五.姉
両家への結婚報告も無事済んで、二人は一旦、それぞれの生活に戻った。俺には、後数ヶ月という短い期間の中で、やるべきことが山程ある。さて、何からやるべきか。考えるより先に手ばかりが動く。チーズケーキが出来上がって、はて?と状況整理をしようと思っていたら、チャイムが鳴った。扉を開けると、海外に仕事に出ていったきり、音信不通になっていた姉が立っていた。
「久しぶり。」
「…久しぶり。」
「いい匂いがする。」
「あぁ、今ちょうどチーズケーキが出来た。」
「出来た?」
「俺の手作り。」
「何それ、食べるしかないじゃん。上がるわよ。」
「…どうぞ。」
神崎小百合。六歳年上の姉は、自由奔放で野心家で、花屋を継ぐ気はさらさらなく、美しい女性達をプロデュースすべく、海外に飛んでいた。年は離れていたから、可愛がってもらったし、夢にひたすらまっすぐな姉の背中に、両親とは違う色の憧れを見ていた。だから、連絡が途絶えてしまったことは、少しだけ、寂しかった。
出来立てのチーズケーキを一切れ、慎重に皿に置く。最後に見た姉も綺麗だったが、今の姉は美しさを増している。自分磨きが上手なんだな、と思いながら、皿とフォークを持っていき、姉の前に出した。
「母さんから聞いたわよ、あんた、弥生ちゃんと結婚するんだって?」
「うん。」
「本当なの?嘘じゃなくて?」
「嘘じゃねぇよ。」
「母さんがあたしを驚かそうとしてるだけじゃなくて?本当に?紫郎が?弥生ちゃんと?」
「だから嘘じゃねぇって。」
姉は興奮を抑えるように、息を吸って吐いた。チーズケーキを一口食べると、目を見開いてこちらを見る。
「何これ、すんごい美味しい。」
「だろ?」
「あんたのお菓子作りの腕がこんなに上がってるとはねぇ。」
「まぁな。」
「ね、コーヒー飲みたいな。」
「…紅茶か緑茶しかない。」
「そうなの。じゃあ紅茶、入れてくれる?」
話のテンポが早いのと、話が変わるテンポが早いのは相変わらず。不思議と、姉のこのテンポに巻き込まれることを、嫌だと感じたことはない。紅茶を入れるため台所に向かう。その後ろを音もなく付いてくる姉。驚いているのを悟られないように、淡々と紅茶を入れる。姉はその様子をまじまじと見つめてくる。父親譲りで長身な俺の肩に、顎を乗せる姉も割と長身。紅茶のいい香りに混ざって香ってくるのは、ユリの香りだ。姉の香水か?ユリの花言葉は、"洗練された美"。姉を現すのには相応しすぎる花言葉だ。しかも名前も小百合だし。
「あたしさー、弥生ちゃんのこと、めちゃくちゃ大好きなんだよね。」
「知ってる。なんか、年の離れた妹みたいって言ってたよな。」
「めちゃくちゃ可愛いし、紫郎のこと大好きだし、こんな愚弟でいいなら絶対嫁に来て!ってずーっと思ってたもん。」
「なんだそれ。」
「あんたが喧嘩で忙しくしてる間も、よく遊びに来てくれてたんだよ。」
「へぇ。」
「嬉しいなぁ。弥生ちゃんにも会いに行かなきゃ。」
「連絡してから行けよ?」
「もちろん。」
紅茶の入ったカップを差し出すと、姉はその場で立ったまま飲み始めた。伏目がちなその表情に、母の面影を見た。
「結婚かぁー。」
「姉貴はしないの?」
「うーん、あたしは多分、向いてないと思う。」
「そうなのか?」
「いいの別に。一人は楽。それに、なんだかんだで仕事が一番なのよ。好いてくれる人よりも、好きになった人よりも。」
「ふーん。」
「紫郎は弥生ちゃんのこと、ちゃんと幸せにしてあげなよ。泣かしたら許さないから。」
「…分かってるよ。」
弥生を幸せにすることは、あの花束に誓った。だから、その言葉の重みもしっかりと受け取って、やるべきことを一つずつ解決していく。…そうだ、一つずつ、解決していかなければならないんだった。チーズケーキを焼いたり、姉の相手をしたり、そんなことをしている暇は、ないはずだ。
「弥生ちゃんのブライダルケアは、あたしに任せてね。」
「え、まじか。」
「何よ、嫌なの?」
「いや違くて。姉貴がやってくれたらいいなって、思ってて。」
「何よ、なんか照れるじゃない。」
「助かるわ。よろしく頼む。」
「報酬は、焼き菓子の詰め合わせで。もちろん、あんたの手作りのね。」
「お安いご用で。」
飲み終えた紅茶のカップをシンクに置いて、姉はそのまま玄関に向かって、靴を履き始めた。
「帰る?」
「えぇ、とりあえずあんたの顔を見たくて来ただけだから。」
「わざわざどうも。」
「あと、明日の夕方の飛行機で帰るから、焼き菓子の詰め合わせは、明日のお昼までにこのホテルに届けてちょうだいね。」
「は?」
高いヒールを履き終えてこちらを向いた姉の目線は、玄関先まで見送りに来た俺の目線と同じ高さになっていた。姉は、滞在先の書かれた紙切れを差し出して、悪戯な笑みを浮かべる。
「お姉様の美貌に驚いているようじゃ、まだまだね。」
はっと我に帰ると、手には紙切れ。玄関の扉は閉まっていて、ユリの残り香が漂っていた。久しぶりに会った姉の魔性さに、少しだけあてられてしまったようだ。山程あるやるべきことに、"早急"に"やらなければいけないこと"が増えてしまったので、バイト前に買い出しに行かなければならない。
間に合うか?いや、間に合わせる。
秋の気配が微塵もしない夕方の街に、俺は駆け出していった。




