第5話
「状況はどうだ?」
戦陣とは思えぬほど贅を尽くした天幕の中で、黒髪黒髭の偉丈夫が問いかける。
その傍らには男のものと思しき黒獅子の紋章が刻まれた甲冑が置かれており、彼が皇族であることを示していた。
答えたのは灰色の髪を持つ痩せぎすで病的な雰囲気を漂わせた中年の男。
「ゲラー伯爵とリップマン子爵が新たに公に付く旨の返答を寄越してきております。しかし──」
「分かっておる。領地周辺の情勢が不安定なため表立って兵を出すことはできんと言うのだろう?」
「……御意」
痩せぎすの男の肯定に、黒髪の偉丈夫は詰まらなそうに鼻を鳴らした。
「どうせ兄上からの誘いにも裏で同じように答えておるのだろうさ。自ら立つ気概もない風見鶏どもなど最初から当てにはしておらん」
偉丈夫の名はオッペンハイム公フリード。
現在帝国を二分する内紛を引き起こした張本人であり、現皇帝オトフリート二世の異母弟。母親の血筋は兄より良く、先帝が早くに崩御しなければ兄ではなく彼が玉座についていただろうともっぱらの評判だ。
優秀な武人、軍人として知られており、やや武断的過ぎるきらいはあるものの内政家としても水準以上の能力を有している。
そんな彼が暗愚と噂される兄を排して帝位に付くと行動を起こしたことに関し、貴族の間で特に驚きはなかった。
「……閣下。お気持ちは分かりますが、この帝国は彼ら地方貴族を無視しては立ち行かぬのが現実です。くれぐれもそのような態度は──」
「分かっておる。少なくとも風見鶏どもは情勢が決するまで兄上に付くこともない。それで十分だ」
「…………」
オッペンハイム公を諫めたのは、この内戦において真っ先にオッペンハイム公に付くことを宣言したヒルデスハイム伯ルーフェン。
ヒルデスハイム伯はオッペンハイム公の母方の縁戚にあたり、公にとっては兄のような存在だ。
豪快な武人然としたオッペンハイム公と陰気な謀略家然としたヒルデスハイム伯は正反対で、周囲から水と油のように思われているが、公はこの陰気な兄貴分を誰より信頼していた。
「しかしヒルデスハイム伯。このまま調略を続けても兵が増えることはない。後のことを考えれば力攻めを行うべきではないとの卿の意見には賛同するが、このまま永遠に兄上の軍と対陣し続けるわけにもいくまい」
「……ご安心を。近々、我らに付くと宣言したメッサーシュミット男爵が裏切り、閣下を騙し討ちする予定があります。それを口実に男爵家を根切りにし、同じ目に遭いたくなければ旗色を明らかにするよう地方貴族どもに迫れば、風を読むことに長けた彼らは雪崩れ込むように閣下の元に馳せ参じることでしょう」
「ふむ……まあ弱兵であれ人質を取って先陣を任せれば盾代わりにはなるか」
未来の裏切りを“予定”として語るヒルデスハイム伯の言を、顎髭を撫でつけながら当然のように受け入れるオッペンハイム公。
ヒルデスハイム伯の言葉が男爵の叛意を知っているというだけでなく既にコントロール下に置いていることを公は正しく理解していた。
「だが、そこまで段取りが出来ているのなら何故早くことを起こさぬのだ? 時間をかけても兄上が有利になることはあるまいが、兵糧や兵の負担は馬鹿にならん。つまらん策を巡らす者もでてくるだろう」
早く裏切らせろというオッペンハイム公の言葉に、ヒルデスハイム伯は静かにかぶりを横に振った。
「レオンハルト皇子の行方が掴めておりません」
「む……」
オッペンハイム公の眉間に皺が刻まれる。
「彼を取り逃す、あるいは既に彼が帝都を離れていた場合には些か厄介なことになりかねません。残念ながら正当性という一点において、我々はレオンハルト皇子に劣後しておりますので」
「……我に従わぬ貴族どもを率いて帝国を割る程度ならまだしも、国外に出て他国に取り込まれるようなことがあれば……確かに厄介だな」
渋々ながらオッペンハイム公はヒルデスハイム伯の言を受け入れる。
「……やむを得ん。レオンハルトの確保を最優先に──ただし我らが奴を見失っていることを他の貴族どもには悟られぬよう動け」
「御意」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ゴドウィンは今頃、私を売り飛ばす算段をしているのだろうな」
レオンハルト皇子は自治領主ゴドウィンに貸し与えられた彼の別邸でソファーに座り、側近二人に向けて冷ややかな声音で吐き捨てた。
その表情にウルたちの前で見せた柔和さや親しみやすさはない。
「……殿下。あまり大きな声で話されては」
側近の騎士の一人が、ゴドウィンの手の者はここでの会話に耳をそばだてている可能性を懸念し、皇子を窘める。
だがレオンハルト皇子は気にした様子もなくそれを鼻で嗤った。
「心配するな。ゴドウィンは盗聴などといった小細工などせんさ」
『…………?』
騎士二人は皇子の言葉の意味が分からず顔を見合わせる。
「奴からすれば、万一にも小細工が露見して私の不興を買うことは避けたいはずだ。情勢が明らかになるまでそのような隙を見せるほど愚かではあるまい」
なるほど、と納得したように頷く騎士たちだが、彼らは果たして理解してるのだろうか?
──いや、理解していればそんな表情ができるはずもない、か。つまるところゴドウィンは、私の思惑などいかようにも無視できると見下しているのだからな。
自分の意を理解できない愚鈍な者しか周囲にいない現状に、レオンハルト皇子は表情には出さず内心溜め息を吐いた。
本来であれば皇太子である彼の周りには信頼できる高位貴族の側近たちが侍っているはずだった。だが彼は父であるオトフリート二世の意向によりそうした高位貴族の子弟と交友を持つことが許されず、側近らしい側近を持てずにいた。
社交界に積極的に顔を出し何とか顔を繋いだ者たちもいたが、そうした縁も全て皇帝である父により引き剥がされてしまった。
恐らくレオンハルトが他の貴族と連携し、皇帝の地位を脅かすことを恐れているのだろうが……
結果、レオンハルトが皇太子であるにも関わらず、側近として侍らせているのは下級貴族の子弟ばかり。彼らは皇太子の側近として十分な教育を受けているとは言えない。彼らを責めたり不満をぶつけるつもりは毛頭ないが、やはりこうした状況では物足りないと感じてしまう。
「それで殿下。今後はどう動かれる予定ですか? ゴドウィンやカノーネ殿の協力が得られないのであれば、これ以上エンデに留まる理由はないかと思われますが」
騎士からの問いかけに『少しは自分で考えろ』という言葉を呑み込み、レオンハルト皇子は少し考えるそぶりをしながら口を開いた。
「……いや、下手に動けば我々の居場所が露見する可能性がある。父上はまだしも、叔父上に見つかるのはまずい」
オッペンハイム公の手に落ちれば十中八九即座に首を斬られ、良くて短期間傀儡の皇帝として利用されて終わりだろう。またこの状況でゴドウィンが自分を見逃すとも考えにくい。
「ですがこのままここに留まっていても……」
「やはり各地の貴族の元を回り、殿下への支持を訴えるべきでは?」
考えの足りない側近二人に怒鳴りつけなくなる自分を抑え込み、レオンハルト皇子は努めて冷静に言った。
「その貴族の中に、私を叔父上に売り飛ばしてその歓心を買おうとする者がいたらどうする?」
「それは……」
「確かにここにいても危険はあるが、ゴドウィンは貴族ではないし積極的に叔父上に取り入っても得るものは少ない。到底信頼はできる相手ではないが、少なくとも計算はできる男だ。情勢が明らかとなるまで私に害を加えることはないだろう」
その説明に側近二人は理解はしたが納得はできていない様子だった。
「……では、このままこの街に留まり静観する、と?」
「いや──何としてもカノーネを落とす」
レオンハルト皇子の宣言に、側近二人は目を丸くした。
その様子に皇子は、ひょっとして自分はこの状況でエルフの小娘の尻を追いかける小児愛好家に見えているのではと不安になり、苦笑してしまう。
「今私たちに必要なのは私の身柄を狙う者たちの手を跳ね除けられる“力”だ。カノーネの協力さえ得られれば大抵の敵は蹴散らせるし、いざとなれば彼女の魔術でどうとでも逃げ出せる。それこそ各地の貴族を回って支援を訴えるのもスムーズに進むだろう」
「なるほど……!」
ようやく皇子がこの状況でカノーネに執心してた理由を理解し、騎士の一人が目を輝かせる。
しかしもう一人の騎士は話し合いの場でのカノーネの様子を思い出したのか、暗い表情のままだ。
「しかしあの様子ではとても協力してくれそうにはありませんが……地位や権力にも興味がなさそうですし、いったいどうすれば……」
皇子は敢えて自信たっぷりな表情を作って微笑んだ。
「なに、やりようはいくらでもある。別に飴にこだわってやる必要もないのだからな」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「オッペンハイム公は各地の貴族に積極的に働きかけを行っており、帝都内に侵入する密偵の数も増えてきております。このまま放置すれば、決戦時に我らを裏切りオッペンハイム公に与する貴族が現れぬとも──」
「よい。放っておけ」
私室で薄い衣を纏った美女を侍らせ、盃に酒を注がせながら皇帝オトフリート二世は宰相の奏上を一言で切って捨てた。
皇帝と付き合いの長い宰相も、その状況を理解していないともとれる発言には目を丸くし、思わず聞き返してしまう。
「…………は?」
皇帝は宰相の反応に気を悪くした様子もなく、美女の胸を無遠慮に揉みしだき嬌声を響かせながら薄ら笑いを浮かべる。
「放っておけと言うたのじゃ。どうせレオンハルトが都におらん今、奴がこちらを攻めてくることはない。奴は図体の割に胆が小さいでな。このまま膠着状態を維持せよ。奴らの兵糧も無限ではない。半年もすれば疲弊して領地に戻るであろうよ」
ひょっひょっひょ、と笑いながら美女の尻を撫で胸に顔をうずめる姿はただのスケベ爺。
皇帝の義兄にあたる宰相リューベック侯爵はそのだらしない姿に漏れ出そうになる溜め息をこらえ、曖昧に「は、はぁ……」と頷いた。
皇帝はまだ四十五歳男盛りのはずだが、不摂生が祟って見た目はすっかり老い衰え、若かりし頃は美麗だった金髪も白髪がまじりくすんでしまっている。
内心『貴方が皇太子に早く帝位を譲っていればこんなことには……』と慨嘆しつつ、宰相は自らの職責を全うすべく再び口を開いた。
「ですが、我々にもレオンハルト殿下の行方は掴めておりません。万一にもオッペンハイム公の手に落ちる前に──」
「おお、そうじゃの!」
宰相の言葉に皇帝は何かに気づいた様子で膝を叩き、続けた。
「レオンハルトが殺された場合に備え、クリストフに立太子の準備をさせておかんといかんな」
「…………は? い、いえ、それよりもレオンハルト殿下の身の安全を──」
「ほっほ。レオンハルトを殺せば愚弟の叛乱は完全に正当性を失う。殺すというなら殺させてやればよいのよ。まあ、アレもそこまで考え無しではあるまいが……準備はしておいた方がよかろうて」
「…………」
顔色一つ変えず息子の死について語る皇帝。
その好色でだらしなく歪んだ笑みが、宰相にはまるで分厚い道化の仮面のように見えた。




