第9話
「誰が噂を流したか? そりゃ皇太子に決まってんだろ」
──ですよね~
呆れた様子で断言する老人に、ウルとレーツェルは『分かってた』と言いたげに乾いた笑みを浮かべた。
レオンハルト皇子やカノーネにまつわる噂に翻弄され身動きがとりづらくなってしまったウルたちは、困った末に素直に専門家を頼ることにした。
つまりこの街のスラムの顔役で、彼らが知る限り人類最高峰の斥候職である犬ジイ──レーツェルの祖父を。
皇族だの内紛だの情報工作だのはどう考えても本業冒険者のウルたちの手には余る。元々情報収集に関しては協力してもらっていたのだが、もうこうなったら全面的に放り投げてどうにかしてくれとお願いするつもりでやってきた。
犬ジイの事務所を訪れたのは彼と親しいウルとレーツェル、エレオノーレの三人。他のメンバーは待機か別件で動いている。
そしてウルたちが聞いた行商人風の二人組の情報や自治領主とのやり取りを説明し、どう思うか意見を聞いたところ帰ってきたのが冒頭のこのセリフだ。
レオンハルト皇子がエンデに潜伏しカノーネや迷宮都市を内紛に巻き込もうとしている、という噂の出所が皇子本人であろうことはウルたちにもある程度予想がついていた。ただ確証はなく、相手が相手だけに迂闊なことは言えなかっただけ。
「む? ちょっと待って欲しい。どうして皇子が噂を流したなんて話になるんだ? 皇子にとって不利な情報を皇子本人が漏らす理由がないだろう」
この場で唯一、皇子に疑いを持っていなかったエレオノーレが疑問を口にする。
犬ジイはそんな彼女の反応に『お前ら説明してなかったのか?』とウルとレーツェルを睨むが、二人は『私たち、不敬発言控えます』と目で語り返し薄ら笑いを浮かべた。
面倒な説明を押し付けられた犬ジイは後頭部をかいて嘆息一つ。
「ったく……あ~、嬢ちゃん。今、不利な情報って言ったが、その噂が流れたことによる皇太子の不利益ってのは具体的に何があるんだ?」
「ふむ……?」
犬ジイに聞き返され、エレオノーレは口元に手を当て少し考えるそぶりを見せた後、口開く。
「まず居場所が割れれば、叛乱を起こした皇帝の弟──オッペンハイム公だったか? 彼に身柄を狙われるリスクが高まるだろう」
「うん。それが一つだな」
「後は……結局、皇子は今すぐ皇帝になろうとしていたわけだろう? それは今の皇帝からしたら面白くないだろうし、知られたら何か罰を受けるんじゃないか」
「そうだな。帝位を簒奪しようとしていたって具体的な話までは伝わってないだろうが、今回の話はそれを疑われてもおかしくない内容だ。他には?」
「他に? う~ん……あ! 街に噂が広まれば、内紛に巻き込まれたくないと反対する人が出てくる。実際に私たちもそれが原因で襲われたわけだしな」
「うん。まあ、大体そんなとこだろ」
犬ジイはエレオノーレの言葉に満足そうに頷き、そして皮肉気に唇を歪めた。
「今言った三つは、どれも皇太子にとっちゃ大した問題じゃない」
「む……?」
鼻に皺を寄せ首をかしげるエレオノーレに、犬ジイは右手の指を一本ずつ折りながら説明する。
「まず最初の一つは現実的な危機にはなり得ない。帝都とエンデはざっと片道二週間の距離がある。オッペンハイム公も噂の真偽も確認しないまま大した人員は動かせないから、自治領主が皇太子を売らない限り守ることも逃がすことも難しくない」
「だがカノーネは、いざとなれば自治領主は皇子をオッペンハイム公に売るつもりだと言っていたぞ?」
「そりゃいざとなればだ。今はまだ売り飛ばすための条件が整ってない。自治領主も全力で皇太子を守ろうとするだろうよ」
「……売り飛ばすのに条件があるのか?」
「ああ。しかも値を吊り上げるための条件じゃない。安全確実に利益を上げるための必要条件だ」
それはつまり商人である自治領主にとって無視し難い条件という意味だ。
「具体的にその条件とは何だ?」
「オッペンハイム公の勝勢が確実であること。皇太子をオッペンハイム公に売り払って、結局皇帝が勝利したんじゃ自治領主は反逆者になっちまうからな。債権を回収できないどころの騒ぎじゃない」
「……確かに」
エレオノーレが深々と頷き、理解したのを見て犬ジイは説明を続けた。
「二つ目に関しちゃいくらでも弁解はきく。後々皇帝から疑いや不満を持たれる可能性はあるが、皇帝も弟から叛乱を起こされてる中、更に謀反の疑い有りってな理由で皇太子を処罰できると思うか? 身内に次々見限られた皇帝ってレッテルをはられて、国をまとめていくどころじゃなくちゃっちまうよ。皇太子からすりゃ、いずれ対決すると腹を括ってるなら気にするほどでもないし、案外もう既に親子間じゃそういう空気になってるのかもな」
確かにあの覇気溢れる皇子が、暗愚と噂の皇帝相手と上手くやっているイメージが湧かない。
「三つ目の住民の反対も気にしなくていい。何せ先に情報が漏れようが漏れまいが、実際にこの街を巻き込めば反対意見は出てくるわけだからな。遅いか早いかの違いでしかないし、先に噂を流して住民の反応を見てからの方が対策は立てやすいとも言える」
「ふむふむ……」
エレオノーレは犬ジイの説明に理解の色を示し、その上で根本的な疑問を口にした。
「この噂が皇子に大きな不利益を与えるものでないということは理解した。だがその場合、皇子がこの噂を流すことで得られる利益とは何だ?」
「自治領主とカノーネの協力──正確にはそれを得るための圧力、だろうな」
犬ジイは即答する。
「む? 噂が流れたことで二人との関係はむしろ悪化しているような気がするが……?」
「感情的にはな。それにしたって元がゼロやマイナスなんだ。そこは気にしなくてもいい」
「???」
協力を求めている相手の好感度を下げていいという犬ジイの発言ができず、エレオノーレの顔に大量の疑問符が浮かぶ。
犬ジイは彼女のそんなピュアな反応に苦笑し、続けた。
「要は外堀を埋めて協力せざるを得ない状況を作り出そうとしてるんだろうよ。今回の一件で皇太子は自治領主がオッペンハイム公寄りの対応をとったんじゃねぇかと疑いを持った──ということになってる。つまり戦後、皇帝や皇太子が勝った場合を想定して、自治領主は皇太子にある程度協力的な態度をとらざるを得なくなったわけだ。……まあ、実際それだけじゃ引き込むには弱いから、恐らく自治領主との関係じゃこれはジャブみたいなもんで、こっからまだ本格的にエンデを陣営に引き込むための二の矢、三の矢があるとみたね」
「ふむ……カノーネに対しては?」
「あいつも噂のせいで大手を振って街を歩きづらくなってるだろう?」
表立ってカノーネに文句を言う人間は出てきていないが、内心彼女の存在を疎ましく思っている人間は一定数いると予想される。
それを察してか、カノーネはここ数日一歩もウルの自宅から外に出ていない。
また、ウルたちが先走った馬鹿な連中に襲われた一件に関しても、カノーネ自身には何の責任もないが、色々と思うところはあったようだ。
「だが噂のせいでカノーネが街を出ていったら? 行方を晦ましたらどうする?」
「その場合、厄介な皇太子の存在だけがエンデに残って、住民のヘイトがお前さんらに向く可能性がある。仮に皇太子がエンデを出ていったとしても、大半の住民にはそれを確認する手段がないんだからな。で、そのリスクを排除できないカノーネは、これ以上余計な真似をさせないよう皇太子との交渉に応じる可能性が出てくる」
エレオノーレは犬ジイの説明を腕組みしながら暫し考え込み、やがて疑わし気に首を傾げた。
「……そんなに上手く行くかな?」
「さあな」
犬ジイはアッサリ肩を竦める。
「さっきも言ったように、これはジャブみたいなもんでまだ皇太子には二人を動かす二の矢、三の矢があるのかもしれんし、皇太子がどの程度まで考えてるのかは俺にゃ分からんよ。だが話を聞く限り、このまま真っ当に交渉を続けても自治領主やカノーネが交渉に応じる可能性は低い。なら上手くいかなくても皇太子には特に失うものはないんじゃないか?」
「……なるほど」
そこまで説明されて、エレオノーレは今この街で流れている噂の正体についてようやく理解したようだ。
だがこれはあくまでスタート地点。この噂の厄介な所は、その背景や意図を見抜いても、対処のしようが無いということにあった。




