第19話
ゴブリン閑話回。
そのゴブリンはどこにでもいるごくありふれた存在だった。
その出生に特別なものは何もなく、決して特殊な加護や力を授かって生まれたわけではない。
彼が生まれたのは迷宮都市エンデから遠く離れた北方のオーク帝国近くの小さな迷宮。そこに住まうゴブリンの族長が、十数人いる妻の一人に孕ませた数百人いる子供の一人だ。
一族はオーク帝国の庇護下にあって人類との戦争に駆り出されており、彼らゴブリンは生まれながらの雑兵。人類に蹂躙され、オークに使い潰されながら、それでも無駄に高い繁殖力で種としての命脈を辛うじて繋いでいた。
繰り返すが、彼は何ら特別な力も背景も持たないありふれたゴブリンだった。
五歳を超えると他の兄弟たちと同様に武器を持たされ、碌な訓練もないまま戦場に投入されたが、初陣で彼は恐怖のあまり糞尿を垂れ流し、仲間の死体に埋もれ息を潜めていることしかできなかった。
元々ゴブリンの中でも体格はやや小柄で非力。足が速いわけでも武器の扱いに長けているわけでもない。果たして取り柄と言ってよいのか、臆病さからくる視野の広さだけが彼を死から遠ざけてくれた。
逃げ回ってばかりだったとはいえ、幾度も戦場を生き延びたことで僅かばかりではあるが彼も成長する。そして同じように生き延びた同胞たちとの間で友情めいた絆が結ばれていった。
──死んでほしくない。
自分一人が生き延びることにしか興味がなかったゴブリンに、新たな願いが生まれる。
そして考えた。どうすれば仲間たちを死なせずにすむのかを必死に。
──戦いに勝てばいい。
非力な彼はどうすれば自分たちが戦争に勝てるのかを考えた。
そして気づく。戦いには流れというものがあった。真っ向から互角の戦いをしている時、敵も味方もそれほど兵士は死なない。兵士が多く死ぬのは戦いの趨勢が決まった後だ。追い打ちを受ける時、囲まれ戦線が崩れた時、統帥が崩壊した時。
そしてこれが分かりやすく起こるのは指揮官が死んだ時だ。
彼はあらゆる手段を用いて戦場で敵の指揮官を殺していった。
時に死体に紛れて近づき。
時に乱戦の隙をついて。
はたまた時には上官であるオークを唆し利用して。
その甲斐あってか、局地的ではあれそのゴブリンが所属する部隊は戦場で連戦連勝を繰り返した。そして勝利する度、彼の手口は洗練され、狡猾となっていく。
仲間たちの死がゼロになったわけではない。
しかし確実に失われる命が減ったことに、彼は確かな手ごたえと喜びを感じていた。
そしてそれが思い上がりだと気づくまでに、さほど時間はかからなかった。
彼に見えていたのは自分たちの前に広がる狭い戦場だけ。そこでいくら小さな勝利を積み上げようと、戦局に大きな影響を及ぼすことはなく、戦争は変わらず続いた。
しかもなまじ成果を挙げたことで彼のいた部隊は上の目にとまり、より危険で過酷な戦場に投入されるようになってしまう。
使い捨ての道具としてすり潰され命を散らしていく仲間たち。その数を一つでも減らそうと彼は奮戦したが、その勝利が余計に彼らを危険な戦場に追いやってしまった。
彼もそれを理解していたが、手を抜けば今目の前にいる仲間たちが死んでいく。
八方ふさがりの状況で、彼は心を殺して自分にできることをこなし続け、いつしかその殺しの手口は同胞からも畏怖されるものとなっていた。
特別な身体能力や技術は必要ない。
ただ敵味方戦場の流れを見て、敵から狙われず死角となる位置に自分の身を置き、敵の急所を突く。言葉にすれば単純なそれだけの作業だったが、ついぞ仲間たちが彼の言葉を理解することはなかった。
どれだけの数の戦場を潜り抜けた頃だっただろう。
オーク帝国と人類の間に一時的ではあれ休戦期間がもたらされた。
それが自分たちの奮戦と無関係なものであったことは理解していたが、彼は喜び数年ぶりに故郷の迷宮へと戻る。
当時彼らの故郷でゴブリンの雄は成人すると同時に雑兵として出稼ぎに出るか、奴隷としてオーク帝国に出荷されるのが常。あれほど望んだ平和な時間が訪れたにもかかわらず、彼は生温い故郷の空気に馴染めない自分に驚いた。
そして彼ら戦士が戻ってきた時、故郷であるその迷宮には一つの異変が起きていた。
──迷宮のキャパを超えた魔物の増加。
その異常は、魔物は生息階層を超えて移動することがないという迷宮の原則を揺るがすまでになり、ゴブリンの集落も度々強力な魔物に襲われていた。
原因は分からない──が、魔物が増えたのなら間引くしかない。彼を始めとしたゴブリンの戦士たちは、積極的に迷宮内の魔物を狩っていった。
──しかしその迷宮は既に手遅れだった。
ある日突然、迷宮そのものが限界を迎えたように『ピシリ』と音を立て、崩壊する。
そして気が付いた時には彼らゴブリンは群れごと故郷とは違う別の迷宮の中へ放り出されていた。
当然、何が起きたのか状況を理解できた者はいない。
しかし彼は混乱する同胞と族長を落ち着かせ、状況の把握に努めた。
そして分かったのは、そこが彼らゴブリンが棲みついていた迷宮とは全く異なるものであり、しかも多くの人類が出入りしている──敵対する人類の支配圏に置かれているという最悪の事態。
どこに行っても、どこに逃げようとしても人間だらけ、行き場を失った同胞たちは絶望した。
彼は何とか人類の包囲を突破して安全な場所に移動しようと提案したが、恐怖と絶望に駆られた同胞に彼の声は届かない。その場に留まっていればいずれ人間たちに発見され殲滅されると諭しても、ほとんどのゴブリンはその場から動こうとしなかった。彼らは心の平穏を保つため不都合な情報をシャットアウトし、このままジッと息を潜めていればかつての日常が戻ってくるとなかば本気で信じていた。
そしてそれ以外の僅かな者たちは、逃げ場がないならいっそ戦って散ろうと覚悟を決めてしまう。
──駄目だ! 生きなければ!
同胞たちに降りかかった理不尽な状況に直面し、そのゴブリンは一人立ち上がった。
仲間を守る。時間を稼ぐ。説得してここから逃げ出す。
既に自分たちの存在は人間たちに認識されている。群れの正確な位置と規模が判明すれば、あっという間に自分たちは狩り尽くされてしまうだろう。そう考えた彼は、人間たちの斥候部隊を密かに襲撃し、始末していった。
既に存在が認識されている以上、斥候部隊の死を隠蔽してもさして時間は稼げない。ならばと彼はワザと群れから離れた位置で斥候部隊の死を匂わせ、人間たちに警戒させることでその足を鈍らせ、時間を稼ごうとした。
敵の斥候部隊は精鋭揃い。
戦って散ろうと意気込んでいた戦士たちでさえ遠目にその姿を見ただけで怖気づき、彼はたった一人で戦いに挑むこととなる。
──勝った。
どう考えても、何度思い返しても勝ち目のない戦いだったが、どういうわけか彼はそれに勝利した。
これだけの戦力がそうそう敵にいるとは思えない。この死を上手く利用すれば更に時間を稼げるかもしれないし、怯えていた仲間たちも自分の話を聞いてくれるに違いない。
そんな希望を抱いて仲間のもとに戻った彼が目にしたのは、彼の勝利に高揚した戦士たちと、『自分たちならこの地の人類を駆逐できる』と妄想を語りそれを煽る族長を始めとした非戦士たちだった。
彼が戦士たちに『無理だ、逃げよう!』と口にしても、彼らは『勇気づけられた』『俺もお前のように勇敢に戦ってみせる』と止まらない。
彼が族長たちに『無理だ、逃げよう!』と口にしても、彼らは『お前にもできた』『ここにはたくさんの戦士がいる』と無責任に笑い飛ばす。
彼は絶望し、全て投げ出したいと思ったが、彼を期待と希望に満ちた瞳で見つめる同胞たちを前に、それもできない。自分が彼らに火をつけてしまったのだと、義務感と絶望が彼を動かし続けた。
仲間たちは止まらない。
この地から人類を駆逐し、ゴブリンの王国を築くのだと本気で考えてしまっている。
いっそ敗北し、現実を見せるべきか。いや、そんなことをすれば仲間たちは完全に終わってしまう。
どうすればいいのか先の見えぬ絶望の中、彼──ゴブリンヒーローは仲間たちを率いて戦いを続ける。




