞳が月明りを反射して冷たく光ったように見えた。そして次の瞬間、喉に刺さったナイフが更に深く肉を裂き、出血が首を伝ってシーツに落ちた。
「ひぅ……ッ!」
「そんな見え透いた嘘が通じると思うな。ここが爺ちゃんにとってどれだけ大切な場所だと思ってる。お前みたいなどこのゴブリンの耳とも分かんない奴に貸すわけないだろ」
淡々と、感情の籠らない声音で少女は言葉を紡ぐ。
ウルはそれに反論しようとしたが、今この少女に何を言っても話が通じるとは思えず──また、この状態で言葉を発せば気管など本当に危うい部分を傷つけてしまうのではと、身体をベッドに押し付けるようにして動きを止めた。
──どういうことっ? 誰コイツ? 勘違い……いやまさか、犬ジイにハメられたっ!?
恐怖から目を逸らすようにウルの思考は高速で回転する。
話の通じない謎の少女。その正体。激昂の理由。意味不明な言い分。あるいはここを自分に貸した犬ジイがこうなることを見越して、その手を汚さず婉曲に自分を殺そうとした可能性にまでウルの思考は飛躍した。
──俺を始末することぐらいあの爺さんなら簡単だろうに、わざわざこんな迂遠な方法で俺を始末しなけりゃいけない理由が何かあるのか……!?
客観的に見て、命の危機の迫った状況で、実際どうかも分からない分かったところでどうしようもない“自分が殺される理由”を考察する意味などない。そんなことを考える暇があるならこの危機をどう乗り切るかを考えるべきだ。しかしウルは現実逃避のために無意味で不確かな思考に没入する。
──単純に極力自分の手は汚さない主義? それともこの女と食い合わせるのが目的とか……?
ウルの命に手をかけているのは、年齢は自分とさほど変わらないだろう、小柄な少女だった。少しクセのある栗毛を肩のあたりまで伸ばし、冒険者かあるいは裏社会の住人か薄手の革鎧を身に纏い、ネックウォーマーで口元を隠している。目鼻立ちは整っており、こんな状況でなければシンプルに異性として好感を持っていたかもしれない。
「──それで?」
「────!?」
そんなウルの現実逃避妄想を遮るように、少女はナイフを持つ左手とは逆の右手の指を二本立て、それをウルの眼球に触れるか触れないかギリギリのところに突き付ける。
「答えなさい。あんたは一体何者で、何のつもりでこの家に住みついたのか」
少女の爪が眼球に微かに触れ、首のナイフから伝わってくる圧が増した気がした。
「誤魔化したり嘘をつけばどうなるか──分かるわね?」
「────」
分からない。分かりたくない。脅迫の手段は一つに絞ってください。情報量過多で僕の頭はおーばーひーとです。首ですか、眼球ですか、それとも両方ですか。その指は眼球突き抜けて脳まで逝っちゃったりしませんよね? それと何か喋らせたいなら喋れる状態にしてください。お願いします。物理的にもそうだけど精神的に。堅気の人間はこんな状況でまともに喋れたりしないと思うのです。
別にそんなウルの心情を慮ってくれたわけではあるまいが、ともかく少女もウルが物理的に発声が困難だということは理解してくれたらしい。喉に刺さっていたナイフは引き抜かれてのどぼとけのあたりにピタリと添えられ、眼球に触れていた指はウルの眼球運動から発言の真偽を判定するためか数センチだけ眼球から距離を取った。
少女は無言で顎をクイと動かし、ウルに発言を促す。
「え、と……」
だがこの時、ウルの思考は既にドン詰まりで真っ白になっていた。
だって言えと言われても、本当のことは最初に素直に伝えている。にも関わらず全く信じてもらえなかったのだから、今さら何を言えばいいのか内心若干キレ気味だった。
まあそれでも後から冷静に振り返ってみれば、辛抱強くもう一度同じ説明を繰り返し、信じてもらおうとすべきだったのだろうと、思う。
つまりこの時のウルはパニック状態で、全く冷静ではなかったのだ。
「俺がここに、いるのは……」
「…………」
小声でボソボソ喋るウルに、少女は聞こえづらかったのか眉を顰め、少しだけ顔を近づけ重心を動かす。
「四日前、に──ッ!」
「────!?」
──グワッ!
その瞬間、ウルは腰を周辺のバネだけで強引に跳ね上げ、跨っていた少女の身体を宙に浮かせる。
少女が平均より小柄かつ軽量であり、ウルの腰がビビッて引けていたことが結果的に予備動作を省略することに繋がり、ウルは一瞬だけ拘束から解放された。
そして宙に浮く少女の身体が再び重量に囚われるより早く、ウルは横に転がりベッドから落ちることで少女から距離を取る。落ちた衝撃で肩や腰を強く打ったが、その痛みは興奮状態で麻痺していた。
「ふざけた真似を──!」
ベッドの上に四つん這いに落下した少女が再びウルに飛びかかろうと体勢を整える。ウルは手近にあった消臭剤の瓶を投げつけ彼女の動きをけん制。瓶はナイフで受けられ割れてその場に散らばり、少女の動きが一瞬止まる。
──バリィン!!
ウルはその隙に部屋の壁に外套と一緒に掛けていた魔導銃に飛びつき、少女に銃口を突きつけた。
「くたばれッ!」
「舐めるなッ!」
──バサァッ!
それを見た少女は、ベッドから飛び降りると同時にシーツをウルと自分との間に広がるように放り投げ、視界を遮った。
──撃つか、それとも──っ!?
少女の狙いは的を絞らせない内に接近することだ、と判断。ウルは当てずっぽうで撃つか、それとも無駄撃ちせず確実に接近してきたところを狙い撃つかの二択を迫られ、判断に迷い結果的に後者を選択する。
シーツとウルの間には若干の距離があり、相手の動きを見てからでもギリギリ間に合う──
「──はぁっ!?」
しかしそれはシーツが魔法のように宙を舞ってウルを包み込み、巻き付いてこなければ、の話であった。
まるで念力のような不自然な動きで自分に纏わりつくシーツに、ウルは混乱し対処が一瞬遅れる。実のところシーツを動かす力はさほど強くはなく、その気になれば振り払うことは容易だったのだが、ウルの身体は魔導銃の引き金を引くことも忘れて硬直した。
そして。
「ふ、ふご──っ!!?」
──ゴキィンッ!!
シーツ越しに自分の下半身を貫く鈍い打撃にウルは悶絶し、激痛と共にその意識が刈り取られる。そして失神する寸前、彼の耳に少女の呆れた声が聞こえた気がした。
「まったく……大人しく白状すれば、爺ちゃんに見つかる前に逃がしてやろうと思ったのに……」
「う……あ……?」
ウルが意識を取り戻したのは太陽が山の稜線から顔を出したタイミング。普段の彼より、ほんの少しだけ早い目覚めだった。
シーツをそのままロープ代わりに使われているらしく、ウルは首から下がミノムシのようになって床に転がされ、手と足首がシーツの端で固く拘束されている。
そして、床の上で身体を横にゴロリと傾けたウルの目に飛び込んできたのは──
「まったく、お前って奴は……」
「うう、だってぇ……」
床の上に正座させられた少女と、彼女を心底呆れ頭が痛そうに見下ろす犬ジイの姿だった。